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ジュジュツナギ  作者: 雪野螢
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ジュジュツナギ(下)


「もしもーし……」

『あ、時雨、寝てた?』

「うーん……」

『もうね、昼前だよ』

 携帯電話の着信音で目覚め、むっくり起床した。

 どうやら相手は楓のようだ。俺はその場で胡坐を掻く。枕元の目覚まし時計で現在時刻を確認すれば、確かにもうすぐ正午に至る時間に差し迫っていた。

「ああ……ちょっと寝すぎたな。昨日、いろいろあって……」

『いろいろ?』

「楓が先に帰った後、那智と一緒にいたんだけど……その時、まあ、諸々な。それで寝付けなかったんだよ」

 今日は週末、日曜であり、補習授業は週に一度の定休の日となっている。

 そのため、昨日は夜更かししつつ黙考に耽ていたのだが……那智の謎の言動については、結局答えが出なかった。

「楓の意見も仰ぎたいし、ちょっと聞いてくれよ」

『うん……それはそれでいいんだけど、時雨、約束については?』

「えー?」

 恍けた返事に呆れたのか、携帯電話の向こう側から大きな溜め息声がした。

『えー、じゃないでしょ。言ったでしょ。昨日は顔色が悪かったし、明日こそは外来するって僕と約束したじゃない』

「したっけ……?」

『した! 絶対した!』

「まあまあ……楓、落ち着けよ」

 本当は約束は憶えている。しかし、俺は実のところ通院したくはなかったのだ。

 十六年の経験上、今の状態で病院に行けば入院は必至だ。間違いない。けれども、それでは通学できず……補習を受けられなくなるし、何より那智に会えなくなるのは一番避けたいことだった。

「それより! 楓、提案があるんだ」

『まーたそうやって話を逸らす!』

「待て待て、そんなつもりはない。俺、今日は病院はともかく、外出の予定はあるんだよ。だからそれに付き合ってくれ。お目付け役としてさ」

『目付け……?』

「楓、ずばり今日は何日?」「えっと、二十四日だけど」――俺は密かに企てていた作戦計画を説明する。彼は最初はこちらの話を半分くらいに聞いていたが、次第に「ふんふん」「なるほどねえ」と納得し出したようだった。

『あー、もう……狡いよねえ。そんなの打ち明けられちゃったらさ、付き合わざるを得ないじゃない』

「けけけ。そうだろ。作戦通り!」

『何か言った?』

「……いえ、何も!」

 遂に折れた我が親友の呆れ顔が目に浮かぶ。

 楓は俺の病状悪化を察知してはいるものの、吐血の件は隠しているのでそのことだけは知らないのだ。仮にそこまで話してしまえば今のような態度でなく、彼は本気で怒って俺は病院に担ぎ込まれるだろう。

「……」

 脳裏の罪悪感は拭いきれないものであり、日に日に募る一方だが……。

「残り僅かの時間だけ」と、俺は楓に縋っていた。

『あーあ、分かった分かったよ。今日のところは譲歩する。だけど、時雨の体調次第で取るべき行動を取るからね』

「サンキュー。それじゃあ……よろしく頼む」

『了解。すぐに向かうから』

 結果、楓がこちらの家に足を運んでくれるらしい。集合した後、彼と二人で街に出かける寸法だ。

「……」

 せめて、一日だけ。今日の一日、乗り切れば――。

 俺は胸に片手を添えて、そうして、外出の準備をした。




 普段通り早起きしてから普段通り登校した。保健室の引き戸を開けば鈴谷先生がそこにいて、日ノ本君がやってきたら授業が始まるはずだった。

 しかし、わたしは朝から早々大きなポカを仕出かした。

 思えば、今日は日曜であり……補習はお休みなのである。

「……」

 ぽつんと項垂れつつ、いつものベッドに腰掛ける。明日が定休日ということを昨日の段階で忘れていた。忘れていたというより、少し……舞い上がっていたのだろう。日ノ本君に会えると思うと、何だか……胸がわくわくして、早く学校に行かなくてはと気持ちが逸ってしまったのだ。

 わたしがこうして保健室に入れたことを鑑みるに、先生はここの鍵を開けて一旦どこかに行ったらしい。どこかというのは十中八九、職員室だと思うのだが、敢えて自ら顔を出すのも間抜けな気がしてならないので……わたしはこうして彼女を待ち、この場に居座ることにした。

 何も言わずに気付かれないまま立ち去ることもできたのだが、せめて一度先生の顔を見てから帰りたかったのだ。

「ふう……」

 不意に頭の中が彼のことでいっぱいになる。昨日からのわたしは変だ。いや、それは元々だが……。

 これが恋だと、慕情なのだと、わたしはようやく知り得ていた。自覚するのも理解するのも大分遅れてしまったが、初めて人を好きになった――それは間違いないことだ。こういうことかと、そういうことかと一人で納得する反面、わたしはこれからどうしようかと目下検討中だった。

「……」

 彼と出会ってからというもの、わたしは変わっていた。それはきっといけないことで、許されないと思うのだが……そんな自分の心変わりに、わたしは少し浮かれていた。

「!」

 引き戸の向こう側から物音がして、はっとする。それは一人の足音だったが、恐らく……先生のものではなく、静かな校内に小さく響くとても落ち着いた音だった。

 わたしは咄嗟に毛布を被り、我が身を隠して黙りした。別に隠れる理由はないし、何となしではあるのだが……虫の知らせというやつなのか、身体が勝手に動いたのだ。

 がらがら。

 廊下を素通りしていくだけであれば……よかったが、やはりどこかの誰かさんはこの室内に入ってきた。気持ち遠慮がちな歩調で付近を歩き回っている。教師なのか生徒なのか、それさえ判別できないが、どちらにしてもこんなところに長居なんてしないはずだ。

 養護教諭の鈴谷先生に用があって来たのなら、尚更すぐに踵を返しこの場を立ち去ることだろう。

「……」

 などと高を括り気配を消していたのだが、しかし、どこかの誰かさんはなかなか退室しなかった。一体、何が目的なのか……考案してはみたものの、真っ暗闇のこの視界ではわたしに知る術なんてない。

 息を潜めて微動だにせずベッドの上に伏せていると、次の瞬間、こちらに向かってその人物が動き出した。ぎしりぎしりと木床を鳴らし、ベッドの横まで迫ってきて、わたしの存在に気付いたのか――謎の人物は停止した。

「ねえねえ、まさか篠宮さん?」

「!」

「篠宮さんだよね?」

 一本指でつんつんつつかれ、わたしは「ひゃあ!」と飛び起きた。

 わたしの隣りに立っていたのは、一年二組の女子生徒――同学年で吹奏楽部の、曙愛花さんだった。

「あー、やっぱり篠宮さんだ。おはよう!」

「おはよう……ございます……?」

 ベッドの上にぺたんと座る。きっとわたしは鳩豆顔を浮かべてしまっているのだろう。

 曙さんはこちらを窺い、無邪気にくすくす笑っていて、わたしは慌てて取り繕った。

 ごほんごほんと咳をつく。

「何気に話すの初めてだねえ。愛花のこと、分かる?」

「はい……」

「そっか。だったらよかったよ。愛花、実は篠宮さんと話がしたいと思ってたの。そういう意味では渡りに船で、うん……丁度よかった」

「……」

「ところで、今日はお休みなのにどうして学校に来たの?」

「えっ……」

「だってだって、休講でしょ? 寝てたし、何か理由が?」

「……」

 ぎくり。わたしは痛いところを突かれて沈黙してしまう。

「勘違いして登校した」など……恥ずかしくって言えないのだ。

「うーん、まあ、別にいいか。篠宮さんの自由だし」

「……」

「それより、訊いてもいい? 絆創膏を置いてる場所」

 言って、曙さんはこちらに自分の掌を差し出した。その指先には二枚も三枚も絆創膏が巻かれていて、しかし、そのうち一箇所だけは傷が剥き出しになっていた。

 親指の先がぱっくり割れて小さな裂傷ができている。彼女は「ごめんね。痛々しいね」とすぐに手傷を隠したが、わたしは別に……血を見たところで何とも思っていなかった。

「今ね、吹部の練習中で、へまして怪我しちゃったんだ」

「あ、それで保健室に……?」

「そうなの。手持ちが切れちゃって」

 なるほど。ようやく合点がいく。曙さんは絆創膏を貰いにここに来たらしい。

 わたしは隅の戸棚を指差し、小さく「あそこ」と呟いた。鈴谷先生の仕事はいつもベッドの上から見ていたので、保健室の薬や道具の配置は大体知っている。わたしにとってこの室内は庭のようなものであり、絆創膏の置き場所くらいはもちろん理解に及んでいた。

「あー、あそこは探してなかった。あっちの戸棚だったの?」

「……」

「ほんとだ! めっけ! 絆創膏だ! こいつめ! 手間取らせたな!」

「……」

 随分歩き回っていたが、在り処が分からなかったらしい。曙さんは絆創膏を見つけ、わたしに見せつけて、そうして再び戻ってきた。

 何だか……イメージと違う人だ。

「篠宮さんに感謝感謝。ありがと。助かっちゃった」

「はあ……」

「それじゃあ、ここ、座っていい?」

「え……」

「お話したいんだもん」

 不意の申し出に一驚する。確かに、さっき……そんなことを言っていた気はするのだが。

 けれども、正直、わたしの中には負の感情が芽生えていた。曙愛花、吹奏楽部、三人組の女子生徒――先日、際した嫌なことを思い出していたのである。

「部活は……?」

「今は自主練中。ちょっとくらいなら平気」

「……」

「まあ、ほとんど初対面だし、ちょっぴり気不味いかもだけど……でもね、少しだけでいいから、愛花の話を聞いてほしい」

 あくまで真面目なそんな両目に、わたしは捉えられていた。曙さんの話については、すでに察しがついていた。恐らく、きっと、いや、絶対……日ノ本君のことだろう。それは分かっているにしても、しかし無下にもできなくて……わたしは黙って頷いた。

 彼女は頭を垂れていた。

「あのね、愛花は……篠宮さんに謝りたかったんだ」

「……?」

「悪かったって思ってたんだ。それで……謝りたかった」

「……?」

「篠宮さんは愛花のこと、許さないかもしれないけど……それでも、今こそお詫びしたい」

「……?」

「ほんとに……ごめんなさい!」

 一気に捲くし立てるや否や、曙さんが腰を折る。深く深く頭を下げて……何に謝っているのだろう。

 わたしは目蓋をぱちくりさせる。曙さんがこちらを見た。彼女も目蓋をぱちくりさせる。

 ええっと……どういうことだろう。

「日ノ本君に聞いてない……? こないだのこと」

「こないだ……?」

「……」

 何が何だか分からないが、曙さんは悟ったらしい。しばらく立ち尽くしていたものの、彼女は膝を引っ叩いた。

「うわー、あんにゃろ! そういうことか! ちくしょー、なんてこった……」

「はい……?」

「あーあ、日ノ本君のせいで謝罪が台なしになっちゃった。せっかく勇気を出したってのに……もう! あったま来ちゃう!」

「ええ……?」

 疑問符だらけのわたしの頭は現状パンク寸前だ。てっきり日ノ本君のことで怒られるのかと思ったが、どうやらそうではないらしい……内心、少しほっとした。

「冗談はさておき」などと添えて、曙さんが窓辺に寄る。彼女はこちらに背を向けたまま、右手の――体育館を見た。

「ごめんね。ぐだぐだしちゃったね。だけど、きちんと話したいから……一から説明するよ」

「……」

「愛花、こないだ告白したんだ。日ノ本君に――振られたけど」

 こちらを見返し、曙さんは「あはは」と強がり、笑っていた。

 わたしはそれを知っていたが、黙って彼女の話を聞く。

「でね、その時……日ノ本君についつい言っちゃったんだ」

「何を……?」

「篠宮さんの悪口だよ。彼の前で、全部」

「……」

「その後、愛花、日ノ本君に怒られちゃってね。逃げちゃった。その日はそれで終わって、だけど……二日後、彼がやってきたの。吹部の部活に割って入って、凄い剣幕だった」

「え……?」

 わたしは戸惑い、混乱した。曙さんの告白日から数えて二日ということは、それはわたしが体調不良で補習を欠席した日である。日ノ本君が補習をサボった――それも同日のことであり、つまりその間、彼は吹部を訪ねていたと。

 そうなるのだ。

「どういうこと……? 日ノ本君は何のために、どうして……?」

「……」

「曙さん、お願い。教えて。その日……何があったか」

「……」

 曙さんはゆっくりゆっくり歩き、こちらに戻ってきて、わたしの片手を両手で握り、呼吸を整え――口を開けた。

「愛花が彼に告白をして、振られちゃって……その翌日。吹部の子たちがここに来たよね。三人組の女子が」

「あ……」

 わたしが「まさか」と目を合わせると、曙さんは頷いた。

 後悔、悲しみ、傷心、謝意……そんな瞳の色だった。

「日ノ本君はその三人にお灸を据えに来たんだよ。何があったか聞き出してから、あっという間に収拾をつけて……嵐のように立ち去ったの。顧問もびっくりしてた」

「……」

「三人はわんわん泣き出しちゃって、愛花は三人をあやしてて……訊いたら、みんなは愛花のために意地悪したって言ってたの。篠宮さんに意地悪したって……」

「だから、わたしに謝罪を……?」

「うん……」

 わたしの片手を放し、再び頭を下げる曙さん。

 わたしは呆気に取られていた。日ノ本君がそんなことをしていたなんて……知らずにいた。

「ごめん……ごめんね。ごめんなさい。愛花、何も知らなくて……三人だって愛花のためにそんなことをしちゃったの。篠宮さんに酷いことを、だから……」

「ほんとにごめんなさい」――何度も何度も謝罪されて、わたしは言葉も出てこない。

 心の整理をつけるだけで……正直、精一杯だ。

「……」

 下がったままの曙さんの頭を、ぽんと叩いてみる。

 彼女がこちらに顔を上げて、わたしは首を横に振り、多分……ぎこちないのだろうが、それでも笑顔を浮かべてみた。

「篠宮さん……? 許してくれるの……?」

 こくり。

「ほんとに……? ありがとう!」

 言うが早いか飛びついてきて、いきなり抱き締められてしまう。わたしは顔が熱くなったが、決して……そんな趣味はない。

「よかった。すっごい安心した。すぐには無理かもしれないけど、あの三人も篠宮さんに謝りたいって言ってたよ」

「それは、別に……済んだことよ。わたしは気にしてないから」

「ダメ! それじゃ清算できないし、みんなも納得できないよ。愛花も篠宮さんに対して酷いことをしちゃったし、その分だって償わないと……さあ、何でも命令して!」

 曙さんは上着を剥ぎ、更には制服のボタンにまでも手をかけ、脱ぎ捨てようとした。

 わたしは一人でわあわあ喚いて曙さんを落ち着かせる。誰かにこの場を目撃されたら誤解されてしまうだろうし、寒いだろうし意味不明だし……彼女の暴走を食い止めた。

「それじゃあ、何をすればいいのっ!?」

「知らない……」

「そんなこと言わないで!」

 わたしはやっぱり怒られた。先ほどまでは厚い謝罪を受けていたと思うのだが、一体、どうしてこんなことに……つくづくイメージと違う人だ。

 わたしの両肩に両手を置いた曙さんの手首には、刺繍細工の小物だろうか……綺麗な紐が結われていた。

「うん……? これ……?」

 こくり、こくり。

「これね、ミサンガ。知らないの……?」

 聞けば、この学校に伝わる名のある一品なんだそうだ。伝統的な風習により生徒が自ら手掛けていて、友人、教師、恋人など……自分の親しい相手に渡して交友を深めるものだという。

 わたしは一つ思いつき、上目で曙さんを見て、首を傾げる彼女に対し……恥を忍んで口を開けた。

「曙さん、あのね、それ……」

「何かな。これがどうかした?」

「それ、お願い。教えてほしい……作り方、教えて?」

「……」

 すると、なぜだか曙さんは絶句し、そのまま硬直した。どうしたものかと目顔の前で手を振り合図をしてみると、ようやく我に返ったらしく、彼女はぴくりと気が付いた。

「篠宮さん……やばい。可愛い」

「はい……?」

「可愛い! 気に入った!」

 曙さんに押し倒されて、わたしは頬擦りされてしまう。ベッドの上で、そんな、こんな……女同士で、はしたない。

 暴挙を続ける曙さんをのぼせながらも制していると、間もなくわたしは解放されて、彼女はベッドを飛び下りた。

「いいよ! ミサンガ、作ってみよう! 朝飯前だよ! 任せて!」

「……」

「作り方なら簡単だし、愛花が今すぐ仕込んだげる! 道具だったら教室にあるし、待ってて! 持ってくるから!」

「……」

 唖然としているわたしを余所に、曙さんは行ってしまう。

 かと思いきや、息を切らして――彼女はすぐに戻ってきた。

「ねえねえ! あのね、篠宮さん!」

「え、ええっと……何かしら?」

「愛花たちって、友達だよね!」

「……?」

「友達! 友達だよ!」

 前屈みになり、学年一の美人の笑顔を向けてくれる。二つ結びの肩の髪がぴょこぴょこ跳ねて可愛らしく、わたしは彼女の人気の理由が分かったような気がしていた。

「そうだ! 愛花も作っちゃおう! 友好の証のために!」

「え……?」

「篠宮さんのために作る! ミサンガ、一緒に作ろう!」

「あ……」

「え……?」とか「あ……」とかばかりのわたしは、きっと格好悪いのだろう。

 保健室の壁の時計で時刻を確認してみれば、相応に時間は経っていた。

 曙さんに問いかける。

「だけど、いいの……?」

「いいって何がー?」

「部活……」

「そんなのどうでもいい!」

「友達の方が大事!」などと曙さんは笑い飛ばし、わたしの頭を撫でてくる。

 最近、多いな……こういうの。

「篠宮さんは登校した時、いつもここにいるって聞いて……だから話しかけたんだけど、やっぱり正解だったよ」

「……」

「篠宮さんは友達! だから、愛花はきっぱり諦める。応援するし、何でもするから、どんと任せてくださいな!」

 何に対して諦めるのか、曙さんは敢えて言わず、それでも彼女は頼もしくって、わたしは静かに頷いた。

「えへへ!」

 こうして間近で見ると――綺麗だ。それがよく分かる。男子にとても人気があると鈴谷先生に聞いていたが、なるほど……彼らは曙さんのこういうところが好きなのか。

「それじゃあ、愛花、行ってくるよ! 待ってて! ここにいてね!」

「うん」

「帰っちゃダメだよ! 絶対だよ! 保健室にいてね!」

「うん」

 曙さんの背中を見送り、今度こそは一人になる。

 途端に静かになってしまい、けれども物悲しくはなく、わたしは不思議な気分だった。

 心が温かかった。

「……」

 ベッドの上の枕を拾い、強く強く抱き締めて、彼の名前を呟いてみる。

 わたしは顔を押し隠した。




「なかなか止んでくれないねえ。この雨、いつまで続くんだろ」

「天気予報では雪になるとか、そういうことを言ってたけど……実際問題、どうだろな。降ったら面白いけど」

「雪かあ……」

 買い物帰り。俺と楓は並んで帰路に就いていた。昨日からの悪天候は未だに治まる気配がなく、細く長くといった具合にしとしと雨が続いている。

 今日、俺は正午すぎから楓と街に出かけていた。いろんな店を歩き回って数多の品を吟味して、ようやっとのこと用事を済まし、帰宅しているところである。

「だけど、今日は雨の中でも買い物に出てよかったね。最初は何を探すつもりか疑問に思ってたんだけど、満足したなら何よりだよ。悩んだ甲斐があったね」

「おう。その分、時間はかかったけど……いい買い物ができたと思う」

「本当の本当に雪が降ったら、今年はホワイトクリスマス! 今から明日が楽しみだね」

「だなあ。わくわくしてくるぜ」

 濡れないように胸に抱いた手提げの紙袋を見つつ、肩にかけた傘の先に、徐々に視線を移していく。

 ビニール傘に透ける空はすっかり暗くなっていた。一時間や二時間程度で済むと思っていたのだが、その実、こんな長い間、楓を拘束していたのだ。

「楓、今日は悪かった。お目付け役とか頼んだ上に、一日ずっと付き合わせて」

「いいよ。それより僕としては無事に終わって安心した。時雨が倒れるくらいのことは覚悟しといたつもりだけど、調子はよかったみたいだね。僕も疑いすぎてたよ」

 安心している楓の顔を見ながら俺も安心する。今日の一番の懸念事項は持病の発作だったのだが、何とか難を逃れたらしく、運よく大過なきを得た。彼に今の病状について話すかどうか迷ったが、結局……俺は話さなかった。

 それでいいと思っていた。

「……」

 たくさんの人の笑顔で街は溢れ返っていて、正直、ちょっと酔ってしまった。この時期だから仕方がない。

 雨天とはいえ多くの人が街の中を歩いていて、装飾された店々からはキャロルが忙しく流れていた。愉快で陽気な、そんな気分のお裾分けにも与りつつ、俺たち二人は道を縫って――ちゃぷちゃぷ歩道を進んだ。

「……楓」

 雨音、街の喧騒相手に、俺の声は掻き消される。

 俺はその場に棒立ちして、楓はこちらを振り向いた。

「時雨、どうかしたの?」

「……」

「今さ、何か言った?」

「……」

 実は聞こえていたのだろうか。多分……それはないと思う。

 俺は再び歩き出して、そうして楓の隣りにつく。どうやらこちらに釣られたらしい。彼は笑顔を浮かべていた。

「んーにゃ、別に何でもない。今日はほんとに悪かった!」

「あはは。変なの。時雨ってば……いいじゃん。長い付き合いだし」

「時雨、見てよ」と促す楓。彼の掌上を確認する。

 冷たい雨は霙となって、空から降り注いでいた。




 総合病院のA棟四階、最奥の四〇八号室。病室内でわたしは一人、悪戦苦闘を続けていた。

 曙さんにミサンガ作りの手順を教えてもらった後、わたしは彼女にお礼と別れを告げて学校を後にした。本当はもっとゆっくりしっかりご教授願いたかったのだが、病院に行く時間が迫って止むなく中断したのである。

 鈴谷先生はいつまで経っても姿を現すことはなく、職員室を覗いてみてもお目見えできはしなかった。わたしは少しがっかりしつつも仕方がないと諦めて、明日になれば会えるのだからと、そう考えることにした。

 ミサンガ作りの必需品は曙さんが貸してくれて、お陰でわたしはこうして個室で刺繍細工に励んでいた。

「むう……やっぱり難しい。これ、今日中に終わるかしら……」

 今、わたしはこれから始まる点滴処方を待っている。待ち時間さえとても惜しくて工程を進めているのだが、わたしはあまりこういう作業に向いてはいないようだった。上手に仕立てられない自分のぶきっちょぶりにやきもきし、しかしそれでも何とかしようと奮闘しているところである。

 曙さんは「すぐに慣れる!」と笑い飛ばしてくれたのだが、ちょっと……時間がかかりそうだ。

 わたしは一息ついた。

「……?」

 個室の外に人の気配を感じ、わたしは顔を上げる。担当の看護師が来たのだろうと思い、背筋を伸ばしたが、どうやら来たのは看護師でなく……別の人物のようだった。

「……」

 広げたミサンガ作りの道具一式を背中に隠し、わたしは内心げんなりしつつ、その人物へと声をかける。

 それが看護師でないのならば、相手は大方決まっていた。

「不知火、いいわよ。入ってきなさい」

「お嬢様、失礼いたします」

 慎ましやかに入室したのはやはり不知火その人で、いつも通り着物姿の彼女に、わたしは呆れていた。

「はて、どうしてわたくしだと?」

「幼馴染みよ。あなたは」

「……」

「それより、あなた……外出時くらい着替えてきてもいいんじゃない? この前、ここに来た時だって着物姿だったじゃない」

「普段着ですので、お構いなく。そういう習慣ですから」

「……そう」

 この子が一度こう言い出したら説得するのは不可能だ。

 わたしは「だったら好きになさい」と頭を抱えて諦めて、彼女と再度目を合わせた。

 用件の見当はついていた。

「それで……不知火、日の段取りは? お勤めの事前報告でしょう?」

「はい。すでにお家の準備は整い、待機状態です。お嬢様の一声如何で儀式を執行できます」

「……」

 幼い頃から何度も聞かされ、覚えた「儀式」という言葉。

 嫌なことは先に済ませておきたい。わたしはそう思う。とうに覚悟はできていたから、だから……目を閉じ、了承した。

「いいわ。分かった……お父様にはつつがないと伝えなさい。明日、お勤めを受けるから、しばらく一人にさせて……」

「……」

 わたしの頼みに返事をしない不知火。はてと目を開ける。

 彼女はベッドの下を見つめ、ゆっくり膝を折り曲げた。

「お嬢様、これは?」

「あっ……」

「綺麗な刺繍糸ですね」

 彼女が拾い上げたそれはミサンガ作りの糸だった。論なくわたしが曙さんから譲り受けたものであり、先ほど……背後に移した時に落としてしまったようである。

「お嬢様、ご説明を」

「説明……?」

「これは何なのです?」

「場合によっては没収します」と抑揚もなく言いきられ、わたしの中で何かが切れた。

 かつての親友を睨みつける。

「不知火、大概にしなさいな。わたしだっていつでも黙って聞いてるわけじゃないのよ」

「……」

「あなたは我が家に仕える身よね。それはもちろん知ってるわ。お父様の命に背くことはできない。知ってるけど、だけどそれでもここのところ……あなたは薄情すぎるでしょう」

 不知火は眉を動かしもせずただただこちらを見つめていた。

 そんな彼女の視線に気圧され、わたしは斜め下を向く。

「……ついこの間の本のことも、昔だったら許してくれた。小さい頃は秘密を作って、二人で内緒にしてたじゃない。なのに、どうして? どうしてあなたはそんなに冷たくなったのよ。わたしは、できればあの頃みたいに、あなたと――」

「那智お嬢様」

 聞き手に徹し、閉口していた彼女の声に、はっとした。

 名前を呼ばれて、我に返り……「ごめんなさい」と謝罪する。感情的になってしまった。

 わたしらしくもないことに。

「お気持ち、確かに頂戴しました。望外、恐悦至極です」

「……」

「しかし、わたくしなどには不相応なお言葉です。お嬢様は侍女のことなど看過し、ご自愛くださいませ」

 もはやこの子は何を言っても分かってくれない。くれないらしい。

 わたしが「ふん」と鼻を鳴らし、外方を向いて不貞腐れると、彼女は小さく息をついて再びこちらに切り出した。

「ミサンガ作り――わたくしたちの学校の風習でしたね」

「え……」

「大方、背中に隠しているのもそれに関するものでしょう?」

 どうやらお見通しだったようだ。更に彼女は付け足した。

「同級生に思いを寄せて、浮かれてしまいましたか」――と。

「不知火、あなた、いつの間に……っ!?」

「全て承知の上です」

「……」

「日ノ本時雨。彼について、一つご報告をば」

「……」

 彼女は「ご報告」と言った。忠告ではなく報告だ。

 得体の知れない恐怖と不安が、わたしの中に芽生えていた。

「お嬢様は彼の一家と、過去に関わっています」

「……?」

「お嬢様は――一年前に、彼の実父を食しています」

 時間が停止したかのような、そんな錯覚を起こしていた。

 心が黒く淀んでいく。わたしは――意識を失った。




 十二月二十五日。降誕祭の月曜日。

 数日前からテレビのニュースがしつこく報じていた通り、雨は次第に雪へと変わって地上に降り注いでいた。一晩経った今となっては辺り一面真っ白で、景色は華麗に雪化粧して白銀世界となっている。

 踏む度、さくさく音を立てる霜の柱が小気味よく、道中二人で楽しみながら俺と楓は登校した。昨日、街で買った品はコートポケットに忍ばせて、期待に胸を躍らせながら――。

 補習授業に臨んだ。

「おはよーっ!」

 廊下を歩き、楓と別れ、保健室へと入室する。中は無人でなかったものの、那智にしても思人ちゃんにしても到着前のようだった。

 いたのは制服姿の少女で、俺はこの子を知っていた。彼女は一人で窓辺に佇み、雪降る空を見つめていた。

「あ……」

 早々取り乱し、俺はばつが悪くなる。

 彼女は先日、薬を拾ってくれた――同校生だった。

「あはは……ごめんな。騒いじゃって。朝はテンション高くて」

「……」

「こないだ薬を拾ってくれた、ええっと、不知火だったよな。こんなところで奇遇だなあ。保健室に用事?」

「……」

 不知火はこちらを振り返り、俺を一点に見つめていた。感情の色を見せない瞳は以前と同じものだった。

 彼女は決して視線を逸らさず、そのまま一拍置いた後、何かの決意を固めたように切り出し、一歩前に出た。

「日ノ本さん、今日はあなたにお伝えしたいことがあります」

「……?」

「そのため、那智お嬢様に代わり、わたくしが参りました」

 那智お嬢様。聞き違いでなく、不知火は確かにそう言った。

 意外な一言に面食らう。というか、そもそも彼女ら二人がどういう関係か分からない。

「失礼しました。改めまして、まずは身分の紹介から。わたくしはお嬢様の侍女で、代々篠宮の一族に仕える一家の、その末裔です。主にお嬢様のお世話を仰せつかっている者で、ご覧の通りこの学校の同級生でもあります」

「お、おう……」

「今日は日ノ本時雨――あなたにお願いがあって参りました。お嬢様のことを全て、一切忘れてほしいのです」

 手早く淡々と喋る不知火はまるで機械のようだった。出し抜けすぎて話の内容に頭が追いつかないのだが、きっと彼女は嘘や冗談などは言っていないのだろう。

「あー、うーんと……待ってくれよ。つまり不知火、あんたは那智のメイド的な存在で、篠宮家という家族に仕える立場の人間であると」

「はい」

「で、最近、大事な主が変な男とつるんでて、そいつのことが気に食わないから埃を払いに来たと」

「はい」

 あまりにはっきり断言されてがくりとよろけそうになる。

 全く以って淡泊なやつだ。それにしたって驚いた。那智の実家が尋常ならざる富家だとは聞いていたが、まさかお付きの侍女までいるとは思いもしないことだった。

 俺はこほんと咳を払い、自分の机に着席する。那智の机の椅子を引いて「どうぞ」と誘ってみたのだが、彼女は首を横に振って応じてくれはしなかった。

「そうか。なるほど。不知火、あんたの目当てとやらは分かったぜ。けどな、事情は理解できても納得なんてできないぞ。この際だから近親者にもはっきりアピールしとくけど、俺は那智のことを本気で全力全開で愛してる。結婚を前提に付き合ってくれと交際も申し込み済みだ。そりゃあ、返事は貰ってないし、かなり雲行きは怪しいけど……だけど、俺の気持ちだけは絶対に変わらないぜ」

「……」

 言いたいことを全部言った。俺は踏ん反り返っていた。

 しばらく黙し、そしてその後「左様ですか」と囁いて、窓辺の少女、不知火――彼女はこちらに歩み寄ってきた。

「お嬢様を愛していると」

「おう。ぞっこん惚れ込んでる」

「気持ちは絶対に変わらないと」

「こればっかりは譲れない」

「ならば、あの子がこの地に伝わるお伽噺の鬼だとしても、あなたは何ら変わらぬ態度で一緒にいられますか?」

「……は?」

 聞き取れなかった。いや……違う。自分の耳を疑った。

 信じられるわけがなかった。反射的に問い返した。

「鬼って……人食い鬼のことか?」

「そうです。あなたもご存じでしょう」

「それって、まさかジュジュツナギの……?」

「はい。起源に当たります」

 俺は即座に立ち上がり、身長的に見下ろす形となって、彼女に勧告した。

「不知火、バカを言うんじゃない。そんな出鱈目、聞いたところで俺は――」

「信じられませんか?」

 彼女はしかと目と目を合わせ、こちらを見上げてそう問うた。

 俺は力が抜けてしまい、立っているのもやっととなり、糸が切れた人形のように、再び……椅子に座り直す。

「今の話、本当なのか……」

「はい。全て事実です。お嬢様の存在、そして篠宮家の由来について、静聴願いたいのですが――ご覚悟よろしいですか?」

「……」

 俺は視線を逸らさなかった。沈黙を以って答えとする。

 こちらに背を向け、歩いていって、再度窓辺に立った後、先と同じく雪降る空を見上げ、彼女は頷いた。




 わたしの家は古い古い薬師の血統、一族だ。

 数百年前、この街一帯が小さな集落だった頃、伝染病が大流行してたくさんの住民が感染した。感染者数は村の存続が危ぶまれるまで拡大し、とある一家の主人が初めてその病により死亡した。病死を遂げた主人の妻は亭主の遺言に従って、彼の死肉を食し、自分の身体を住民に分け与えた。病原菌を取り込むことで体内で抗体を作り上げ、自分の血肉を村中に配って人々を救おうとしたのである。彼女の血肉を食した人間は伝染病を克服し、村は再興を果たし、以来、病は流行らなかったという。

 鬼の仕業と揶揄されつつも彼女は人々に感謝され、以上の出来事はこの地に広まり、斯くして当家は繁栄した。彼女の奇手は「授受繋ぎ」という呼称を持たれて畏敬され、後に「篠宮」の源流として歴史に残ることになる。

「……」

 その「彼女」こそがわたしのご先祖様だった。生を受けて生を授け、生を繋げる授受繋ぎ――この授受繋ぎは一子相伝で代々継承され続け、先代の母がいない今ではわたしが十七代目である。

 初代が伝染病の蔓延に終止符を打った一件以降、我が家一族はあらゆる難病の患者を完治させている。いつしか周囲に崇められて薬師を称するようになり、しかし医学が発達すると篠宮の名も風化して、今となっては人食いだけの噂が残ってしまっている。お伽噺に触発したのか鬼と呼ばれるようになり、化け物一家と陰口されて……忌み嫌われているのだ。

「……」

 数代前のご先祖様は篠宮一門の衰退を案じ、当時の医学で治療不可の重病に限り着目した。自ら患者を探し、事前に交渉してから許諾を得て、患者の死後に肉体の一部を収める所業に出たのである。現代医学を以ってしても通用しない病気はあり、それこそ奇病や死病などの不治難病は未知数だが、授受繋ぎにより治せなかった症例は現状一つもない。そのため、我が家はこの授受繋ぎを内々だけの秘伝とし、希少な病の特効薬を謳い……売買を始めたのだ。

 これらの暴挙は一から十まで全て秘密裏に行われ、今では父がわたしを補佐して当主代行を務めている。篠宮家によるこの旧習は現在もなお続いていて、わたしは生まれたその瞬間から「人食い」を定められていた。

「……」

 本家に生まれ落ちて十七代目を襲名し、十六年が経過して……わたしは嫌気が差していた。仕来たりばかりで自由の利かない家内はとにかく厳かで、わたしは幼い頃より我が家に無力な反感を持っていた。

 一年前――。

 わたしが中学三年生の……年越し前、高校進学を望んだわたしは一件のお勤めを強いられた。駄目で元々だった願いが認められたのが嬉しくて、突きつけられたそんな条件を呑んで、わたしは合意した。

 相手は心臓病によって生涯を閉じた男性で、年齢は三十代の後半、まだまだ若い小父様で、当時……わたしは知らなかったが、彼の名字は「日ノ本」で。

 そして――。

 奇しくも、日ノ本時雨の……実の父親だった。

「……」

 月曜。過度のストレスによりわたしは緊急入院した。蹲ったままのわたしは現在時刻も知らずにいて、どれほど時間が経っただろう……昨日から病室を出ていない。

 着替えだけは済ませたらしくわたしは病衣姿だが、ほとんど無意識だったようで当時の記憶は消えていた。眠りに就けるはずもなくて夜通し啜り泣いてしまい、もはや涙も涸れてしまって……心は空になっている。

 しかしそれでも相も変わらずわたしの父は容赦がなく、予定していた儀式はそのまま執行しようとしたらしい。けれども我が家の外での儀式は掟で禁じられていて、わたしの傷心入院もあり……お勤めは延期となった。

「……」

 母は我が家の重い旧習に耐え兼ね、この世を去っている。思えば、今のわたしのような心境だったということだろう。衰死によって生きることから解放された母の顔は、とてもとても安らかであり……初めて自由を手にしていた。

 先日、せっかく鈴谷先生の粋な計らいを受けたのに、補習授業は二度目の欠席。わたしは恩を無下にした。日ノ本君に会いたいなどと内心思っていたものの、もう……彼に合わせる顔は持ち合わせてはいなかった。

(わたしは……)

 わたしは、彼の実父の、その肉体を食している。

 永久不変のそんな事実に、わたしは失意に沈んでいた。




「わたくしからのお伝えするべき話はこれで全てです」

「……」

「以上が、篠宮の家の歴史と、お二人の関係です」

 まるで独白のように語った不知火はあくまで冷静で、一方、当の俺はというと……ただただ度肝を抜かれていた。

「日ノ本さん、分かりましたね。分かっていただけましたよね。お嬢様の辛い過去と、軋轢……二人の溝を」

「……」

「お嬢様は生まれる前から何もかもが決まっていて、過酷で悲惨な苦渋の日々を受け入れ、背負って生きています。お勤めによりあなたの実父を食した――これも事実ですが、お嬢様にとってそれは避けられないことだったのです」

 窓の外の銀の景色はますます映えて見えていた。彼女の話に聞き入っていて今の今まで忘れていたが、空から舞い散る白い雪はなおも勢いを増していた。

 起立し、変わらず空を見上げる不知火の隣りに歩み寄る。少しは気持ちが分かるだろうか。倣って空を仰いでみた。音も立てずにただ降り頻る雪はどこか儚げで、次に俺が目を向けた時、彼女は頭を垂れていた。

「昨日、日ノ本さんの話をお嬢様にも伝えました。本当は伝えるべきではないと思いました。ですが、しかし、それではあの子が事実を知らない道化になってしまいます。いずれ真相を知った時にあの子は悲しんでしまうでしょう。だから……ならばいっそのこと、関係を築いてしまう前に仲を裂こうとしたのです。あなたとあの子が打ち解けなければ誰も傷付いたりはせず、きっと身体の症状だって……悪化はしなかったのです」

「……」

「今、あの子は心身症が原因で入院しています。日ノ本さんにはもう会えないと悲しみ、涙を流していて、思えば……あの子のそんな姿を見るのは、久しいことでした」

 那智は気丈に振る舞っているが、本当はとても弱い子だ。そんな彼女は一人ぼっちで、今まで……耐えていたのである。

 機械のようだと感想を抱いた俺は間違っていたらしい。主人を憂える不知火の瞳は、慈愛の感情に溢れていた。

「元々わたくし、不知火の家も遥か昔に主人が病み、篠宮の家の救いを受けて再起を果たした一族です。わたくし自身、当時の恩恵がなければ存在しておらず……以来、わたくしたちの家系は篠宮家への奉公を始め、感謝の念を忘れないまま仕え続けているのです」

「そうか。那智は不知火にとって命の恩人なんだな」

「はい。だから……あの子の泣き顔なんて見たくはありませんでした。せめてあの子が日常以上の苦痛をその身に負わないよう、慮っていたのですが……結局、至りませんでした」

 口惜しそうに「無念です」と小さな声で呟くと、彼女は斜め下を見た。

 俺は窓辺に背を凭す。

「なあ。那智の家のことって、他人にバラしちゃダメなんだろ?」

「授受繋ぎの儀式については門外不出の秘伝です。外部に秘伝を漏らすことは掟で禁じられています」

「だよな。じゃあ、どうして不知火は俺に打ち明けたんだ?」

「……」

「あんたはそんな機密事項をこんな俺に教えてくれた。それはなぜだ? 立場的に完全なご法度だろうに」

「……」

 俺の問いを聞き終えると、彼女は不意に動き出した。二台並んだベッドの、那智が常用している方にである。

「それには二つ理由があります。一つはお嬢様のためです。日ノ本さんに事の顛末を一から説明するに当たり、吐露する他に方法がなく……止むを得なかったからです」

「それと?」

「それと、残りのもう一つは……あなたの余命に起因します。あなたの持病が末期であり、限界に近いからです」

「え……」

 不知火はつつつとベッドを撫でて、その後、俺を直視した。

 身じろぎさえもできなくなった……彼女の言葉に驚いた。

「日ノ本さん……言ったはずです。あなたは優しすぎますと。時に誰かを傷付けますと、わたくし……言いましたよね」

「……」

「あなたの心臓病について調べさせていただきました。あなたの友人や先生よりも、きっと……詳しいと思います」

 遠い過去より「病」については十八番の篠宮家だ。恐らく地元の病院などにも無数のパイプがあるのだろう。

「俺のカルテを見たんだな」――彼女は返事をしなかった。

「まさか那智にバラしたのか?」――彼女は返事をしなかった。

「日ノ本さん、あなたは直に寿命でお亡くなりになります。死亡時期の自覚もあり、しかし、なのにあなたはこうして飄々と生活しています。篠宮の秘密を告白したのはあなたがもうすぐ死ぬからです。口外したとて相手が死ねば、別段……不問ですので」

「なるほど」

 合点がいった。大方事情は酌めた。俺は納得した。

 腕組みうんうん頷く俺に不快感を抱いたのか、彼女は眉間に皺を寄せた。

 こんな顔もするんだな。

「……わたくし個人の意見としては、あなたの心境が分かりません。どうしてそんなに落ち着いていて、呑気に生きているのです? もうすぐ息を引き取る人の気持ちなんて分かりません。ですが、あなたの言動全ては常軌を逸しています」

「うーん」

 吐き出すようにそう言いきった不知火は語気を強めていた。そんな彼女に、出会った頃の那智の態度を思い出した。

 頭を掻いて、ベッドの横の彼女の傍へと歩いていく。もう片方のベッドに上がり、仰向け姿勢で寝転がり、膝を曲げて足を組んで、両腕枕を作ってみた。

「俺な、生まれた最初の日から身体に異常があったんだ。祖父の代から遺伝してる先天性の病気でさ。俺の心臓、欠陥だらけですでにぼろぼろなんだ」

「……」

「俺の母さん、さばさばしてて隠し事とかしなくてさ。寿命だって教えてくれて今まで自由にさせてくれた。中学卒業が限界だって余命宣告されてたけど、俺は高一――十六になった。案外、しぶとかったんだな」

 天井を見上げて時を過ごす。そんな時間には慣れていた。しかし、俺はすぐに飽きて隣りの不知火に目をやった。彼女は綺麗な姿勢を崩さず、変わらずそこに立っていて、聞くに堪えないといったような……そんな表情を浮かべていた。

「心臓病の発作については日常的なものだった。発作の頻度は年を追うほど徐々に高くなっててさ。気付いた時には磨り減らしてた命もそろそろ尽きるらしく、特にこの数日間は……山場で、地獄だったな」

「……」

「自分の身体だから分かる。俺はきっと長くない。だからいつも無茶を言ってどうにか無理を通してた。病気なんて顧みずにやりたいことだけやってきて、そうして……高校生になって、俺は那智と出会った」

「……」

 こんなことを口にしては笑われるので言わないが、俺は那智に出会ったことで生きる希望を得ていたのだ。彼女のお陰で寿命が延びたと豪語してもいいと思う。篠宮の秘密、俺との関係、そして過去に起きたこと。そんなことはどうでもいい。

 それでも那智が好きなのだ。

「不知火」

 俺は上体を起こす。敢えて不遜に胡坐を掻く。

 俺たち二人の視線の高さは、予期せず対等になっていた。

「俺、那智のところに行くよ。後悔したくはないからな。やり残してることがあるんだ。せめて全うしたい」

「……」

「不知火、頼む。教えてくれ。那智は――どこにいるんだ?」

「……」

 きっと那智は幼い頃から不知火と一緒にいたのだろう。困った時に黙る癖など、見ていて本当にそっくりだ。言えば多分怒られるのでここでは内緒にしておくが、二人はまるで姉妹のようだと、俺は内心思っていた。

「わたくし、付き人……失格ですね」

「……?」

「お教えいたします」

 やがて、那智の侍女たる彼女は主の居場所を明示した。

「総合病院のA棟四階、最奥の四〇八号室」――それが那智の居所らしい。

 俺は呆気に取られていた。

「どうされたのです? ぼうっとして。時間がないのではないですか?」

「絶対教えてくれないと思った……」

「だったら訊かないでくださいな」

 呆れたような、拗ねたような、そんな声色の彼女に言う。

「だって、不知火……生真面目そうで、ちょっぴりおっかないし」

「……」

「融通が利かない人間だって顔に書いてあるし」

「……?」

 ぺたぺた自分の顔を触って何やら確認する不知火。あれ……? こいつ、真に受けたのか……?

 いやいや、それはないだろう。

「日ノ本さん」

 しかし、案外……。

「日ノ本さん」

「えっ!? ちょ、はいっ!?」

 一人思索に耽る俺の肩を不知火が叩いていた。見間違いかもしれないほどに薄く、小さなものだったが、彼女はくすりと笑っていた。

 初めて不知火の笑顔を見た。

「なっちゃんのこと、お願いします」

「なっちゃん……?」

「どうかお願いします」

 かつて彼女はそういう呼び名で那智と接していたのだろう。

 不知火は深く頭を下げ、俺は「おうよ」と返事して――彼女の頭をなでなでした。

 じとりと睨みを利かされた。

「ご、ごめん。癖なんだよ。俺の母さんの癖」

「……」

「小さい頃、よくこうされて……悪い。もしかして怒ったか?」

 俺は即座に正座に居直り、ベッドの上で土下座して、ちらりと不知火を窺いながら何とか弁明を試みた。

「言いつけますよ。お嬢様に」と冷たい声を発した後、

「用事は全て済みましたので」と、彼女はつかつか歩いていく。

「あ、不知火、ちょっと待って」

「……?」

「今日はありがとな」

 ベッドの上から飛び下り、なるべく背筋を伸ばしてしゃんとする。

 不知火がこちらにそうしたように、俺も頭を下げてみせた。彼女は引き戸の出入り口に手をかけ、首を傾げていた。

「最後の最後になったけど、あんたに会えてよかったよ。話ができて嬉しかった。世話になったな。不知火」

「……」

「俺は……知っての通りだけど、その後のこと、任せたぜ。那智の支えになってくれよ。今まで通り、頼んだ」

「……」

 答えるまでもないのだろう。彼女は返事をしなかった。再度こちらに身体を向けて畏まった様子を見せ、スカートの裾を左右に摘んで、楚々とお辞儀をしてみせる。

「ご機嫌よう」

 ぽつりと残し、それ以上は何も言わず、彼女は静かに去っていった。

 俺は一人になった。

「……」

 かと思いきや、廊下の奥から激しい騒音が聞こえてきた。今となっては聞き慣れている誰かさんの足音も、何だか微笑ましく思う。

 息急き思人ちゃんが登場した。

「はあ、はあ……日ノ本、セーフっ!?」

「思人ちゃん、余裕でアウトだよ」

 ぐにゃりと床に倒れ込んでのたうち回り出す思人ちゃん。よっぽど急いで来たと見えるが、残念ながら一時限目の時間はとうに過ぎていた。

「すまん! 日ノ本、許してくれ! 何度も何度も、ほんとに……」

「あはは……それより、廊下で誰かに会った?」

「廊下? いや、別に……」

「そっか」

 机に置いておいた鞄を担いで、俺は思人ちゃんを見た。彼女は「今から授業だけど」と言いたげだった。

 手を合わせる。

「ごめん、思人ちゃん。授業はサボる」

「え、どうして……急用か?」

「うーん、まあ……そういうとこ。だから、ごめんね」

「止むなしか……」

 流石に床に伏せたままでは体裁が悪いと思ったのか、思人ちゃんはすっくと立ち上がり、デスクの上に寝かされていたファイルブックを手に取った。

「実は篠宮も休みなんだ。昨日、入院が決まったらしい。さっき連絡があって、先生もいろいろ伺ってみたんだが……特に何も分からなかった」

「ああ、それで遅刻……」

「うん……」

 思人ちゃんが授業に遅れた理由は寝坊などではなかったらしい。

 彼女はファイルブックの中からプリントを数枚取り出すと、俺と那智の机の中に仕舞い込みつつ、一笑した。

「まあ、まだまだ余地はあるし、慌てなくてもいいんだぞ。篠宮だって元気になったらすぐに退院するんだろうし、先日みたく二人で午後まで授業を受ければいいさ」

「……」

 すると、思人ちゃんが俺の机の中で、何かを発見した。

 きょとんと童顔を際立たせている彼女が手にしていたそれは、俺が那智に貸したはずの小説――一冊の本だった。

「日ノ本、これは私物の本か? 忘れて帰ってたのか?」

「……」

「ダメだぞ。失くしちゃ大変だろう」

「あいつ、味な真似を……」

「……?」

 読み古されたそんな本は、確かに俺のものだった。

 恐らく、というか間違いなく、これは俺より先に来ていた不知火が仕込んだものだろう。那智は本が親に見つかり捨てられたのだと言っていたが、実のところは処分されずに不知火が持っていたのである。

 二人の間で何があったか、経緯は大方想像つく。那智の幼馴染みの自分と付き人としての侍女の自分。彼女は二つの立場にあり、どちらか一つを切り捨てるということはできなかったのだ。

「思人ちゃん、その本、預かっといて」

「はあ……?」

「というか、あげるよ。それ」

 正直、ほとんど思いつきだ。実際、大した理由はない。

 ただ、誰かに何かを托し、安心したかったのである。

「俺だと思って大事にしてて。お願い。いいよね、思人ちゃん」

「日ノ本……?」

「我が儘ばかりで、ほんとにごめん」

「待て。何を言ってるんだ……?」

 潮時。勝手に判断して、俺はそそくさ床を蹴る。

 思人ちゃんの横を通り過ぎた。その時、彼女は口を開けた。

「日ノ本、明日も授業はあるぞ。明日もちゃんと来るんだぞ」

「……」

「それと、本は借りた。借りたが、必ず返すからな」

 今にも泣き出しそうな声に、気付けば立ち止まっていた。

 俺は決して返事はせずに、けれども一旦振り返り、半年ちょっと……お世話になった保健の先生に笑いかけた。

「鈴谷先生、さようなら」

「……こういう時だけ改まるな」

「だったら、ちゃん付けしてもいいの?」

「……今後次第で考えてやる」

 不満そうにぼやきながら、彼女はこちらに背を向けた。

「一つ質問に答えていけ」――俺は何事かと待った。

「日ノ本、お前……血液型は?」

「俺……? A型だけど」

「ふふ……」

 意味はよくは分からないが、笑顔になってくれたらしい。

 俺はそんな小さな背中に手を振り、この場を後にした。




「もしもーし、那智ちゃん、しっかりー」

「……?」

「あたし、霞よ。分かるー?」

「……」

 今まで自分が眠っていたのか、起きていたのか……分からない。朦朧とする意識の中で聞こえた誰かの元気な声に、わたしは我を取り戻した。

 傍には霞さんがいた。

「朝食、一応持ってきたけど、食べる?」

「食べたくありません……」

「そっか。まあ、しゃあないわよね。食べたくなったら食べて」

「……」

 配膳車にはわたしに合わせた料理の皿が並んでいたが、今はとても……そんな気分にはなれず、食事を遠慮する。

 ベッドの上のわたしは未だに膝を抱えたままだった。朝食の配膳時間なので、今は八時くらいだろう。半日を越えてこんな状態のわたしは憔悴していたが、霞さんの顔を見たら、少し……気持ちが落ち着いた。

「入院したって聞いたからね、ちょっくら様子を見に来たの。具合、随分悪そうだけど……あたし、要る? 要らない?」

「……要る」

 霞さんのダウンの裾を掴んで、こちらに引き寄せる。彼女は「可愛いやつめ」と笑い、わたしの頬をぺちぺちした。

 ダウン。見やれば、彼女の格好はいつもの看護服ではなく、私服を着込んだ姿だった。仕事着以外は初めて見た。

「あたし、昨日は夜勤だったの。お仕事明けで、今は非番」

「お疲れ……?」

「うーん。そこそこだけど、いいのよ。相手は那智ちゃんだし」

 来客用の椅子ではなくてベッドに直接腰を下ろす。わたしは霞さんのこんな気っ風のよさが好きだった。

「雰囲気、いつもと違うなあって思って那智ちゃん見てたけど、今日は髪を結んでないね。入院したから?」

「え? あ、いえ……」

「むむ……?」

「わたし、自分のリボンは一本だけしか持ってなくて、だけど……最近、知り合いの子に餞別として托しまして」

「あー、なるほど。それで今は髪を下ろしてるんだ」

「はい……」

 舐めるようにじろじろ見られて、わたしは自分の髪を隠す。

 しかし、彼女は髪ではなくて、こちらの両目を目していた。

「那智ちゃん、ずうっと泣いてたでしょ。お目目が真っ赤よ」

「え、ほんと……?」

「ほんとよ。兎さんかと思った」

「ああ、腫れちゃいましたかね……」

 恥を忍んで「酷い顔?」と霞さんに尋ねてみれば、彼女は何の躊躇いもなく「そうね」とあっさり肯定した。

「あはは。冗談、冗談よ。あんまり怒っちゃ嫌だってば」

「意地悪な人は嫌いです。もう……霞さんのバカ」

 口を衝いてしまう自分の言葉遣いにびっくりする。

 あまり他人と関わらないよう生活してきたわたしとしては、出会って間もなく打ち解けられた彼女の存在は奇異だった。気付いた時にはすでにわたしは彼女に心を開いていて、今やこんな軽い調子で会話を交わしてしまっている。

「まあまあ、那智ちゃんの可愛い顔は健在だから! 平気よ」

「お世辞……」

「ゆっくり休めばすぐよくなるわ。寝るまで付き合ったげるから」

 霞さんは布団を広げてわたしの膝にかけてくれた。三角座りのわたしはずるずる仰向けになる形となり、流石は看護師だなあと思った。

 寝かしつけるのに慣れている。

「嫌なことがあったの?」

「え……?」

「嫌なことがあったんでしょ?」

「はい。とても嫌なことが……悲しいことがありました」

「そう。那智ちゃん、辛かったわね。それじゃあ……なでなでしてあげよう!」

 どうしてそういうことになるのか皆目見当もつかないが、決して「嫌なこと」の内容を訊いてこない――そんな辺り、霞さんは優しい人だ。わたしはそう思っていた。

「ほーら、よしよし、いい子いい子」と頭を撫でられ、押し黙る。わたしの髪はなでなでされてくしゃくしゃになってしまったが、不快に感じることはなかった。

 以前は恥ずかしかったのに。

「どう? 少しは元気になった?」

「霞さんのお陰で、はい」

「でしょ? あたし、得意なのよ。メンタルケアってやつ」

「ふふふ……」

 胸を張って鼻高々の霞さんに窃笑する。できればこのまま話し相手を続けてもらいたいのだが、そういうわけにもいかないだろう。

 わたしは「ねえ」とお願いした。

「それじゃあ、今度は霞さんの話を聞かせてください」

「話……?」

「ええ、何でもいいですから。聞いたら大人しく寝ますので」

 心の傷が癒えることなど、恐らく、ずうっとないと思う。今は霞さんのお陰で気持ちにゆとりができているが、そんな彼女は明け番であり、本来これから帰る身だ。勝手な我が儘ばかり言って長居をさせるわけにもいかず、わたしは名残惜しいものの、さよならしようと決心した。

「うーん、お話、お話ねえ。こりゃまた、どうしたものか……」

「……」

「話というか、何というか……相談みたいになっちゃうけど」

 霞さんの話であれば選り好んだりする気はない。気乗りしない様子の彼女に、わたしはこくりと首肯した。

「どうぞ。わたしは構いません。相談だったら乗ります」

「そう……? だったら、聞いてもらおうかしら。あたしの家族の話だけど」

 思ってみれば、霞さんは自分の話をあまりせず、いつもわたしのことについて訊いてくるのが主だった。そんな彼女が今から自分の話をしようというのだから、正直、少しわくわくした。

 内容なんて気にもせずに。

「那智ちゃん、先に断っとくわ。ちょっと重い話よ」

「はい」

「引き返すなら今のうちよ。本当に覚悟はいいの?」

「はい」

「気分が滅入って今より更に容体が悪くなるかもよ? それでも構わないのであれば、いいわ。お話しましょう」

「……」

 本当は話したくないのだろうか。申し訳なくなってきた。

 わたしが霞さんの名前をおどおどしながら切り出すと、彼女は「勿体つけてごめん」と遠い目をして自嘲した。

「いやー、最近、というか、ずっと……子供と上手くいってなくて。母親らしいことというか、そういうことができないのよ。たった一人の我が子に対して、あたし、何にもできなくて……それで弱音を吐こうとしたの。相談というか愚痴ね」

「……」

「そう。つまりあたしと息子の親子関係の話なのよ。那智ちゃんだったらいいと思って、全部話そうとしたの。だけど、うーん……やっぱり辛気臭いし、湿っぽいのは苦手だから、こんな話はここまでかな。那智ちゃん、許してちょうだい」

「……」

 霞さんが言いたくないならわたしは無理には聞きたくない。だからこれで話はお終い。わたしはこのまま寝ようと思う。しかし、それでも一言くらい言えることがあると思う。

 わたしはわたしが好きな人の笑顔を思い浮かべた後、彼の笑い方を真似て、霞さんへと微笑んだ。

「霞さん、大丈夫です。きっと……大丈夫だから」

「……?」

「勇気を持って、そのお子さんと二人で話してみてください。わたしは秘密のままでいいから、だから、その子と二人で――ね?」

 以前のわたしであったならば考えられない言動だ。いつからこんなに丸くなったか、そんなことは決まっている。どこかの誰かさんのせいでわたしは変わってしまったようで、満更……それは悪いことではないと、今は思っていた。

「那智ちゃん、あなたは優しい子ね。ありがと。嬉しかった」

「……」

「メンタルケアが得意なんて、あはは……あたし、嘘ばっかり」

 霞さんの今後の親子の関係については分からない。しかし、彼女にとってそれが切望しているものとなり、二人の仲が直ったならば……わたしは何よりだと思う。

 呟き、布団をわたしの肩まで再びかけてくれた後、霞さんは目を細めた。

 とてもとても安心した。

「霞さん、元気……? 平気……?」

「うん。那智ちゃんのお陰でね」

「そう……だったら、よかったです……」

「それに、勇気も貰ったわ」

 急に眠くなってしまって、目蓋がどんどん重くなる。最後の最後で霞さんの言葉が聞き取れなかったが、まどろむ視界の中の彼女に、わたしは母の姿を見た。




 有り体にいえば、俺の両親は駆け落ち結婚だったらしい。

 母は看護師、父は患者で、病院が出会った場所であり、見知って間もなく急接近して二人は婚約したそうだ。互いの家には反対されて祝福こそはされずとも、すでに子供を身籠もっていた母は強行入籍した。

 二人は周囲に認められずにいた――これには理由がある。それは父が生まれ持って大病を患っていたからだ。入退院を繰り返していた父の身体は酷く弱く、とても一家を支えるような器量は持っていなかった。しかし、それでも手を取り合って二人は家庭を築いていき、一人息子の義務教育の節目に、父は力尽きた。

 父は生前、妻子に黙ってとある一家と通じていた。それは「篠宮」の姓を冠する地元の古い一族で、彼らに病体の一部を渡せば大金が手に入るという。父はせめて自分の死後に妻子に形見を遺そうと、篠宮家との契約を交わし……自ら血肉を提供した。

 母は全て事後報告で経緯、顛末を伝えられた。事前に相談もしなかったのは父の遺志とのことだった。母は父の今際の秘密を隠し、一人で背負い込み、我が子に事実を語ることなく……今まで生きてきたのである。

「母さん、ただいま。帰ったよ。今日もここにいたんだね」

 自分に時間がないことくらいはもちろん分かっていたものの、それでも母には会わなければと自宅のアパートに寄り道した。

 夜勤だった彼女が帰宅し、家にいることは知っていた。玄関先に傘を投げ捨て、その居場所へと直行する。開かずの扉を隔てていてもそんなことは関係なく、直感的に、俺にはここだと分かるような気がしたのだ。

「……」

 父の部屋の前に佇み、俺は口を開ける。

 部屋の中の母の声は、今日は……聞こえてこなかった。

「聞いたよ。全部……父さんのこと。ごめんね。黙ってたのに」

「――」

「父さんの話、詳しいやつに会ってさ。それで知ったんだ。母さんが今まで隠してたこと、俺……やっと気付いたよ」

 不知火が語った昨冬の事実は衝撃的なものだったが、お陰で俺は俺の父母にようやっとのこと追いつけた。

 二人は何より家族のことを大事に思ってくれていて、それぞれなりに一家を支えて、尽くしてくれていたのである。父の気持ちも母の気持ちも今の俺なら理解できる。

 俺は二人に感謝したくて、だから……ここに来たのである。

「母さん、俺は親不孝で、我が儘ばかりだったけど……お陰で今まで楽しかった。ほんとに感謝してる」

「――」

「今まで内心冷や冷やしながらおっかなびっくり生きてきて、精一杯にやってきたけど、遂に限界が来ちゃったよ。父さんも、俺、一周忌には参列したかったんだけど……ちょっと間に合わないっぽい。悪いんだけど、許して」

「――」

 どくりと心臓が脈打った。直に発作が起こるだろう。

 一歩、二歩、三歩と、ゆっくり扉の前から後退り、遂に返事をくれなかった母と――俺は決別した。玄関先の傘を拾って一度後ろを振り返り、再び雪降る野外に向かって、身を縮こませて飛び込んだ。

「……」

 すると、携帯電話の着信音が鳴り出して、俺は……結局無視はできず、その着信に対応した。

「もしもし」

『あ、時雨? ちょっと……今ね、どこにいるの?』

「……」

 電話の相手は楓だった。予想通りのことだった。なぜなら、俺は彼に黙って学校を飛び出たからである。

『今日は天気もこんなだし、補習は切り上げられたんだよ。それで保健室に行ったら時雨がいなくなっててさ、何が何だか分からなくて……電話をかけたんだけど』

「……」

『ねえ、時雨、どこにいるの? 怒らないから言ってみてよ』

「悪い。時間がなくってな。急いで帰ってきたんだ」

『え……?』

「あー、違うな。本音を言うと、合わせる顔がなくってさ……」

 楓に会わずに校外に出たのは忘却していたからではなく、学校で思人ちゃんと別れた後、俺は敢えてそうしたのだ。仮に着信があったとしても取らないつもりでいたのだが、実際……そうもいかなかった。

 気付けば携帯を手にしていた。

『時雨、待って。時間がない……? 急いで帰った……? どういうことっ!?』

「だから、楓に合わす顔がなくて逃げてきたんだ」

『はあっ!?』

「楓、ごめんな。ありがとな。今まで付き合ってくれて」

『時雨――』

「じゃあな」――一方的に別れ、俺は電話を切断した。

 電源ボタンを長押しした後、携帯をシャットダウンさせる。

「……」

 最後の最後になっても俺は大馬鹿者だった。たった一人の親友に対し、不敬を働き悔やんでいる。しかし、今は楓の幸福、これを願いたいと思う。間抜けな俺は勝手ばかりで彼を振り回していたが、今後はその分、山城楓に……豊かに生きてほしかった。

 高校進学のお祝いとして買ってもらった携帯も、一年間も使わなかった。もはや電源は入れないだろう。

 携帯を仕舞い、目蓋に溜まった何かを甲で拭った時、背後に人の気配がした。

 俺は抱き締められていた。

「え――」

 何が起きたのだろうと一瞬戸惑ってしまったが、俺は驚愕すると同時に、どこかで感慨してもいた。

 それは俺がよく知っている人の肌の温もりで、ただでさえも緩んでいたのに……遂に涙腺が崩壊した。

「母さん……っ!」

 言葉は白い吐息とともに、宙に消えていく。

 直に母の身体に触れた。とても久しいことだった。




 気付けば、わたしは病院の個室で、ベッドに横になっていた。

 いつの間にやら寝落ちたようで、わたしは両目をぐしぐしする。眠りに落ちた時のことはよくは憶えていないのだが、霞さんと話をしていたことは記憶に残っている。

 灯りの消えた病室内はとにかく静かで仄暗く、彼女はすでに帰ったのだとわたしはすぐに理解した。泣き疲れていたこともあって随分寝入ったようであり、今は何時くらいだろうか……太陽は沈んでしまっていた。

 重い重い上半身を起こし上げて溜め息一つ、わたしは頭を抱えながら眉間に皺寄せ瞑目した。肉体的にも精神的にも参ったままのようである。霞さんが傍にいたので一時気分は紛れていたが、やはり容易く癒えるような浅い傷ではないらしい。

「……」

 室内の冷たい空気に身を縮こめた、そんな時、わたしは人の気配を感じ、目を開け辺りを窺った。寝惚け眼に映ったのは霞さんの姿である。しかし彼女は帰ったはずで、ここにはいないはずだった。ならば、この目に映っているのは……一体、誰だというのだろう。

「だあれ?」――思わず問いかける。

「おはよー」――どこかの誰かさんは、わたしに優しく語りかけた。

「邪魔して悪いな。見舞いに来たぞ」

「日ノ本君……っ!? どうして……っ!」

「おっす」

 姿も声も、どうしたことか霞さんと間違えたが、そこにいたのは、わたしが今……誰より会いたい人だった。

「嘘……? あなた、いつの間に……」

「ずうっとここにいたぜ。俺」

「夢……? わたし、夢を見てる……?」

「正真正銘、現実だぞ」

 来客用の椅子ではなくてベッドに直接腰を下ろし、日ノ本君は霞さんと同じように座っていた。

 いつからここにいたのだろうか。それはわたしには分からない。ただ、この胸の鼓動に、焦り戸惑う自分がいた。

「いけない人。あなた、無断でわたしの部屋に入ったのね……」

「生憎ノックの習慣なんて俺の家にはなくてな」

「……」

「どうした? 何か言いたそうじゃん。言いたいことがあるなら言えよ」

「日ノ本君、悪いんだけど……」

「何だよ」

「ええっと、あの、その……」

 わたしが何を言わんとしたのか日ノ本君には分かったらしい。少し低くなった彼の怒った声に怖じ気付く。

「帰ってほしい」と言うはずだった。しかし言えはしなかった。こうして二人でいればいるほど……罪悪感が募るのに。

「あ、面会時間だったら問題ないぞ。全然」

「え……」

「確かに晩くなっちゃったけど、この病院なら平気だ」

「……?」

 職員に知り合いがいるのだろうか。日ノ本君は余裕面だ。

 しかし、わたしが告げたいことは、決してそんなことではない。

「違うの。日ノ本君、わたし――」

「みなまで言うな。知ってる」

「……」

「それで? 那智、まさか俺をここから追い出す気かよ」

「う……」

「雪降る中を必死こいて歩いてきたのに、その仕打ち?」

 何も言えずに黙ったままのわたしに愛想を尽かしたのか、日ノ本君は「そうかそうか」と不貞腐れつつ起立した。

 そんな彼の腕を手に取り、再びベッドに座らせる。わたしは何をしているのか……。

 日ノ本君は笑っていた。

「俺、帰る? ここにいる?」

「好きにすればいいじゃない……」

「あっそ。だったら、お暇するわ」

「え……?」

「あはは。分かりやす」

「やっぱり那智は可愛いなあ」と、こんな時までからかわれる。

 どうしていっつもこうなるのか……わたしは一人でどぎまぎした。

「全く、せっかく会いに来たのに……これじゃあ、俺もお冠だ」

「ご、ごめん……ごめんなさい。だから、許して。お願い……」

「うーん。だったら、誠意を見せてもらおう」

「誠意……?」

「膝枕の刑だ」

 いつにも増して遠慮がなくて積極的な日ノ本君。そんなにぐいぐい押されてしまうと、わたしも……困ってしまうのだが。

 わたしは布団を退かし、ちょこんとベッドの上に正座した。こんなことは初めてなので勝手が分からないのだが、多分、これでいいのだろう……日ノ本君なら特別だ。

 恥を忍んで自分の膝をぽんぽん叩いて合図すると、彼は心底意外そうにこちらの顔を見つめていた。

「なあに……?」

「いや、まさかほんとにやってくれるだなんて」

「……」

 いつしか全く同じ頼みを拒否したことがあったので、今回だけはと思ったのに……どうやら駄目元だったらしい。

 わたしは即座に正座を崩し、ぷいと横を向いてみせる。しかし彼が「待って待って」と必死に懇願してきたので、わたしは止むなく、仕方がなく……再び正座に居直った。

「日ノ本君のバカ、アホ……」

「けけけ。何とでも言ってくれ」

「ふん……勝手にすればいいわ……」

「それでは、ちょいと失礼して――」

 ごろんと横になって、わたしの膝に頭を乗せてくる。

 どきどきしたりそわそわしたり、そういう感情はなかったが……不快に感じることもなかった。はてさて、どういうことだろう。

「おおー、これが膝枕か! すげー居心地いいぞ!」

「……」

「それに、何だか那智の身体はいい匂いがするなあ」

「匂い……?」

「女子特有の甘い匂い。ずっとこうしてたいわ」

「……」

 病院に充満している臭いはとある薬品が放っていて、次亜塩素酸ナトリウムという消毒液によるものだ。

 日々の大半を病院内で過ごし続けた結果として、この身体には薬品臭が染みつき、取れなくなっていた。そんなわたしは「女子特有の甘い匂い」などしないのだが、これも日ノ本君のことだ。わたしを担いでいるのだろう。

「……」

 わたしは矛盾している。それはもちろん分かっていた。こんなことは許されないのだ。自分でもよく分かっていた。

 しかし、それでも日ノ本君と二人でいたかったのである。嬉しい気持ちと悲しい気持ちが入り混じってしまっていて、けれども……その二つの気持ちは同じく彼を求めていた。

「……?」

 てっきりいつものように騒ぎ出すかと思ったが、膝枕など望んだ割には日ノ本君は大人しい。

 膝の上の彼の乱れた前髪を綺麗に整える。

 彼は片手を上げて、そっとわたしの頬に触れてきた。

「那智、話は不知火に聞いた。ごめんな。抜け駆けしちゃって」

「やっぱり……きっとそんなことだと思った。あなた、あの子を知ってたのね」

「ああ。今朝方、保健室で。会うのは二回目だったけど」

「はあ……あの子、余計なことを……」

「まあまあ、言ってやるなって。俺がここを嗅ぎつけたのも不知火あってのことなんだ。いろいろ世話になっちまった。あいつ、すげーいいやつだな」

 それはもちろん分かっていた。此度の彼女の独断専行は篠宮の掟に背いている。つまりあの子は厳罰覚悟で個人の意向で行動し、わたしを思ってくれたからこそ……日ノ本君に通じたのだ。

「那智、そんな顔をするな」

「だって、無理もないじゃない……」

「俺な、那智の笑った顔が一番好きだぞ。だから、ほら」

 人に笑みを向けたことなど数えるほどしかないのだが、わたしは彼の前では自然と笑顔になっていたらしい。

 知らず知らずの間だったが、わたしは変わっていたのである。それは彼のお陰だったと、わたしは……確信していた。

「……」

「だから、ほら」「笑ってくれ」と続けてくれた日ノ本君。

 わたしはそんな彼の期待に、静かに……首を横振りした。

「わたしはあなたのお父様を、家族を……この手にかけたのよ」

「殺したみたいな言い方すんな。父さんは病気で死んだんだぞ」

「だけど、実の子供のあなたと関わるわけにはいかないわ……」

 辺りの暗さに目が慣れてきて、わたしは窓外の景色を見た。

 夜の帳が下りた空に白い雪が舞っている。綺麗だ。なんて呑気なことなど言ってはいられないのだが、内心……彼とのこの一時は、とても貴いものだった。

「日ノ本君、驚いたでしょう? わたしの特異体質に。わたしの血肉は万病を治す万能薬なんだって」

「……」

「この身体はね、先代たちの細胞組織を受け継いでる。先代たちの授受繋ぎはね、わたしの生き血が覚えてるの。一度体内で抗体を作ればそれは代々継承され、次から次へと上書きされて産まれた子にまで遺伝する。そうして我が家は繁栄してきた。それが篠宮の呪いなの。不気味で仕方がないでしょう? 気持ちが悪くなるわよね。だけど、わたしはそういう家の末裔――人食い鬼なのよ」

 この地に伝わるお伽噺は我が家をモチーフにしたものだ。日ノ本君とて事実を知って、さぞかし恐怖しただろう。

 だから……日ノ本君はわたしと関係を持ってはいけないのだ。こんなわたしの傍にいては彼まで嫌悪されてしまう。そんなことはずうっと前から理解していたはずなのに、偏にわたしが弱かったから……一線を越えてしまったのだ。

「日ノ本君、ごめんなさい。ほんとにほんとにごめんなさい。辛い思いをさせたわね。お詫びの言葉もないわ」

「……」

「こんなことになるだなんて、わたし……思いもしなかった。わたしが以前のように、あなたを突き放すことができていれば……こんなことにはならなかった。悔いても悔いきれないわ」

「……」

 きっとわたしと日ノ本君は出会わなければよかったのだ。わたしたちが出会わなければ悲しまなくても済んだから。

 目線を合わせば日ノ本君に叱られそうな気がしたので、わたしは下を向かず、そのまま重い口を開いていた。一方、彼は相槌さえも打たず……口を閉ざしていて、きっと怒っているのだろうと、わたしはびくびく二の句を継ぐ。

「ねえ、どうして来ちゃったの? わざわざ、こんなところにまで……」

「……」

「放っておけばいいのに……ねえ、どうして来ちゃったの?」

「……」

「何よ。返事なさいよ。聞いてる……? わたしの話」

「……」

「あの、その、ねえったら……こら、日ノ本時雨」

「……」

 何だか様子が変だと思い、わたしはふいと目を落とす。

 わたし自身、懺悔なんて慣れてなんかいないわけで……しかしそれでも覚悟を決めて打ち明けているところなのに、彼はいかにも我関せずと素知らぬ顔を浮かべていた。

「……」

 見やれば、日ノ本君はわたしの髪を弄っていた。わたしの長い髪の毛先を指に巻いて遊んでいる。次の瞬間、何も言わずに、わたしはゆっくり手を上げた。

 彼の額を目掛け、軽度に……ぺちんと平手をお見舞いした。

「いてー」

「いてー、じゃないでしょう。あなた、何をしてるのよ」

「何って……那智の髪の毛弄り……?」

「とっととその手を放しなさい!」

 人の膝を占領した上、恍けたことを言って退ける。

 この期に及んでこの調子とは……全くとんでもない人だ。

「だって、那智がうだうだうだうだ無粋な話をするからさあ。つまんないし下らないし、暇を潰してたんだ」

「無粋……?」

「そう。とにかく野暮な話。俺、退屈だったぞ」

「……」

 一転、不意の不平不満にわたしは尻尾を巻いてしまう。

 日ノ本君は性懲りもなくわたしの髪で遊んでいた。

「那智、俺は怖いだなんて微塵も思ってないんだぜ? 寧ろ感心しちゃったくらいだ。篠宮一家の秘密に」

「え……?」

「那智が持ってるその力はな、多くの人の希望なんだ。病気で苦しむ人を救える、とても貴いものなんだぞ」

 日ノ本君は小さな子供を諭すような声色だ。

 瞠目しているわたしに、彼は恥ずかしげもなく告げ続けた。

「俺は自分の好きな人がめちゃくちゃ凄い人だと知って、そりゃあ、ちょっとは驚いたけど……だけどほんとに嬉しかった。何だか得意な気分になって、鼻が高くなっちゃって、もっと那智を好きになって……俺は誇らしかったんだぞ」

 刹那、呼吸や瞬きさえも忘れ、わたしは放心した。

 初めて身内以外の人に自分の存在を認められた。わたしの境遇、篠宮の歴史を「誇らしい」と言ってくれた。それはわたしがずっとずっと求め続けていたもので、今、わたしは日ノ本君に――救われたような気がしていた。

「日ノ本君、わたし……っ!」

「あはは……ほらほら、泣くな泣くな」

「ぐす……っ!」

「言ったろ。俺は笑顔が好きだ。那智の笑顔が好きなんだぞ」

 涸れたはずの涙が溢れ、ぽろぽろ零れ落ちていく。

 嬉し泣きをするだなんて……人生初のことだった。

「元気出たか?」

「元気出た……」

「泣き言、言わない?」

「もう言わない……」

「だったらよかった」

「うん。よかった……」

「それじゃあ、チューする?」

「遠慮するわ」

 日ノ本君の両の頬っぺを抓って、左右に引き伸ばす。

 彼は「いだだ! いでででででで!」ともがき、苦しみ喚いていた。

「ふふ……あはは! あはははは!」

「お、ようやく笑ったな」

「だってだって、日ノ本君が……」

「やっぱり笑顔が一番だ」

「那智は素直でいい子だから、俺からプレゼントをあげよう」――コートポケットに手を伸ばし、何やら取り出す日ノ本君。

 プレゼントとはどういうことか……彼は小包を持っていた。

「ほい。メリークリスマス」

「あ……」

「クリスマスプレゼント」

 あまりに縁がないことなのですっかり忘却していたが、そうだ。今日は二十五日――世間はクリスマスだったのだ。

 藪から棒に手渡されたのは聖夜の贈り物だったらしい。わたしは胸が熱くなって、心が震えてしまっていた。

「開けていいぞ」

「いいの……?」

「いいの」

「そうなの……? それじゃあ、開けてみる……」

 こちらをにやにや見守る彼に催促されて首肯する。

 わたしは少し緊張しつつ、手にした包みを開封した。

「わあ……っ!」

 思わず声を上げてしまった自分が恥ずかしい。

 包みの中には、可愛い可愛いヘアリボンが入っていた。

「これ、わたしに……? ほんとにいいの……?」

「嬉しかったか?」

「嬉しい!」

「あはは。それじゃあ、早速結んでくれよ」

「あ、待って。今すぐ、うん……」

 貰ったリボンで髪を結って一つ結びにしてみせる。まじまじ見られて気恥ずかしくて、何だか照れてしまうのだが……わたしは黙ってお下げを作った。

 どう? 似合っているかしら。

「うん。すげー似合ってる。めちゃくちゃ可愛い」

「そう……? かしら」

「那智、子猫にリボンをあげて自分の分がなくなったろ。だから街で選んできたんだ。どうだ? お気に召したか?」

「うんっ!」

 自分が自分と思えないほどわたしははしゃいでしまっていた。心の底から喜びすぎて、浮かれてしまっているのだろう。

 しかし、わたしは日ノ本君に強い負い目を感じていた。彼はわざわざこの日のために事前に準備をしていたのに、その一方でこちらは何にも用意ができていないのだ。

 彼に何か贈れないかと室内の私物を一見する。ベッドの横の小棚の上には、わたしの鞄が伏せっていた。

「あっ……」

 あった。思い出した。決して素敵な贈り物とは言えない品かもしれないが、日ノ本君に渡すものだ。

 わたしは鞄を手に取った。

「?」

 不思議そうにしている日ノ本君を一瞥して、鞄の中に仕舞っておいた――。

 わたしは、ミサンガを取り出した。

「あのね、ええっと……日ノ本君。これ、受け取ってほしい」

「それは……?」

「ミサンガ。わたしが作ったの。よければ……貰ってください」

「……」

 わたしがこんなことをするとは思いも寄らなかったのだろう。日ノ本君は呆然として、こちらをじいっと見つめていた。

 曙さんに作り方を教えてもらったミサンガは、完成形とはいえないまでも型は出来上がっていた。手作り小物の贈り物など、きっとわたしには不似合いだが、それでも、一生懸命になって……彼のために手掛けたのだ。

「要らない? だったら、あげないけど……」

「要る要る! 絶対要るぞ!」

「そう……?」

「当たり前じゃん。ほら、早く腕につけてくれよ」

「う、うん……」

 わたしは少し固くなりつつ、日ノ本君の腕を借りる。手首の辺りを結び目としてミサンガの輪っかを繋げると、彼はきゃっきゃと子供のように喜び、ぐるりと寝返りした。

「那智、サンキューっ! 俺、感激!」

「わわ、急に抱きついて――」

「好きだ! 超絶愛してるぞ!」

「お、お腹に顔を……ダメ!」

 先の平手は手加減したが、今度は強めに頭をぶつ。

 日ノ本君がぐったりとして抱擁の力を抜いた隙に、わたしは彼を引っ繰り返して再び仰向けに落ち着かせた。

「そういうのはね、全面禁止」

「ちぇっ。禁止になっちった……」

「調子に乗るのも程々になさい」

「むふふ……肝に銘じとく」

 顔を火照らせながら、わたしは日ノ本君に説教する。

 彼は笑ってあしらいながら、どこか……遠い目をしていた。

「俺、やっぱり無理をしてでも進学しといてよかったよ。お陰で那智に会えたからな。今、すげー楽しい」

「……」

「ほんとはさ、平々凡々な日々を夢見ただけなんだぜ? 学校に通って、勉強して……普通の生活がしたかった。人並みくらいの生き方こそが俺にとっては憧れで、それが羨ましかったから……だから進学したんだ」

「……」

 同じだ。中学三年生の頃のわたしと同じである。レールの敷かれた人生が嫌で、少しは真っ当に生きたくて、それで高校に入学した。

 彼はわたしと同じなのだ。

「さて、那智とは仲直りしたし、プレゼントだって交換した。名残惜しいのは変わらないけど、思い残すことはないな」

「うん……?」

「那智、悪い。そろそろ時間だ」「帰るの……?」「いいや、そうじゃない」――持ち前である笑みを浮かべた日ノ本君に憂えてしまう。

 彼がどこか遠いところに一人で去っていってしまい、二度と帰ってこないような……そんな予感がしたのである。

「那智、最期に俺の頼みを一つ聞いてくれよ」

「最期……?」

「いいか。自分の生きたいように自由に生きていくんだぞ。辛いことや悲しいこともたくさんあると思うけど、楽しいことも絶対あるから、だから――」

「待って。日ノ本君……?」

 次の瞬間、日ノ本君の身体が大きく波打った。

 呼吸を乱し、胸を押さえ、苦痛に顔を歪めている。一体、何が起きたのだろうとわたしは茫然自失したが、すぐに彼の持病の発作と気付き、言葉を失った。

「……っ!」

 備品のナースコールを手に取り、即座にボタンを押す。幾ばくもなく夜番の職員がこの場に飛んでくるだろう。

「その間、何かできることは」と日ノ本君の様子を見ると、薄暗い中、不明瞭だが……。

 彼は青褪めてしまっていた。

「日ノ本君っ! 日ノ本君っ! 嘘でしょ……しっかりしなさい!」

「……」

「そんな、だって、こんなことって……お願い! 返事をしてよ!」

「……」

 いつものように陽気な声で軽口を叩いてほしいのに、必死になって名前を呼んでも日ノ本君から返事はない。

 意識が朦朧としているのか、彼は虚ろな目をしていた。頭からは滝のように汗を掻いてしまっていて、激しく咳をしたかと思えば……大量の血を吐いていた。

「……」

 やがて、日ノ本君は、静かに……目蓋を閉じきった。

 彼の体躯の上半身を抱えて、優しく抱き締める。こんなことしかできない自分が惨めで、とても悲しいが、わたしはわたしの思いの丈を、彼に……伝えたかったのだ。

「日ノ本君、あなた……勝手ね。思えば、ずうっとそうだったわ」

「――」

「人には可愛いだとか好きだなんて言っておいて、自分のことは顧みずに……他人ばかり気にして」

「――」

 日ノ本君の口の周りの赤い生き血を手先で拭う。

 もはや彼は意識を失い、眠っているかのようだった。

「ねえ、あの日、憶えてる? 忘れたなんて言っちゃダメよ。わたしが補習を欠席した日、音楽室に行ったでしょ。わたしのために吹部の子たちに怒って、一人で無茶をして……曙さんが教えてくれたわ。ぜーんぶ、知ってるのよ」

「――」

「曙さんね、凄く美人で……最初は緊張しちゃったけど、わたしと友達になってくれた。本当に嬉しかったわ」

「――」

「それでね、それで……だけじゃないけど、わたし、幸せだったのよ? 日ノ本君と出会ってからの日々はとても楽しくて、以前の自分と比べてみてもいろんな意味で変われたわ。ちっとも素直になれないわたしは口には出せなかったけど、夢のような時間をくれた……あなたに、感謝してるのよ」

 時分はしじまの夜間病院。二人で短い時を過ごす。

 仮に彼が正気でいても同じことが言えただろうか。恥ずかしげもなくこんな言葉を口にできていたのだろうか。多分、いや、きっと、絶対……以前のわたしでは無理だった。

 けれども、今のわたしであれば……何でもできる気がしたのだ。

「好きよ。大好き。日ノ本君……あなたのことが好きなの」

「――」

「何よ。少しは喜びなさいよ。わたしも……擽ったいんだから」

 きっといつもの日ノ本君なら大いに騒ぎ立てただろう。しかし、今の彼は瀕死で、気を失っているのである。

「ねえ、目を開けなさいよ。わたしを一人にしないでよ。あなた、わたしと結婚するって……結婚したいって言ったじゃない」

「結婚の約束はできないけど、結婚を前提に付き合ってくれ」――今になってあの日の言葉の意味に、わたしは気付いていた。

 日ノ本君はこうなることを……元より予知していたのだ。

「……」

 わたしは余命を自覚している人の気持ちは分からない。彼は生まれた時からこの方、そうして生きてきたのである。そんな人の苦しみなんて分かるわけがないのだろう。

 強く強く唇を噛むと、口内で鉄の味がした。情けなかった。歯痒かった。わたしは何もできないのか。口の中に広がる血液――わたしは何かを思い出した。

 世界中でわたしにだけしかできないことがあった。

「……」

「日ノ本君」と、大事な大事な愛しい人の名前を呼ぶ。

 わたしは彼の頬に手を当て、顔と顔とを近付けた。

 わたしの涙が彼の涙となって、頬を伝っていく。

 告白の返事、遅れたけれど――。

 こんなわたしで、よかったら。

「あなたは今まで死への恐怖や痛みを必死に耐えてたのに、そんな日々の弱音を一度も聞かせてくれなかったわね」

「――」

「わたしはね、それが一番……本当に、悔しかったのよ?」

 わたしは両目を閉じて、そして――日ノ本君に口付けした。

 ファーストキスが鉄の味とは、何とも……わたしらしかった。




 降り続いていた雪は止んで、今日は好天に恵まれた。

 空は晴れて、気温が上がり、すっかり雪も解けている。彼のお母様に合わせて正午に霊園を訪れたが、少し慌てすぎたようだ。

 待ち合わせには早かった。

「約束の時間、あとどれくらい?」

「焦らなくても大丈夫です」

「別に、わたしは焦ってなんか……」

「お嬢様、落ち着いてくださいませ」

 今、わたしは不知火とともにとある人の墓前にいる。わたしにとってとても大事な人がここには眠っている。今日はその人のお墓参りで霊園にやってきたのだが、そわそわおどおどしているわたしは少し逸ってしまっていた。

 付き添いとして侍女の彼女の同行、随伴を命じたのは、わたしの父の最大限の譲歩だったのだと思う。聞けばこの度、独断専行でわたしがやって退けたことは、我が家の歴史を揺るがすような問題行為だったらしい。未だかつてないというほどお説教をば頂戴し、げんなりしてはいたものの……不思議と気分は晴れていた。

 久しく陽の目を見ていなかったような気がしているのだが、こんなに眩しかっただろうか。わたしにはそう見えていた。先にお参りしようと思って墓前で膝を折った時、車輪が回る――きこきこ音が、わたしの耳に届いてきた。

「おっす。那智、待ったか」

「んーん、わたしも今来たとこだから」

 病人用の車椅子に踏ん反り返った見てくれは、やはり……らしいといえばらしい。

 それは日ノ本君だった。

「なあに? あなた、一人で来たの? 呆れた……術後のくせに」

「けけけ」

「お母様は?」

「霊園の売店で花とか線香選んでる。俺は一足先に来たんだ。母さんもそのうち来るよ」

「そう」

 折った膝を再び伸ばし、日ノ本君の背後に立つ。車椅子のハンドグリップを握り、墓前に動かすと、彼は少し困ったように頬をぽりぽり掻いていた。

 日ノ本君は緊急手術を受け、一命を取り留めた。ナースコールによって職員の看護師たちが馳せ参じ、彼は手術台に運ばれ、わたしは弁明を引き受けた。

 あの夜、わたしは日ノ本君に授受繋ぎを行った。受ける方の授受繋ぎでなく授ける方の授受繋ぎだ。

 一年前、わたしは新たな病の抗体を作るため、日ノ本君のお父様の血肉を我が身に受けている。日ノ本君の持病は遺伝でその身に生じたものなので、お父様と同じ――つまりわたしであれば「治せた」のだ。

 わたしは彼と約束し、本日正午にこの霊園にて合流することになっていた。

 今日は日ノ本君の実父、お父様の――一周忌だ。

「というか、那智、着物姿……?」

「うぐ……許して。家柄なの」

「いや、それはいいんだけど、別にそんなに畏まらなくてよかったのにと思ってさ」

「日ノ本君はいつも通り……?」

「おう。俺はいつも通り」

「ええっと、喪に服す的な……」

「俺んち、そういうの気にしない」

 わたしと不知火は着物の喪服を着込んで来園したのだが、日ノ本君は普段着でありお馴染みのコートを羽織っていた。

 それはそれで彼らしいので別段文句はないのだが、上から下まで黒一色のわたしたちの立場は……。

「あれ……?」

 気付けば、不知火がどこへともなく立ち去り、姿を消していた。彼女に限ってわたしたちに配慮したとは思えないが、あの子もあの子で此度の騒ぎでちょっぴり丸くなったので……もしかしたらもしかすると、そういうことなのかもしれない。

 この場はわたしと日ノ本君の二人きりと相成って、何だか少し気恥ずかしくて……時間だけが経過した。意外なことに彼も彼で同じような心境らしく、霊園内のわたしたちは静かな時を過ごしていた。

「那智、こないだ、ありがとな」

「うん……?」

「那智に救われた」

 実父の墓石を見つめたままの日ノ本君がぼそりと言う。授受繋ぎの敢行については実は説明前だったが、彼は自身の炯眼のみで真相に辿り着いたらしい。

「気付いてたの……?」

「当たり前だ。俺、死ぬ気だったし」

「……」

「だけど目覚めてみれば俺は病院のベッドに寝かされてて、いっぱい管が繋がれてて、那智のお陰と気付いた」

「……」

 日ノ本君は自分の死期を受け入れ、覚悟の上だった。そういう意味でわたしの行為は寧ろ非難に値するが、それでも「救われた」という言葉をくれて……。

 わたしも救われた。

「医者もかなり驚いてた。凄いな。篠宮家って」

「……」

「でっかい借りを作っちまった。那智は命の恩人だ」

「命の恩人だなんて、そんな……わたしが勝手にしたことだし」

「謙遜すんな。那智がいなけりゃ俺は今頃墓の中だ。心の底から感謝してる。本当に言葉もないよ」

「むう……」

 誉められることに不慣れなわたしは謝恩の言葉がこそばゆく、少し慌てて取り繕って話を逸らすことにした。

「そんなことより、術後はどう? 身体の調子は?」

「え、別に……?」

「今回、わたしが行ったのは正式ではない授受繋ぎで、きちんと手順を踏んでないの。方法だってめちゃくちゃ」

「……」

「だから、今後の日ノ本君の病状の変化は分からない。何とか山は乗り越えたけど……油断は禁物なのよ」

「ふーん……」

 真面目に聞いているのか否か、微妙だ……多分聞いていない。

 日ノ本君の不変っぷりに頭を抱えて呆れていると、彼は何やら解せないらしく、腕組み一人で唸り出した。

「那智、俺は授受繋ぎにより命を拾った――だよな?」

「ええ」

「那智が俺に血をくれたから生き長らえた――だよな?」

「ええ」

「それじゃあ、一体……どんな手立てでそんなことをしたんだ?」

「え……」

「あの時、俺、気絶してたし……なあなあ、どうやって血を?」

「……」

 こちらを振り向き、幼児のように純真無垢に問うてくる。

 わたしはぎくりと硬直し、目を泳がせて誤魔化した。

「過ぎたことよ。気にしなくてもいいわ」

「えー、そうなのか……?」

「それより、今後の話をしましょ。時間はたくさんあるんだから」

 わたしはどうにかお茶を濁してはぐらかそうとしたのだが、視線を戻すと、日ノ本君は高く空を仰いでいた。

「時間はたくさんある」と言われた彼はどこか嬉しげで、にっこり「そうだな。それもそうだ」と無邪気な笑顔を浮かべていた。

「今後の話と聞いて、いくつかご報告があります」

「うわっ!」

「不知火、あなた、どこにいたの……?」

「お傍に控えておりましたが」

「姿を消したり現したり……忍者?」「あなたの付き人です」――不知火の不意の登場に驚く日ノ本君を余所目にし、正論だけしか言わない彼女にわたしは溜め息一つつく。

「それで、なあに? ご報告? お父様から忠言?」

「いえ……」

「言っておくけど、お説教ならうんざりするほど受けたわよ」

「はい。それはもちろんのこと、重々承知の上ですが……」

「それじゃあ、なあに?」

「実は今回、ご両人にお報せが」

 日ノ本君と目と目を合わせ、一緒になって首を捻る。

 只事ではない彼女の態度に、わたしは内心身構えた。

「いいわ。言って。どんと来なさい。わたしは何でも受け入れるわ」

「今からこの場でお話ししても?」

「ええ。二人で聞きたいから」

「畏まりました。それでは、こほん……ご両人にお告げを」

「……」

「この度、めでたく、お嬢様と日ノ本さんのお二人は、ご婚約が決まりました。お祝い申し上げます」

「…………」

「お告げを」なんて勿体ぶって、随分あっさり言い終える。

 日ノ本君はぽかんとしていた。さしもの彼でも……そりゃそうだ。

「ちょっと! 不知火!」

「何でしょうか」

「こっちに来なさい!」

「仰せのまま――」

 日ノ本君のお父様の墓前で騒ぎたくはない。わたしは不知火の腕を引っ張り、そこから少し距離を取る。

 日ノ本君は何が何だか分からないという面持ちだが、それはわたしも同じだった。

 何が何だか分からない。

(それで……不知火、どういうことよ!)

「はい?」

(ひそひそ声になさい!)

(どういうことも何も、先ほど申し上げた通りです)

(こここ、婚約……? わたしたちが……? 一体、どういうことなの……?)

(……)

(というか、まあ、事情はともかく……話が唐突すぎるでしょ!)

(この場で二人で一緒に聞こうと啖呵を切ったの、どなたで?)

(……)

「やれやれ、全く」と言わんばかりに肩を竦めるわたしの侍女。

 角は取れたと思っていたけど、あなた、垢抜けすぎじゃない……?

「とにかく、説明が途中ですので、戻りましょうか」

「わっ! 不知火……」

「フィアンセ様をお待たせしては悪いでしょうし、さささ」

「もうーっ!」

 今度はこちらが腕を取られて元いたところへ引っ張られる。

 日ノ本君と視線が合うと、わたしはまごつき、目を背けた。

「さて。やはり、お二方とも驚愕しているようですね」

「あのね……当たり前じゃない。何にも聞いてないんだから」

「不知火、話が見えないけど、ええっと……どういうことなんだ?」

「お嬢様と日ノ本さんはこの度、咎を背負いました。ですので、その埋め合わせとして婚姻が決まったのです」

「はあ……?」

 要点を押さえることができずにわたしはただただ困惑し、ちらりちらりと日ノ本君の顔を窺い、動揺した。 

 彼は存外真剣そうに不知火の話を聞いていて、婚約などといった言葉に舞い上がってはいなかった。

「お嬢様は禁忌を犯し、授受繋ぎの私的行使で掟を破ってしまいました。日ノ本さんは交わした約束を守ってくれませんでした。これら二つの過失について家中で討論した結果、お二方が入籍すればと決議が纏まったのです」

「待って。日ノ本君と交わした約束……? わたし、そんなの知らないわよ」

「日ノ本さんに本家の秘密を打ち明けたのはわたくしです。それは彼が瀕死であり、死にゆく者の最期の願いとその場で判断したからです。しかし、彼はお嬢様の授受繋ぎにより延命し、交わした約束に背いた上で今も健在しています」

 日ノ本君は「面目ない」と肩を落としてしまっていた。

 わたしは彼の背中を撫でた。そういう経緯だったとは……。

「不知火、そんなの……いいじゃない。今回ばかりは特例だし」

「そういうわけにはまいりません。お嬢様の勝手な行為が招いた結果ですから」

「……」

 ぐうの音も出ず黙りこくる。そんな中で、わたしの脳裏にふいと疑問が浮上した。

 この子はわたしと日ノ本君の婚約について祝していた。もちろんそんな案件自体、突拍子もないことなのだが、二人の婚約と今の話のどこに関係があるのだろう。

 幼少時代、頭の中に叩き込まれた仕来たり、家法。それらの記憶を紐解いた時、わたしは――。

 思わず、声を上げた。

「お察しになられたようですね。流石はご本家ご当主様」

「……」

「え、どういうことだ……? 俺にも教えてくれよ」

「……」

 我が家に伝わる授受繋ぎは、即ち一族の繁栄、存続を目的としたものである。遥か昔にご先祖様が編み出し、継がれた業であり、とどのつまりその概要はお金儲けというわけだ。

 秘伝の漏洩を防ぐための掟は極めて盤石で、この授受繋ぎの非営利的な行使は決して許されない。けれども、そんな中でも唯一特例とされる場合があり、それは「授ける対象――相手が身内であること」だったりした。

「聞けば、すでに日ノ本さんはお嬢様に求婚し、返答待ちの状態であると……わたくし、伺っております」

「……」

「つまり両者が縁組みすれば当面の問題は解決し、話が大方丸く纏まり、収束するというわけです」

 確かにわたしと日ノ本君が「許嫁」という関係であれば、此度犯した行為一連の大部分は不問となる。

 本来、わたしは篠宮家では重い重い犯罪者だ。戸外に追放されたとしても不思議ではない立場にある。しかし、今回……家内全体の反感を一身に受けたものの、小言と説教だけで終わって実質お咎めなしだった。それはわたしの優秀すぎる侍女の配慮が成したもので、彼女のお陰だったらしい……。

 不知火、あなたという子は……もう!

「ねえ、不知火……そんな根回し、いつから計画してたの……?」

「はて」

「お父様を丸め込んで糸引きしたのもあなたね……」

「ふふふ」

 笑顔。何年も見ていなかった不知火の笑みに目を見張る。

 一瞬、本当に一瞬のことで、わたしは我が目を疑ったが、まるで何事もなかったように――彼女は日ノ本君を見た。

「日ノ本さん、差し詰め現状は斯々然々というわけです。要点はお嬢様との婚約、ご理解いただけましたか?」

「ああ」

「日ノ本さんには将来的に篠宮家へと籍を移し、婿入りをしていただきますが、何か不服な点は?」

「ない」

 これまた安易に本能的に日ノ本君が即答する。お母様への説得だとか家督についての問題など、懸案事項は山ほどあり……独断できないはずなのだが。

 不知火はこくりと一つ頷き、今度はわたしに目を向けた。日ノ本君も日ノ本君でこちらをじっと見つめていて、二人で婚約についての返事を急かしているかのようだった。

「二対一とか、卑怯じゃない……」

「お嬢様、ご決断を」

「むう……」

「那智、俺、頑張るぞ。幸せにするぞ。きっと!」

「むう……っ!」

 火照った顔を両手で覆い、わたしは不知火に飛びついた。

 彼女はわたしに「いい子いい子」し、ぎゅっと懐抱してくれた。

「日ノ本さん、もしもなっちゃんに変なことをしたら――」

「あはは。分かってるって。安心しろ。肝に銘じておくから」

「……」

 日ノ本君をじとりと睨み、わたしに頭を下げた後――「わたくしからは以上です」と、彼女は再び退席した。

「今、あの子、わたしのこと……」

「ああ、ちゃん付けしてたな」

「……」

「俺もちゃん付けしてあげようか」

「やだ」

「くくく……そうなのか」

 わたしが変わったように、あの子も変わることができたのだろう。それもこれも日ノ本君に感化された結果であり、わたしたちは彼のお陰で和解できたのだと思う。

 再度墓前で膝を折って、わたしは心を落ち着かせた。しばらく墓石を見つめ、そうして合掌した後、黙祷する。わたしの長い礼拝の間、隣りの彼は黙っていた。きっと一緒に、お父様への祈りを捧げていたのだろう。

「ねえ、あのね……日ノ本君」

「……」

「ほんとにありがとね」

 黙祷後、目蓋を開いて日ノ本君に語りかける。

 墓石を見つめたままのわたしに彼の様子は分からないが、きっと仄かに笑みを浮かべた、いつもの顔をしているだろう。

「わたし、自分の生まれや育ちをずうっと恨んで卑下してた。毎日毎日辛くて辛くて、一人ぼっちで悲しんでた。でもね、掌返しだけど……今は感謝してたりする。わたしが篠宮の娘でなければあなたを救えなかったから、だから、この身に流れる血に……ちょっぴり誇りが持てたわ」

「……」

「わたしが本当に求めてたのは自由や平凡な日々じゃなくて、わたしのことを認めてくれる――そんな存在だったのよ。辛いことや悲しいことは今後も続いていくけれど、だけど、どんなことがあっても……わたしは生きていけると思う」

 日ノ本君ににこりと笑うと、彼もにこりと微笑んだ。

 今日、わたしは自分の髪をリボンで小さく纏めている。あの夜、日ノ本君に貰った可愛い可愛いリボンでだ。

 見やれば、彼もあのミサンガを腕に結んでくれていた。恥ずかしいのでそれらについて言及したりはしないのだが、二つの品が二人の絆のようで……。

 わたしは嬉しい。

「……」

 再び彼の背後に立って、その両肩に手を添える。わたしたちは同じ気持ちで同じ場所を見つめていた。わたしと彼のその目前には大切な人のお墓があり、日ノ本君のお父様なら、きっと――。

 見守ってくれるだろう。

「礼拝品や掃除道具は母さんが持ってくるからさ。あんまり気負わなくていいぞ。その時、もっかい拝もう」

「うん」

「しっかし、とんとん拍子だなあ。婚約の話もそうだけど、親子揃って対面なんて……何だか緊張するなあ」

「……」

 そうなのだ。わたしは今からお母様に会うのである。一年前に日ノ本君の家族と関わっているものの、わたしは彼のお母様と顔を合わせていなかった。

 つまり今日のお目見えこそが初対面というわけで、事が重なり忘れていたが……今更そわそわしてしまう。日ノ本君は心にもなく「緊張する」と言っているが、それはこちらの台詞であって……わたしは冷や汗を掻いていた。

「そんな顔をしないでくれよ。ざっくばらんに行こうぜ」

「うう……」

「つーか、そもそも身構えたりとか、そんな必要ないし……にしし」

 何やら含んだ笑い方の日ノ本君は意味深だ。怪しい怪しいそんな態度に「なあに?」とこちらが問う前に、彼は話を逸らすように背後のわたしを仰ぎ見た。

「せっかくだからお参りついでだ。帰りに学校寄ってくか」

「あ、子猫のお墓参り!」

「そう。それと保健室だ。思人ちゃん、あれから機嫌悪くて……まあ、俺のせいだけど」

「それで思い出したんだけど、和解できたの? 山城君」

「いやー、それが聞く耳持たずで、あっちもあっちで苦戦中。流石に取りつく島もなくて、ちょっと今回ばかりは……」

「あちゃあ……」

 わたしたちの勝手な行動の返済、償いは済んでおらず、まだまだやるべきことは多い。課題はたくさんありそうだ。

 しかし、わたしは一人でないと、今なら自信を持って言える。日ノ本君と二人であれば怖いものなどありはしない。彼とともに手を取り合って一つの道を歩いていき、彼の思いが変わらなければ、わたしは――。

 きっと、その時は――。

「分かった。それじゃあ、山城君に二人で会いに行きましょう。わたしも一緒に謝るから、そしたら……効き目があるかも」

「!」

「子猫のお墓参りをして、保健室で先生に会って、山城君と仲直りして……ふふふ、忙しくなりそうね」

「いい考えだ!」と大喜びする日ノ本君に目を細める。

 わたしは彼のこういう時のあどけなさが好きだった。

 もはやわたしのこの人生に陰りなんて差していない。

 気付けば、わたしの右隣りには――不知火が一人立っていた。

「お嬢様、お義母様です」

「え……?」

「ご一緒いたしました」

 不知火、そして日ノ本君も左隣りを見つめている。わたしのすぐ横、すぐ傍だ。

 わたしはそちらを振り向いた。

「あーっ!」

 冬の空に向かって叫び声が響いていく。生まれて初めて出した声だ。みんなに一斉に笑われた。

 雲と雲の狭間において見え隠れする太陽は、まるでわたしを囃し立てて……からかっているようだった。

「そ、そんな、どうしてここに……?」

「やっほー。あたし、時雨ママよ」

「時雨ママ……? えっ! えっ!」

「あはは。那智ちゃん、こんにちはー」

 のほほんとしたこういう感じ、やはり親子だ……そっくりだ。

 わたしは驚き、腰が抜けて……呆気に取られてしまっていた。




ジュジュツナギ 下(完)

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