キツネさん、時給九五〇円
キツネさんの熱いシリコン製品への思いを聞いた翌日、アルバイト応募に申し込みを済ませたキツネさんの履歴書の添削を行う。さらにその翌日、俺が仕事をしている間にキツネさんは面接を終えていた。
そしてその週の金曜日。仕事を終えてキツネさんに連絡すると、家から近所にあるこじゃれた個人経営のバーにワープで直に連れて行かれた。流されるままに生ビールを注がれたグラスを軽く合わせる。
「カンパーイ!」
「乾杯、って、何を祝ってるんですかこれ」
「駅前のハンバーガーショップから連絡が来ての、儂の就職祝い!奢りじゃ!」
「ああ、無事決まりましたか。おめでとうございます」
とは言うもののファストフードやコンビニなどは、まともに日本語が出来てまともに受け答えが出来れば大抵は落とされるはずもない。だが、キツネさんが順調に現代日本社会での所作を身に付けているとも言える。いいことではあるのかな。
「で、希望の時間帯で働けそうなんですか?」
「とりあえず来週の月曜、朝九時から昼の二時までと連絡が来た。後の細かい日程はその時に決めるそうじゃ」
「そうですか、よかった。外国人ということは問題になりませんでしたか?」
「問題ないようじゃった。日本語がきれいな外国人ということで期待していると言われたのう」
美人で数カ国語できる新人なんて期待もされようというものだろう。
そんなこんなご機嫌に微妙に高いウィスキーをボトルで頼んで飲み明かし、週末をいつものように過ごして翌月曜日。
ご機嫌テンションはどこに行ったのか、夕食時に微妙な表情をしたキツネさんの話を聞く。
「ひたすらレジに立って注文を取り続け、合間に客席を見回って掃除するだけじゃった」
「そりゃまあ最初はそうでしょうねえ」
「週ごとに働く時間を調整するようで、今回はほぼ儂の都合が通った。それだけはよかったかの。暇な時間に掃除をしろと言われて、こっそり魔術で掃除しきっているのに、手を動かしてフリをしているのはしんどい……」
「まあ、魔術を使えない人が普通なので。こちらの普通の人はそうやって仕事してる経験だと思えばいいかと」
俺としては魔術の掃除とやらがやりすぎてないかどうか気になったが、しょんぼりしているキツネさんをあやすだけにとどまった。
平日夜はキツネさんの仕事のお話を聞く日々が続くようになった。お客さんとの出来事だったり、同僚の話だったり、仕事内容はともかく人間関係の構築の方は楽しそうに話す。
毎日コーヒーを同じ時間に買っていくスーツ姿のサラリーマンが疲れ気味な表情をしていて、同じくサラリーマンと自称していた俺のことを思い出して大丈夫にしているか考えてしまう。フィリピンから来たという同僚のジェニーに、日本語も英語もきれいに話せてうらやましいと言われた。常連のおばさんに「あらあなた日本人じゃなかったの!」と驚かれた。女子大学生の同僚に仕事中は匂いのキツい化粧品は控えるように言われて、普段から何も使っていないと答えたら「は?キツネさん何もしてないのにこの肌なの!?」とペタペタ肌を触られて、ちょっと鬼気迫っていて怖かった。
等々。どうやら俺以外のこちらの人からの呼び名もキツネさんとなっているらしい。
「偽名で呼ばれる方が違和感があるからの。仕事中は就業規則とやらで帝さんと呼ばれておるが」
「あそこは苗字にさん付けが基本でしたっけ」
些細なことばかり話しているが、初日と違ってキツネさんは楽しそうな表情をする毎日だ。
八月を終えて九月、月が変わってバイトのシフトに変動が多少あり、その調整でキツネさんのシフトにまで影響が出た。具体的には土曜の早朝、スポットでその週一日だけ入ってくれないかお願いされたらしい。
「マネージャーが事務所で悩んでおってのう。中途半端な時間に中途半端に空いてしまうようでな。不憫じゃったから、その日はちと朝早くから出かける」
「そういうこともあるでしょうねえ。俺もバイトしてた頃、そういうことありましたよ。慣れない時間帯で微妙に戸惑うんですよねえ」
「ふむ、そういうものかの。儂に任されている仕事など、さして大きく変わることもあるとは思えんが」
昔と今の違いか店舗によっての違いなのかもしれないが、俺が他のチェーン店でバイトしていた時は日・週・月で定期でやる作業があったりした。排水溝の掃除とか、機械のメンテとか。そういうものは大抵慣れている人がやって、臨時で入った者はそういう作業があることを知らされるだけなのだが、普段の店内の動きと違ってどうにも妙に感じるのだ。
キツネさんは全く問題なさそうに言う。まあ接客なんてイレギュラーばっかりであるから、さもあろう。
その土曜の朝、キツネさんが起きるのにつられて俺も目が覚める。キツネさんが頭ぼさぼさのままでチョコレート味のシリアル食品に牛乳をかけてもっさもっさ食べているのを見て、スマホで時間を確認する。
「ふあー。今何時……って五時ちょっとじゃないですか」
「む、起こしてしまったかの。まだ眠かろう。タダシ殿は寝ているがよい」
「見送りくらいはしますよ。普段キツネさんのおかげで楽してるんだから、それくらいは」
「そうか。ありがとう、タダシ殿」
ニッコリと笑ってシリアルを食べ終わったキツネさんがワープしていくのを見送る。
さて、このまま寝てもいいが、求められた行ってらっしゃいのキスで完全に目が覚めたうえに腹が空いている。キツネさんと同じようにシリアルを食べて散歩にでも行く、というのもいいが。
「飯食いに出掛ける。サキ、一緒に行く?」
『ハンバーガーですか?』
よくお分かりで。