キツネさん、偽名を名乗る
夏休み明けの出勤日、いつものように退勤し電話でキツネさんを呼び、自宅付近のスーパーまでワープして夕飯を買い込む。そして再びワープして自宅へと戻り、キツネさんと食事をとりおえるあたりのこと。
「タダシ殿、明日から仕事を探そうと思う」
小さいテーブルを挟んで向かいにあぐらを組んで座るキツネさんから、唐突な就職活動表明を聞く。
俺はキャベツサラダをもしゃもしゃ咀嚼していたところでフリーズした。別にニートが働き出すと聞いて感動したわけではない。キツネさんがこちらで働いてみたいとは前に聞いていたことだ。問題がいろいろあって棚上げしていたことなのだが。
口の中のものを飲み込んで質問する。
「えっと、住民票とかはどうするんです?」
「解決した」
キツネさんは平然と言い切ってビール缶を呷り、説明を続ける。
「ソルと相談した結果、どのように国籍なり外国人として正当に永住権をとるなりするとしても、何かしらどこかで経歴をでっちあげんことにはどうにもならん、という話に落ち着いてな」
「はあ、まあそうなりますかねぇ」
「詳しい経緯は省くが、政治家や役人に軽く幻を見せて、儂の在留権を確保した」
「は?」
省き過ぎである。そして手段がなんとも不穏当に聞こえる。
「あの、大丈夫なんですか、それ」
「大丈夫じゃ。書類上はまっとうな外国出身の在留者となっておる。タダシ殿に迷惑はかからん、ほれ」
キツネさんが写真付きの何かのカードをテーブルに置いた。在留カードと書いてあり、どうやら外国人の身分証のようだ。今は外国人登録証じゃないのか。出身国は中国。年齢は二十二歳の設定。サバ読み過ぎで笑う。本当のことなんて書けようもないし、一緒にいる俺にも遥か年上だって認識はあまりないけどさ。
まあ問題ないのかな?
「出身は中国。一応期限付きなんですね。へぇ、名前は……なんて読むんですかこれ?」
「帝仙狐」
「日本語音読みでいくと帝仙狐ってとこですか。狐の字はともかくとして、他はどういう由来なんです?」
随分と強キャラな名前である。中二病もいいところだ。仙の字は日本の人名で見たことがあるが、姓が帝な人って覚えがないな。まあ神さんはいるようだし、王さんもいるし、なくはないのだろう。
「帝の字は母の血筋の者らから姓に借りた」
「ああ、キツネさんの血を引く人達がいるように、リュウさんの血を引いた人達もいるんですね」
「おう。いつだか話に出た妲己の夫の名が帝辛と言って、かなり薄いが母の血を引くものでな。丁度よいと思ったのじゃ」
「キツネさんが世話になったというのも、リュウさんの親戚だったからですか」
キツネさんの血族が葛の葉や安倍晴明となったことを考えれば、リュウさんの血族にも英傑が現れておかしくない。昔の中国では五つの爪がある龍は帝を示すものだったと聞いたことがある。異世界ではリアルに龍の血筋が帝に連なるのか。いや、妲己の時代なら王か。
リュウさんが龍の王で、人の王がリュウさんの血筋を薄く引いて。なんだか大変だ。まあこの辺りのことは別にいいか。重要な疑問は他にある。
「しかし、日本国籍ではなくて中国籍なのは何故でしょうか」
「多少は慣れてきたとはいえ、いまだ知らんことのほうが多い。ソルに勧められての、すっとぼけた外国人のフリをしたほうが楽なのでは、と」
「ソルさん本人がすっとぼけた外国人みたいな話し方なのに」
「あれはわざとじゃろう。やれと言えば競馬の実況中継くらいこなす奴じゃ、あやつは」
すげえな、知識的なことじゃなくて早口言葉的に。
……それにしてももうちょっとこう、競馬以外の表現をしてくれてもいいんじゃなかろうか。
「ともかく、ソルが言うところではの。日本で生まれて戸籍を得られなかった人々のように偽装して経歴をでっちあげるよりも、そちらのほうが手っ取り早いのではないかというとじゃ。儂の振る舞いにおいても、外国人という扱いの方が理解を得やすいじゃろうとな。確かに外国人のようなものじゃしの」
なんだか俺が考えてるよりも、ソルさんは日本の法制度や社会にかなり詳しくなっているようだ。こちらに関しては純粋に賞賛できる。確かに、キツネさんは日本語が話せると言っても培った文化の根底が違う。
何より、と一言置いて、キツネさんはとてもいい笑顔で何かの書類を取り出した。
「タダシ殿と結婚してしまえば大きな違いはないじゃろうと言っておったの」
「そうなんですかね……って婚姻届ですか、これ」
そうなのだろう。キツネさんとソルさん的には。
しかし、夫婦になるだのなんだの口で言っておいても、実際に書類として目の前に出されると色々考えてしまう。
目の前に置かれた婚姻届はすでに住所氏名欄が埋められている。俺の筆跡を完全に真似て。ちょっと怖い。手にとって確認してみようと思ったら、下には俺の戸籍謄本があった。キツネさん関係らしき書類もある。婚姻届をよく確認してみると、キツネさんの証人欄には見知らぬ名前が書いてある。
恐る恐る尋ねる。
「どこまで準備が整っているんです?」
「あとはタダシ殿の印鑑と証人の欄が埋まればよいのう。なんじゃ、煮え切らん顔をして」
キツネさんがちょっと拗ねたような口調で言った。どうも俺の顔はこわばっていたらしい。
別に結婚そのものは嫌なわけじゃない。嫌なわけじゃないんだが。
俺は残りのサラダをかっこんでから言った。
「そのー……証人を誰に頼むかとか、親兄弟や会社なんかにどうやって説明しようかと思いまして」
「説明。ふむ。説明か。儂との馴れ初めのことなどか」
「そうなんですよ。外国人って設定を説明したら、どこで出会って結婚するまでどういう付き合いをしたのか説明しないと不安に思われますし。なんとかしたとして、でっちあげの情報を元にしてこれから親戚付き合いをしないといけないとなると、俺はボロを出さずにいられるか自信がないんですよねぇ」
「あー。儂の方は娘に少々嫌みを言われた程度ですんだが、タダシ殿の方は策をよく練らんといかんのか」
いかんのですよ。三十路で女っ気がなかった男に外国籍の若い女性とか、国籍目当てか財産目当てとしか思われない。俺の場合は財産を狙われるほどではないだろうから前者扱いだ。どう考えても工作員です、本当にありがとうございました、ってなもんだろう。
「本当にあったことを説明したら、俺の気がふれたか、怪しい団体に洗脳されたかと心配されるでしょうし」
「いっそのこと異世界へ連れて行って……も、騒ぎが起きてもおかしくないのう。ふうむ」
「まあどんな状況にしろ、結婚となると身内のなかではひと騒ぎになりますしねぇ」
「ソルはその辺り、何も言わんかったのう。儂が覚悟してると考えてのことなのか、はてさて。儂としても、酒とゲームとちょこっと仕事をしてという、厄介ごとのない平穏な生活を崩したくはないんじゃが」
枝豆とビールが何度か口にしながら、キツネさんは婚姻届を睨んで考え込む。以前は一緒に住む俺の迷惑にならないように行動すると言っていたが、今の言葉はキツネさんによる自身への考えが口から出てきたものだろう。
悩んだ上で、キツネさんは書類を静かに封筒にしまってベッドの下のクリアケースに納め、吹っ切れたような笑顔を俺に向ける。
「保留!」
「いいんですか?いや、ありがたいというか、申し訳ないですけど」
「すぐに届けを出せるとも思ってはいなかったのじゃが、タダシ殿の周囲の事情を考えると、ちと時間がかかりそうじゃな。異世界ではともかく、こちらで名実共に夫婦を名乗れるのはまだ先。子を産むのはもっと先になるかの。しばらく儂の身分は出稼ぎ外国人の帝さんじゃ。ということで」
キツネさんは新しい何かの書類を取り出す。こちらは俺もそこそこ見知ったものだ。
「履歴書ってどう書けばいいのじゃ?」
「とりあえず食事の後片付けをしてからにしましょうか」