キツネさん、殺気立つ
一階の収容人数つめつめで最大二十人ほどの個人経営の天ぷら屋。うちの近所にあるので、休日の昼のサービスランチを食べにちょくちょく行く店である。二階にも席はあるようなのだが、上がったことはない。近隣の住人がわりとよく訪れるようで、外から見て混んでいるときは諦めて違う店に行ってしまうからだ。今日の先客はカウンターに一人いるだけだったので、挨拶しながら人数を言って座敷席へ向かう。
座敷には四人席が三つあり、そのうち窓に近い席で男二人、女二人が向き合う形に座る。ソルさんとリュウさんは当然知らない店だから俺とキツネさんのお薦めでよいと言い、とりあえず天ぷら定食四人前を注文する。ついでに頼んで先に持ってこられたビール大瓶二本は、人外母娘二人がさっさと飲み干した。その様子と昨日の酒のつまみの食べっぷりを考慮して追加注文しようとしたところで、ソルさんが代わりに注文させて下さいと言ったので、それではとお願いをして正面のキツネさんから空き瓶を受け取る。
「キツネさん、外ではグラスに注いで飲みましょうよ」
「つい母の飲み方につられてしまっての。すまん」
キツネさんに横目で見られながも、リュウさんはどこ吹く風で空き瓶を渡してくる。というか、どこ吹く風どころか、大変いい笑顔である。
「起き抜けに飲む凍るように冷えた酒は、いい目覚ましになるな!」
「母よ。追加の酒はちびちびと飲んでくれ。あまり店の酒を飲み過ぎると、他の客の迷惑になる」
「ほほう、キツネが見も知らぬ他人をおもんばかるとは珍しいことだ」
二日酔いへの迎え酒ではないようで結構なことです。キツネさんは諦めたのか呆れたのか、小さく一つため息をついた。
「そもそも、儂は真っ当に取引をする相手には、それなりに誠意を持って対応しておる。近頃の異世界では腹に何か抱えて話しかけてくる奴が多すぎるだけじゃ」
「ふむ。たしかに昔、キツネは妲己などに懐いておったりしたな。あの頃はキツネの力もさほど知られていなかったしな」
日本語での会話中に、突然中国語の発音が混じる。しかし魔力を使った会話なので俺にも意味が理解できた。
キツネさんが妲己に懐いていた、と聞こえたようなのだが。
「妲己、ですか。こちらでも有名な名前がまた出てきましたね」
「だっき、と呼ばれているのか。しかしあの娘はさほど有名ではなかったと思うが」
リュウさんが頭を傾げて言う横で、キツネさんもシンクロするように頭を傾げて口を開く。
「だっき、か。そう言えば、狐の有名な名前として以前タダシ殿が言っていたような」
「ええ。こちらでは、王を誑かした比類ない美女で国を傾けた悪女と言われていまして、そこから正体が狐の化物だったからでは、なんて話が」
「……なんじゃと?」
キツネさんの目がすわる。
空気が冷えるように感じる。
なんだかとっても不機嫌である。殺気を感じるとはこのことか、ぶわっと手に汗が浮かんだ。隣のソルさんも思いっきりビクっと反応した。
「睨まないで下さい。こっちの妲己とそっちの妲己とは別人でしょう」
「む。そうじゃが……しかし古い友の悪口を言われているようで、いい気がせんのう」
「数千年前のことを正確に記憶しているような生き物はこちらにはいませんから、どこまで正しい話なのかは知りませんけどね」
「話が大きくなっていることもある、か。タダシ殿、聞かせては貰えんか」
キツネさんが大きく息をはいて額に手を当てると、殺気が引っ込んだ。周囲を見回すと影響があったのは俺とソルさんだけで、店の人や他のお客さんは問題なかったようだ。リュウさんはのほほんとしている。
しかし、国の王妃が友人か。交友関係がぶっ飛んでるのは今更か。俺の隣で「死ぬかと思いまシター……」とか呟いている元王もいるし。
「えっと、落ち着いて聞いて下さいね?それにそんなに知らないんですよ、具体的に何をしたかってことは。よく知られていることは、木に肉を吊り下げ、酒の池を作ったりして豪遊し、国の金を遣い込んだとか」
「えっ」
キツネさんが固まった。
リュウさんは思い返すように何度か頷く。
「そんなこともあったな。キツネに人の世を学ばせるためにどこぞの王に面倒を見させてな。その嫁が妲己だ。キツネを預けてから数年後に様子を見に行ったときに、儂と連れていた子供達のためにやたら豪勢な宴をしてくれてな」
どうやら酒池肉林はリュウさん一家の歓迎のために行われたようだ。
懐かしそうに楽しかった思い出を語るようなリュウさんの隣で、何故かキツネさんは対称的にわなわなと震えて頭を抱えている。
「妲己に母達への食事を頼んだのは儂なんじゃが。よく食べる者らだと言って。妲己は仕方なさそうに笑って頼まれてくれていたが。ええ?儂の願いのために妲己が悪女呼ばわり……?」
「キツネさん、あくまでこちらの昔話ですからね」
今まで聞いた話からして、同じ名前の存在でも異世界とこちらでは性質が異なるのはよくあることなのだろう。
そもそも、リュウさんが王にお願いか命令かしていることからして、人の王であることが絶対的強者ではない世界なのだ。その配偶者もそうそう我儘ばかり言える世の中じゃないだろう。こちら以上に相応に聡明さが求められる立場ではなかろうか。
「そうじゃな、別人じゃ。しかし、儂は悪女呼ばわりされるほどの負担を妲己にさせていたのじゃなあ」
「そう落ちこむな、キツネ。こちらとは事情も色々と異なるだろうに。ほら、飯が来たようだ。そんな顔をしていてはまずくなる」
しょんぼりしているキツネさんをリュウさんが背を撫でながらなだめる。そもそもが大食らいの親のために準備させたせいらしいのに、知らん顔して娘の金でビールを飲みながら言っても説得力がないような。
まあ暗い顔して飯を食うのがアレなのは同意だ。
「キツネさん、仲が良かった人なんですね。どういう人だったんですか?」
「ん。そうじゃな。美くしく、気が回る娘でな」
キツネさんの昔話を聞きながら、衣の薄い天ぷらを四人で楽しんだ。