キツネさん、通勤電車に乗る
スマートフォンのアラームで目が覚める。隣に寝ていたキツネさんも煩わしそうに体を起こし、白い肌が惜しげもなく朝陽に照らされる。
「くああ。なんじゃ、やかましい」
「目覚ましで音を鳴らしてるんです。よっと」
キツネさんの背面を通ってアラームを止める。異様に気怠いが仕事に行かなくては。素っ裸のまま一つ伸びをすると、サキが服を持ってきてくれた。受け取って下着を履く俺の前に、にょろりと触手が伸ばされる。
『きのうはおたのしみでしたね』
ラノベや漫画を読んで覚えたんだろうが、文化理解が早いな。変な方向に。
つうか、楽しかったのは最初だけで後半はしんどかった。何時間かけたか分からんし、何度かキツネさんに強制起動させられて少し痛い。どうやら俺はエロゲの主人公には向いていないようだ。
曖昧に相槌を打ちながら服を着る。
「朝か。タダシ殿は働きに出るのか。むー」
「ええ。言っていた通り、今日から五日間の平日は、朝から夕暮れまで仕事がありますんで」
「仕方ないかの」
キツネさんが小さく溜息をついて下腹部をさする。
「どうかしましたか?初めてと言ってましたし、痛かったり、違和感でもありますか」
「痛くはないが、何かがとどまっているようでな。タダシ殿の居ったところが暖かく感じる」
そりゃあ何かを置いてきたんで残っているでしょうよ。
「ふふ。昨晩もそうじゃったが、タダシ殿は色々と優しいの」
思いやりを忘れないようにするって宣言したばっかだし、女性としては初めてって言うしそりゃあね。積極的なキツネさんには必要なかったみたいだけどね。明日足腰にきそうな気がする。
「もっと温もりを感じていたいが、我儘というものか。そういえば、仕事場は近いのかの?」
「いえ、電車に二十分くらい乗ったところにあります」
「ふむ。ついて行ってよいじゃろうか。普段タダシ殿がどのようにしているのか見てみたい」
キツネさんは音もなくふわりと浮かび体を横軸に回らせながら鈍く輝いた。光が収まると着衣が終わっていて、耳も人間モードになっていた。まるで魔法少女の変身シーンのようだ。
「とくに面白いものなんかないと思いますが。それに仕事場までは連れて入れられませんよ?」
「そこまでは考えておらんよ。タダシ殿と同じ風景を見たいだけじゃ」
同じ風景ねえ。ろくなもんじゃないんだけどな。言ってくれていることは嬉しいんだけど。
それぞれサキとタマを服の内に忍ばせて家を出る。キツネさんも体力を相当消耗したはずだが、歩みは軽く違和感などなさそうだ。駅に向かう道すがら、途中のコンビニでパンと飲み物を買って食べながら歩く。
「タダシ殿、随分と忙しい飯じゃの」
「朝はできるだけ寝てたいってのもありまして。面倒くさいからこんな感じになっちゃってますね。行儀悪いのは分かってますが」
駅に近づくと大量の降車客が吐き出され、鬱陶しい政治演説を無視してさっさか歩いていくのが見えた。どうやらタイミングがいいのか悪いのか、各路線の電車の発着がかち合ったようだ。
それを見てキツネさんが少し引いている。
「キツネさんは引き返してもいいんですよ?」
「いや、行こう。タダシ殿について行くと決めたのじゃ」
食べ終わったパンの袋をまとめ、どこか悲壮な決意を口にするキツネさんを連れ、改札へ向かう。改札の時点で人ごみがすごい。人波を乗り越えてホームに辿り着くまでに、キツネさんはすでに少々グロッキー気味になっている。
「……全て薙ぎ払いたい。無表情に人が大量に歩いているのが気持ち悪い」
「気持ちは分からないでもないですけど。まだ本番じゃないですからね」
降車客がそこそこいなくなったかと思ったら次の電車が来る。そしてまたわらわら降りて行くのをやり過ごし、電車に乗る。ぎゅうぎゅう詰めの一歩手前、いや二歩手前くらいだろうか。
車内に乗り込んで振り向くと、キツネさんが無言で抱きついてきて、俺の胸に顔を埋める。気配は消してないらしく、横のスーツのおっさんにちょっと見られた。すいません、バカップルで。
新宿で大量に人が降りる。入れ替わりに乗り込んでくる人はさほど多くなかった。キツネさんが顔を上げて少しほっとした表情をする。
「今日は新宿から乗ってくる人が少なめでしたね。雨が降ってたら二割増し、運行の乱れにはまったら五割増しってとこですかね」
「ふああ、これより更に窮屈になるのか」
キツネさんの背中をあやすように叩く。
周りを見回してみれば通勤通学の人々がスマートフォンを弄っていたり、文庫本を読んだり、席についている人の中には目を瞑って寝ている人もいる。俺も普段ならばスマートフォンでネットを見ているところだ。
彼等の表情は無だ。俺もそうだったんだろう。通勤時間帯にイチャついてる奴なんかが隣にいたら鬱陶しくてたまらないものだ。すいません鬱陶しくて。
職場の最寄駅がそろそろという頃合い。同じ風景を見たいと言いつつ、ほとんど俺に抱きついていたキツネさんを離し、ドアが開く方向へ顔を向ける。
「キツネさん、あと少しで降りますよ」
キツネさんはゆっくりと俺の顔を見上げ、俺と同じ方向に顔を向け、横を向いたまま頭を軽く俺の胸へのせる。
「やっとか」
「そんな長い時間でもないですけど」
「苦しいものは長く感じるものじゃの」
苦行扱いですか。確かに通勤通学なんてみんな苦痛だろう。現代日本人にストレスが溜まるわけだ。
さておき、水道橋に着く。またわらわらと出口に向かう人の群れ。今度はそこに混じって歩く。新宿ほどではないからか、キツネさんの表情はいくらか明るさを取り戻している。
「昨日も一昨日も新宿の人混みはすごかったと思うんですが、今日は何故あんなに鬱陶しそうだったんです」
「陰気に感じたのもあるが、窮屈で仕方なくての。タダシ殿、今日からは儂が直に仕事場近くまで送り迎えしよう。夫にあんな思いはさせておけん」
「それは助かりますねえ」
そこまで嫌か。まあ、満員電車に揺られながら、RPGみたく魔法でワープできたらなあ、と考えるのは数多くいるだろう。まさか実践できるとは。
それにしても夫かあ。結婚なんて出来やしないと思ってたのに、そんな呼ばれ方をするなんてなあ。
「なに、タダシ殿一人でもそのうちできるようにするのでな。今日からは仕事が終わったら儂に電話するようにの。さっさと帰って、訓練に励むからの」
魔術の訓練ということだろう。他人の耳があるのでぼかして言ってくれたようだ。しかも俺がワープできるようになるらしい。
でも、魔術の訓練ってことは。
「毎晩ですか」
「送り迎えを儂がすれば、多少は時間の足しにできるじゃろう」
お手柔らかにお願いしたい。本当に。齢三十を超えての魔法使いデビューはなんだか大変そうだ。