キツネさん、ラブホテルに入る
キツネさんが白球のおかわりをして楽しそうにホームランを量産しているのをぼんやり見ながら、登録名のことをすっかり忘れていた左手に持ったままのスマートフォンに思い至る。
俺がいない間に使えるようにしておかないと、何のために買ったのか分からない。キツネさんが満足したらさっさと帰るべきか。
「なんだかよくわからんが、楽しかった」
キツネさんは満面の笑みを浮かべて時速130キロのケージから出てくる。このバッティングセンターで最も球速の出るところなんだが、問題なく打ち続けていた。大抵の女性は体がすくんだり、まともに当たらなかったりするのが普通だが、キツネさんはやはり規格外のようだ。
「それは何よりです。じゃあ帰りましょうか」
「む、宿に寄りたいのじゃが」
忘れてなかったか。行っても何もするつもりもないんだが、如何したものか。
「寄ってどうするんです」
「今はただ、やけに派手な外構えの宿の中を見てみたいだけじゃ。男女で入る宿ならば儂一人で入るのは目立つじゃろうし、タダシ殿が居らんと困ることもあるかもしれん。物見遊山に付き合ってくれんかの?」
できるだけ付き合うと言ったのは俺だし、約束を持ち出されると弱い。仕方ないか。まあ、時間を潰すものはテレビなり何かあるだろう。
ため息を一つつく。
「分かりました。たまには広い風呂にゆっくり浸かるのもいいかもしれませんね」
「では行くとするかの、タダシ殿」
機嫌をよくしたキツネさんは左手を俺の右手と繋いで、やや先を行きながら俺を促してバッティングセンターを出る。
「腕を抱いて身を寄せるのも良いが、こうして手を取るのも乙なものじゃの」
乙なものって感想は何か違うように思うが、憎からず思う異性と手を繋いで歩くのは確かにいいものだ。手汗かいてないか、大丈夫だろうか。キツネさんの手は特に不快な湿り気などはなく、柔らかく俺の手を握っている。感触でわずかに俺の手より小さいと分かる。あんなに軟球をバカスカ打ち返してた手とは思えない。
「ええ。それで、宿を何処にするかはキツネさんの勘にお任せします」
「うむ」
曖昧に相槌を打ってホテルの選択を委ねると、キツネさんは一言頷いて少し高そうなホテルへ迷いなく進み、入口に立つと自動ドアが開く。
「宿は入口付近に人がいるものじゃと思っていたが、誰もおらんのう」
「こういう宿の高めのところは、休憩程度なら宿の人に会わなくても支払いまで済むようになっているんです」
「なるほど。これから二人で睦まじくすると分かるところを、他人に見られたくはないものじゃろうからの」
「ええ。で、ここですが」
入ってすぐのところに部屋の写真がボタンとなって光ってたり暗くなってたりして並んでいる場所を指さす。無人受付口だ。
「光っているところが今空いている部屋です。好きなところを選ぶと鍵が出てくるはずです」
「ふうむ。自動販売機みたいじゃの」
似たようなシステムではある。提供されるものが物かサービスかの違いだ。
キツネさんが、よっ、と掛け声とともにボタンを押すと、写真の下にある受け取り口から鍵が出て来た。取り出してみると501とある。そのまま受付の横のエレベーター前に移り、上りのボタンを押すとすぐにドアが左右に割れた。
「タダシ殿、これは?」
「ああ、エレベーター初めてでしたっけ。乗りますよ」
二人で乗り込み五階へのボタンを押すと、機械音と共に若干床に押し付けられる力が働く。
「ぬ、これは」
「上下に移動する機械です。箱を頑丈な紐で引っ張りあげてるんですよ」
「ほう。そう言えば、似たようなものを所々で見かけたの。見上げるのに首が痛くなるような建物は上るのが大変そうじゃと思っていたが、これを使っているんじゃな」
なるほどなるほど、とキツネさんが言っている間に五階に着いてドアが開く。廊下の壁に示された案内に従って部屋へ向かい、鍵を開ける。
部屋は靴履きのまま過ごすタイプで、入って右手にはチェックアウト用の支払い機に冷蔵庫やらクローゼットらしきものやらがあり、上着をクローゼット内に吊るしてスリッパに履き替えると、キツネさんも俺に倣う。数歩中に進むと二人用にしてはゆとりのあるソファーと足の短いテーブルがあるので手荷物を置く。ソファーの向かいには50型はあるワイドテレビが台の上に乗っかっている。奥にはダブルより大きいベッド。振り返るとガラス張りの浴室が見える。
これらが何なのかをキツネさんにざっくり説明して、まずは浴室に入って浴槽にお湯を張る。浴室から出ると、キツネさんがガラス越しに浴室をしげしげと見ていた。
「何故わざわざ風呂が丸見えなのじゃろうな」
「何ででしょうね。俺にもよくわかりません」
どうせ男女で普通に部屋を利用するのなら裸を見ることには変わりないし、そこそこ広めの風呂場なので二人で入ることも可能だし、さっぱりわからん。
まあいい。キツネさんを連れてソファーに座る。
「さて、お湯が溜まるまでしたいことがあります」
「む、何じゃ」
テーブルの上の手荷物から買ったばかりのスマートフォンを取り出し、背筋を伸ばして隣に座っているキツネさんに渡す。
「これの使い方を説明します」
キツネさんが脱力して寄りかかってくる。
「分かっていたがの……」
「重要なことでしょう?」
「そうなんじゃろうがの」
キツネさんにもたれかかられたまま、お湯が溜まるまでスマートフォンの情報登録、電話の仕方、ウェブブラウザの使い方などを教えていく。