キツネさん、夜の新宿を歩く
鰻重と肝吸いが配膳される。うなぎとご飯を一口食べたらビールを飲むキツネさん。俺に瓶を差し向けてくれるが身振りでいらないと伝えると、手酌で残りのビールを注ぎきり、店員さんを呼んでもう一本ビールを注文する。
「タダシ殿は本当にもう飲まんのかの」
「米と酒は一緒に口にしない習慣でして」
濃い甘辛いたれの味とビールが合うのは分からないでもないけど、俺はなんとなく合わないと思ってしまう。
「タダシ殿が構わんのならよいがの。こんな美味いものを食べていると、儂は飲みたくなってしょうがない」
「口にあったようでなによりです。飲みたくならないような物はあるんですか?」
「不味いものは酒で流し込むしの。菓子がいくらかじゃろうか」
「つまりは大抵飲みたいんですね」
どうでもいいことをポツポツしゃべりながら夕飯を食べ終わり、冷めたお茶を飲んで時間を確認する。まだ宵の口というところか。
「さて、これからどうします?何か見たいものがあれば、まだ色々と開いている店はありますが」
「先ずは地上に出たい。詳しくはそれからでよいか?」
「ええ」
最寄りの地上出入口を上る。日中でも寒かったのが、陽が落ちて余計に寒くなっていて身体が勝手に数度震える。
「冷えるか。どれ」
キツネさんが両手で俺の右手を持ち上げて包む。目を瞑り、何かに祈るようにしばらくそのままでいた。キツネさんの手の柔らかさと暖かさを堪能していたら、寒さを感じなくなったいた。むしろ、ほんのりと暖かい。
「どうじゃ、もう寒くはなかろう。寒さへの護りと温もりの護りをかけたからの」
「ええ、これは凄いですね」
「そう難しくない術なんじゃがの。魔術を使える者なら誰でも修められるはずじゃ」
「へえ。これが難しくないんですか。便利なものもあるもんですね。……あれ、競馬場で暖めてやろうと言ってたのはこれのことだったんですか」
キツネさんは俺の手を握ったまま微笑んで応える。
「そうじゃ。少しばかりふざけたつもりが、痛烈な反撃が返ってきてしまって、儂としたことが体をすくませてしまっての。すっかり術をかけるのを忘れてしまっていたわ」
美しい顔にほんの少し苦笑いが浮かぶ。どうやら本当に想定外だったらしい。
「さて、寒さは問題ないじゃろう。ちと歩かんか、タダシ殿」
「ええ。どのような場所かご希望はありますか?」
「ゴロツキがいそうな所がよい。近くにあるかの」
なしてわざわざ危ない所へ。俺の表情から疑問を読み取ったか、安心せいと言いながらキツネさんはクスクス笑う。
「見て回るだけじゃ、喧嘩の売り買いはせぬ。目立たぬようにするから、案内してもらいたい」
「はあ」
何も起きやしないことは間違いないだろう、気配を操る技術については体験済みだ。そんなことより、喧嘩の売り買いって売られたら買うのを常として生きているんだろうか。ひ弱な俺には持ち得ない思考ルーチンだな。
さて、新宿でゴロツキがいる所と言えば歌舞伎町だろう。最近は行政の締め付けも厳しく、男一人でぶらつく分にはそう危なくもない。女性の一人歩きでも、人気のない暗がりよりかは客引きで騒がしい場所の方が安全度は高く思える。
「行くのはいいですけど、何を見たいんですか?」
「女一人で歩いては面倒な場所の匂いを知りたくての。君子危うきに近寄らずと言うが、何が危ういかを知らねば遠ざかることも出来ん」
向かいながら話を聞く。まあまあ納得出来る理由ではあるか。
昨日買い物をした新宿駅東口付近を通る。昼間と日暮れ後では、往来を行く人々の持つ空気がどこか違う。夜に仕事を持つ人達が目立ってくる。
「女性一人でここらを歩くときは、黒いスーツを着てどこに行くでもなくフラフラしている男達に注意するべきでしょう。彼等はホストクラブという女性を主な客とする酒場の客引きだったり、娼婦みたいなものへの斡旋だったりが大抵です」
「女に声をかけるが、目的は体ではなく金ということじゃな」
「そういうことです。無理矢理連れて行くなんてことはないと思いますが、話を聞くだけ無駄、むしろ少しでも話を聞く姿勢を持つと面倒になりかねません」
キツネさんが下着を買った店の近辺に、それらしい男がいた。男の目につかない位置から、ああいう奴です、と顎で指し示す。
「なにやら行き交う者らを見定めておるようじゃの」
「わかりますか。今は時間がまだ早めですから数が少なめです。ホストはもう少し遅い時間からが本番ですから。彼等そのものより、彼等を統括している者達の方が荒事に慣れているらしいです。結局は喧嘩すると面倒な奴等ってことですね」
「ふむ。ところでタダシ殿。娼婦は分かるが、ホストクラブとは具体的にはどういうものなのじゃ」
「着飾った男が女性の客にお酌をしたり話をしたりして楽しませる所らしいです」
らしい、らしい、と伝聞表現が続くが仕方ない。ホストの知り合いくらいならいるが、彼等の職場なんぞ訪れたことなどないんだから。
「男はいい女を侍らせたい、女はいい男を侍らせたい。どこも変わらんの」
「そうですね」
いい女に腕を組まれて気分がいい俺としては素直に肯定する。キツネさんが侍らせてるのはいい男に思えないんだが、どうでもいいか。
靖国通りへたどり着く。歩行者信号は丁度赤に変わったところのようだ。八車線を挟んで向かい側に大手雑貨店の派手派手しい電飾看板が見える。
「新宿では、ここから向こうの歌舞伎町界隈がゴロツキの多い場所です。この辺りからホストが多くなってきます。店の多くが、酒場に娯楽、それにいわゆる夜の店です」
「ほう、夜の店、か」
キツネさんが悪戯っぽく俺に微笑んだ。
信号が青に変わる。