キツネさん、息をのむ
キツネさんがタマを呼ぶと、タマは信長さんと床の間に潜り込んでウォーターベッド状に変形し、音もなく日陰まで運ぶ。仰向けの人が床の上を音もなく移動する様はシュールである。
「右民部少輔の様子は儂が見ておく。右民部小丞は忙しかろう、下がってよいぞ」
「は、かたじけなく。おひいさまをお頼み申します」
人のような猿が猿のような人に嫌味な意味でなく偉そうに申し付ける。藤吉郎さんは一礼して、俺たちが飯を食べた後の食器類を器用に抱えて去って行った。
この二人のことを頭の中で文字として考えようとすると、名前もあいまってややこしい。見た目はわかりやすいのだが。
「さて。猿は寝かしておいてやろうと言ったが、起こしてやるとするかの」
「わざわざ起こさんでもよかろうに」
「飯や酒以外にも少々聞きたいことができたのでな。猿が人を払ってくれたのも都合がよい。どれ」
眉間に皺を寄せる秀吉さんを手をひらひらと振ってあしらい、キツネさんは信長さんの顔を覗き込むようにして、その手で信長さんの頬を撫でた。
色白で蠱惑的な二千年代の都会の女子大生が、純朴な戦前の田舎娘を歯牙にかけようとしているように見える。なんでそんな卑猥な思考になってしまうのかは、多分二人ともが美人なのと、屈んだキツネさんの胸元から谷間が見えたからだろう。ポニーテールにしているので白いうなじもなまめかしい。
間もなく信長さんのまぶたが開く。寝起きを起こされたように虚ろな表情でキツネさんを見つめている。
「う……ん?」
「ほうれ、起きんと悪戯に口づけしてしまうぞ。タダシ殿が」
「止めてくださいよ」
唐突に変なことを言い出したので、つい突っ込んでしまった。キツネさんが俺の方を向いて悪戯っぽく微笑む。そこに信長さんがニヘラと笑って抱き着き、キツネさんの横顔にキスをした。
キツネさんが固まる。俺も固まる。
「その娘は男女関係なくいけるクチじゃぞ。キヒヒ、美人に口づけと言われて、ついしてしまったんじゃろうなあ」
秀吉さんがのんびりと楽し気に情報を補足してくれた。その言葉に反応して意識がはっきりしてきたのか、信長さんがキツネさんを解放して全力で離れて再び土下座する。
溜め息を一つつき、キツネさんは信長さんに気にするなと言って、神妙な顔をして俺を見る。
「タダシ殿。これは浮気になるのかのう」
そう言えば、キツネさんは女性といたして葛の葉さんが生まれたのだったか。両性イケる人基準で浮気を定義するとどうなるのかということか。この場合、キツネさんが俺以外の男に不意打ちでキスされるということを想定する。その男は断罪されるべきであるが、キツネさんに罪はないだろう。
「ならないんじゃないですかね。キツネさんが手を出したわけじゃないし」
「ならばよいかのう」
「それに、キツネさんが女性に手を出す分には、変な病気さえもらってこなければ実害ないですし」
「儂が病気をもらうことはありえんがの」
まあそもそも浮気されてもパワーバランス的に何か言えるものでもない。喧嘩したら確実に負けるのは俺である。ただ、女性に手を出す場合は見学してみたいとかどうにもゲスいことを考えてしまった。
さておき、とキスされた頬をさすりながらキツネさんは信長さんに話しかける。
「信長とやら。おぬしは一度死に、二度目の生をこの世に受けたということでよいのかの。よければ前世について話を聞きたい」
前世の話というか、生まれ変わりの経験というものは俺も興味がある。イザナギイザナミ二柱がシースルーになった経緯なども興味があったが、さすがに気軽に俺から聞けたものでもなかった。
信長さんは土下座体勢からスッと上体を起こして両手を脚の付け根あたりに置き、どこか遠い目をして語りだした。
「二度目ではありませぬ。両の手では数え切れぬほどの生を繰り返して参りました」
柔らかい声には魔力が感じられた。魔力を通した言葉は言語圏が違うものとも意思疎通ができるが、嘘をつけられない。
息をのむ。俺も、キツネさんも、秀吉さんも、言葉を失う。蝉の声が遠くに聞こえる。
「生まれ変わりであるなどと話しても、大抵は気が触れたものと思われました。故に、今世でも誰にも語ることはありませんでした」
「……すまん。言いたくないことであったのならば」
キツネさんが声を低くして謝るが、信長さんは薄く笑みをたたえたまま首を振って応えた。
「いえ、かまいませぬ。辛く苦しいものでしたが、真摯に聞いてもらえるならば、むしろありがたい。少し長くなるやもしれませぬが」
「聞かせてもらおう」
キツネさんが秀吉さんを見て、秀吉さんがゆっくりと頷く。
次に俺を見る。聞く覚悟があるかということだろうか。興味本位で聞いていいものではなさそうに思える。小市民な俺が聞いていいものなのか、唐突に変わった空気の中で出て行ってもいいものなのか、どうしたらいいものか。
言葉に詰まる俺に、信長さんから声がかかる。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「失礼しました、近衛忠といいます」
そう言えば秀吉さんには名乗っていたが、信長さんと藤吉郎さんには名乗っていなかった。
俺の名を聞いて信長さんは目を見開き、つむって、浅く礼をするような姿勢で留まり、呟く。
「……近衛殿も、よろしければ」
俺は静かに頷くしかできなかった。




