キツネさん、敬われる
星空は美しいのだが、目線を地面と平行に戻すと木々の壁の隙間から垣間見えるのは暗闇ばかりだ。部屋同様、かなり広い庭の向こうに木々が立ち並んでいる。かすかな風に吹かれて、葉がこすれる音がザァーっと響く。音量がかなりあるので、木々の多い場所なのだろうか。
中野の住宅街という自然が少ない場所に住んでいる俺にとっては、住居が多数の木々に囲まれている景色というものは新鮮だ。縁側に立ち尽くして呆然と眺めていたら、横からキツネさんから声がかかった。
「タダシ殿、眠いと言っておったじゃろう。眠るのであれば、ここに寝床の用意をするが」
「まだしばらくは大丈夫ですが、用意しておいてもらえるとありがたいです」
「うむ。誰かおるかー!」
俺を気遣ってくれたキツネさんが人を呼んだ。ほどなく袴姿の女性がやって来て正座になり、キツネさんの指示を聞いては最敬礼をとって返事をし、どこかへ去って行った。
見苦しい土下座ではなく、美しく座礼をする姿に一種の感動を覚えた。中学高校時代に柔道の授業の一環で座礼も学んだものが、身に染み付いた礼とは美しいものなのだと。俺の事は軽く一瞥しただけで何も言わなかったのは、無視されているだけなのか、キツネさんが突発的に客を招くのが当たり前なのか、どうなんだろうか。
というか寝床の準備を指示しただけなのに、座礼で最敬礼をとる従者らしき人も、それを受けるキツネさんも、当たり前のようにしていることも色々衝撃的だ。
「キツネさん、今の方はお付きの人とかそんな感じの人なんですか?」
「えーと、儂の一族の者で、儂を初代として二十代目だかの一人じゃ」
二十代目。1かける2の19乗。両手で指折り2の10乗を計算すると1024。で、それの2乗の半分ってことだから、約五十万。従兄弟とかの身内同士の結婚がない場合、キツネさんの血を約五十万の一を引いているということか。途中でいくらか親戚同士で結ばれているんでしょうけど、それって血の濃さ的にはほぼ他人じゃないですかね。
「なんとも……そこまでとなると、身内という実感が薄いのでは」
「そうじゃのう。それでも儂の血を引いているのは確かじゃ。お互い、赤の他人を世話して世話されるよりはよかろう。あちらの酒瓶一つくれてやったら、なにか声を震わせて感謝しておったしの。儂の身内ならば酒が好きじゃろうて」
それは酒が好きで感謝してるんじゃなくて、キツネさんから下賜されてありがたがってるとかじゃなかろうか。それとも俺の世界の物は貴重だったりとかそういうことか。
「異世界ではガラス瓶は貴重なんでしょうか」
「うん?そこまででもないが……ああ、この近辺では貴重と言ってもいいかもしれんのう」
酒が好きだから喜んだってことじゃなさそうですね、キツネさん。
ともかく、今いる地はガラス製品が頻繁に出回っている社会ではないようだ。今までキツネさんから聞いた話しかり、袴姿の従者がいることしかり、世界地図がどこまで相似しているかわからないが、俺の世界とよく似た世界の日本らしき場所ではあるだろう。
より詳細を知りたい。立ったまま話し続けるというのもなんなので、月明りが届くところに座ってキツネさんに尋ねる。
「この近辺といえば、ここはどういった土地なんです?」
「淡路の国じゃ」
淡路。俺の知る淡路と同じ地理の上にあるとするならば、明石市あたりの海岸から見たことのある島のことだ。俺の歴史や地理の成績はあんまり褒められたものではなく、大学でできた友人の故郷ということで兵庫県に一度訪れた時に見たことがある程度の知識しかない。
「ここにはイザナギとイザナミの二人が祀られておる社がある。この家から社はすぐ近くじゃ。儂の一族が二人のそばに詰めておると以前話したと思うのじゃが、そのために寝泊まりする住まいでもあるな」
「ああ、なんかそんな話をしたような……あれ?イザナギとイザナミは京に祀られてると聞いたと思うんですが」
「儂が初めて話をしたのが京での祭事の時じゃ。二人が普段過ごしているのはここになる。用事があればどこにでも飛んでいけるように、あちらこちらに拠点を置いているようじゃの」
話をしていると、先ほどキツネさんの指示を受けた女性が室内で寝床の準備をし始めた。さきほどは縁側の上をすべるように歩いてやって来たのだが、いつの間にか背後に回られていた。
というか二柱のお世話をするための要員にキツネさんの一族が詰めているという話でもあった気がするのだが、そんな方々に俺の寝床の世話なんぞさせてしまっていいのだろうか。準備を終えて報告する女性にキツネさんが軽く礼を言うのにあわせて俺も礼を言って頭を下げたのだが、表情を変えずに失礼いたしますと言って再びどこかへ歩いて去っていった。
「なんか反応が硬い気がするんですが、俺は歓迎されてなかったりしますか?」
「硬いのはいつものことじゃ、タダシどのは関係ない。儂はあの子の先祖でもあり、役職としても儂が上位であるからの。特に失礼な態度というわけではなく、儂を敬ってくれておるのじゃよ」
仕事と血縁関係なく力でも上ってのもありそうだ。魔術や魔力関係でのヒエラルキーに敏感であっておかしくない。魔術に疎い俺でさえ生物的に圧倒的上位と理解しているのだから、魔術が当たり前なキツネさんの世界の住人ともなれば当たり前だろう。
敬われているのはわかっているのに、珍しいガラスに入った酒を与えてありがたがられているのは酒好きなんだろうとだけ考えてしまうあたり、キツネさんもどこか抜けている。
「タダシ殿は儂の夫じゃ、失礼なことをしてくる者はそうはおらんよ。どうあろうとも、こちらでの小難しいことは儂に任せてくれればよい」
「……そうですね。お願いします」
月明りに横顔を照らされ、キツネさんは朗らかに笑う。
失礼なことをしてくる者はそうはおらんということは、してくる人もいるんですかね、と上げ足を取るような考え方をついしてしまう。まあどこだろうと喧嘩を売られたら買わないで逃げるだけな俺としては、キツネさんにお任せするほかない。




