キツネさん、正体をあらわす
涙とともに、自分でもよくわからない感情が沸き上がっていた。胸がしめつけられる。何か切なさを感じているのだが、何故切なさを感じているのかよくわからない。
「行きましょう、キツネさん」
いい大人が目を赤くして歩くのは恥ずかしいが仕方ない。涙を袖で拭って幾らか心を落ち着かせ、坂の下に消えて行った過去の自分を追うように、キツネさんと手を繋ぎながら坂を下っていく。
キツネさんは不安そうに俺の顔を覗き込んだ。
「何か嫌なことでも思いださせてしまったかのう」
「いえ、何も悪いことはないですよ。自分でも何が何だか」
歩いていくうちに感情の波が落ち着く。冷静に考えてみると、子供時代の自分の姿に郷愁やらを感じたってことなのだろうか。
「しかし、久し振りに人前で泣いたような気がします」
「タダシ殿も泣くことがあるんじゃの」
「わりとよく泣きますよ?アニメなんか見ててもぶわっと出てきちゃったりしますし」
アニメに限らず、感情が昂ると涙腺がもろくなる。ちょっと熱いシーンになるとすぐに涙が出る。歳のせいではない、とは思う。
「泣いて、泣かせて。一回ずつじゃのう」
「もう半年前でしたか」
キツネさんが泣いたってのは、カラオケで歌ったら泣かれたときのことか。
久し振りにラブホテルに行った日でもある。こう言うとどうしようもないクズに思えてしかたない。
キツネさんの手が大きく振るわれ、手を握られている俺はバランスを崩して少し前のめりになる。
「もう半年とも言え、まだ半年とも言え。儂が生きてきた時の長さを考えれば些細な時間じゃが、タダシ殿と見聞きしたものの内容の濃さを考えるととても膨大にも思え」
俺からするとキツネさんは食っちゃ寝してマンガ読んでゲームして競馬して、どうにも中身のない生活をしている姿にしか思えないのだが、本人としてはそうでもないらしい。娯楽の少ない場所からサブカルチャーのシャワーがこれでもかと注ぎ込む場所へと来ればそうも思うか。
「そのような大切な時間をくれた旦那様よ。辛いことがあればもっと儂を頼ってくれてよいのじゃぞ?」
そう言ってキツネさんは口元を緩く弧にして微笑んだ。
どうにも心配させてしまっているらしい。すうっと深く一息吸い込み、魔力を乗せて言葉にする。
「何で泣いてしまったのか、本当に自分でもあまりよくわからないんです。ふと鮮明に過去に触れて、懐かしくて泣いたってとこだとは思うんですが。自分でさえ掴めきれていない自分もあるってことでしょう」
「自分でさえ掴めきれていない自分か。儂の知らぬ儂を感じることなど、この半年しょっちゅうじゃ」
「例えば?」
問うと、キツネさんは繋いでいた手を放し、俺の腕にきゅっと組んで小さく呟く。
「性感帯とか」
「町中でやめてください」
「そもそもが耳と尻尾以外の体の全て、妲己から勝手に借りて似せているものじゃしの。知らんで当然といえば当然なんじゃが」
自分のことは自分じゃよくわからないとは言うが、他人のものなんて自分以上によくわからないわけで。エロ本編集者やってたときに合コンで「男の人ってどんなふうにしたら嬉しいんですかー?」なんて女性に言われたことあるが「そんなもん人それぞれやがな」と返したくなりつつも適当にはぐらかした覚えがある。何が悲しゅうて他の男の性感帯なぞ知っていなくちゃならんのか。
自分以上によくわからないことと言えば、キツネさんのことだって知らないことはいっぱいあるわけで。
「むしろ、俺はキツネさんの本来の姿を知らないですね」
「えー。知りたいかのう?正体を知られて幻滅されたりしたくないのじゃが」
珍しくキツネさんの嫌々な声を聞く。
幻滅か。幻滅はしないと思うが。
「はっきり言いますと、キツネさんの本来の姿を見て、どんな感情が芽生えるか俺自身も予想がつきません。というか、実感がわかないでしょうね」
「むー。正体を見せないというのも妻としてどうなのか……異世界では儂らのようなものが人と子を生すときは知っているのが大抵じゃったかのう。ううむ」
うんうん唸るキツネさんを連れて、下りきった坂の下からまた別の坂を上る。
途中の小さな公園を見て、キツネさんが俺から離れて駆け込んだ。
キツネさんが振り返って俺に見せた表情は真剣なものだった。
「結婚もまだじゃが、その前に破局とならんことを祈る!」
そう叫ぶと魔力の風が俺の頬を撫で、公園が霧に包まれた。
霧に包まれたまま何も見えない。どうしろと。
立往生していると、キツネさんの声が音もなく頭に響いた。
『人除けの結界を一時的に張っておる。入ってくるがよい』
こんな会話方法もあるんだな。
ちょっと驚きつつも霧の中へゆっくりと進む。足元が見えなそうだと思ったが、入ってすぐに霧は晴れた。
そして目の前には狐がいる。色合いは小麦色というか、狐に言うのもなんだがきつね色というか、キツネさんの髪の色そのままの狐だ。ただ、やたらでかい。俺を一気飲みできそうなサイズの口は閉じられたまま、伏せるような体勢で鋭い目が俺に向けられている。
『儂の姿を見てくれ。こいつをどう思う』
「すごく…大きいです…」
うんうん唸ってた割にはネットのよくあるネタで冗談を言う余裕はあるようだ。とりあえずセリフに乗っかって返すが、本当に大きい。俺の部屋で戻られても丸まったキツネさんだけで部屋が埋まってしまうんじゃなかろうか。
「触っていいですか?」
『何を今更』
「いや、まあそうなんですが」
町中でキツネさんの生まれたままの姿に触ると、すべすべして柔らかい。ただし毛皮である。
しかし毛皮であっても最高である。頭を触ると気持ちよさそうに目を細めるキツネさん。そのままキツネさんの横っ腹に移行し顔を横に向けて半分うずめてみる。毛が柔らかくて肌に刺さらない。サラサラでフカフカだ。室内飼いの猫だってなかなかこうはならないというのに。
九尾と聞いていたが、今は一つの尻尾しか見えない。なんでだろう。まあどうでもいいや。
「キツネさん。俺今すげー幸せです」
『その言葉は夜にもお願いしたい』
「いや夜も幸せですけども、それはそれ、これはこれ」
『……なんだか複雑な気分じゃのう』
複雑なものなどなにもない。ただ至高の毛皮がここにあるだけだ。




