キツネさん現る
会社から帰宅し、風呂から上がってバスタオルを手にとろうとしたら、部屋の壁の見上げる位置に10センチほどの穴が空いていた。
空いていたというか、なんかこう、黒いモヤがうごめいていた。
不可解な現象に呆気にとられていると、モヤは30センチほどまで拡大し、ゲル状のなにかが出てきた。モヤとその周囲の壁を覆うように広がると、その場でうねっている。
これはいったいなんだ。いや、なにをするにしても体を拭いて服を着よう。
服を着ている間にうごめくなにかはモヤの中に引っ込んでいった。
モヤはそのままだ。
これは大家さんに連絡するべきか。その前に不動産屋か。いや、消防署や警察署だろうか。
スマートフォンを充電コードから外しモヤを見ながら悩んでいると、モヤはさらに広がり、そこから音もなく人の上半身が出て来て目が合った。
いや、人なのだろうか。耳が三角形で犬的な形をしている。髪は長く、明るい茶色だ。そして、美人だ。肌は白く、顔は小さく、目は鋭さを持ち涼やか。機嫌良さげに微笑みながらキョロキョロと部屋を見回し、再び顔を俺に向けてきた。
「無礼ですまぬ。今更ながら、上がってもよいか」
「あ、え、ええ」
曖昧ながら承諾してしまっていた。
犬耳さんは天井にぶつからないように小器用に飛び出し、くるりと宙返り、巫女服をはためかす音とともに柔らかく着地した。
背は160センチくらい。洋服と違って体型がわかりづらいが、腰は細く肩幅も女性らしいサイズだ。歳は20前後だろうか。
「感謝する。儂には特に名はなく、狐と呼ばれておる。好きに呼んでくれ」
どうやら犬耳ではなく狐耳らしい。
それはともかく、一応名乗られたのだろうから、名乗り返すべきか。
「えっと、キツネさん、でいいのかな。近衛忠です。コノエでもタダシでもどちらでもいいです」
「儂は色々と怪しげじゃろうに、タダシ殿は肝が座っておるな」
あまりにも現実離れしている状況に、半ば思考停止しているだけだ。
「耳が気になるかの?」
ピコピコ動いているどうにも本物っぽいケモミミを、気にせずにはいられないのは当たり前だろう。
「ええ、まあ。耳も、その穴もそうですが、見たことがないので」
「ふむ。耳も、か。そうか。率直に言うと、儂は恐らく異なる世界からやって来た。しかし、歴史などはそこそこ近いはずなのじゃ。家康はこちらにも居るかの?あちらでは名の知れた奴なんじゃが」
異世界か。黒いモヤもケモミミも全て納得出来る実にファンタジーな理由だ。
というか家康って江戸幕府の初代のことか。奴呼ばわりですか。
「徳川家康のことですかね。歴史のことは詳しくないんですが、数百年前に死んでます。俺と同じ人間で、同じ耳のはずです」
「狸が人じゃと……あやつは儂のような人に近しい獣人ではなく獣そのままの姿じゃぞ」
どうやら徳川家康は異世界ではリアルタヌキらしい。
「もしかして秀吉もいるんですか。こっちでは同じく人で、死んでますけど」
「猿が人じゃと……」
同じらしい。何やらしかめっ面している。
つか名の知れた狸と猿ってなんだよ。まさか信長は本当に魔王とか言わないだろうな。
「獣人、というのもこちらには居ませんね」
「それはちと寂しいのう。しかし恐らくではなく、真に異世界のようじゃな。未来や過去でもなかろう。それはそれで興味深いが、重畳重畳」
満面の笑みでうんうんと頷いている。
「さて。前口上が長くなったが、タダシ殿。これも縁じゃ。無礼続きで申し訳ないが、願いを聞いてはくれんかの」
どうやら本題のようである。
確かに偶然の出会いではあるが、こんなに物珍しい経験をさせてくれたのだ。礼をしようじゃないか。
「俺に出来ることならいいですよ」
「なに、簡単じゃよ。暇な時に物見遊山に付き合って欲しいのじゃ」
異世界を渡るような力を持つ者に、なんの変哲もない三十路の男が出来ることなどたかが知れる。
簡単そうで常識的なお願いでよかった。悪魔的なものだったらどうしようかと。
どうせ恋人も嫁もいないし一人暮らしだし、友人はいるが会うのは年に数度だし。
「それくらいなら、いくらでも」
「それとその間、宿を借りたい。今日はもう日が暮れておるしの」
三十路の男の一人暮らしに、女性が一人泊まるんですか。予備の布団なんかないんですが。
同衾は性的な意味でも困るが、快適さの意味でも困る。二人寝るには俺のベッドは狭い。
「泊めるのはいいんですが」
「ああ、寝床か。そやつが居るから心配いらぬ」
キツネさんが向けた目線の先にはモヤがあったはずだが、消え去っていた。
代わりにゲルがいた。
呼ばれたのに気づいたのか、うぞうぞと天井を這い、丸くなってキツネさんの頭上に落ちた。頭半分くらいの大きさだ。
スライムっぽいなこれ。どっちかというと和製じゃなくて洋製の。
最初は水漏れと壁紙の溶剤かなんかで出来たアクシデントかと思ったけど。
「それ……いや、その……なに、名前は?」
「こやつはなあ、なんじゃろうなあ。懐いてるのと、言葉がわかるのと、なかなか頭はよくて見かけによらず器用なんじゃが、ようわからん。暗闇を照らしてくれたりもするので輝夜と呼ぶ者も居るが」
月の民スライム説。レベル高そうですね。
「こちらでは作りものの物語の中ではありますが、スライムとよく呼ばれるものに近そうです。割りとよく知られています」
「よくこんなものを思いつくのう……これこれ垂れるな、こんなものではないな、すまぬ」
キツネさんの顔に粘性の高いナニかが幾筋も垂れる。困った顔でヌラヌラしたものを拭うクールビューティ。
……ふむ。
輝夜はいい子だ。
「ああ、もう。お前も姿形だけとはいえ、異世界でよく知られておるとは思っておらんかったじゃろう。柔軟な発想の出来るこちらの世界に驚いただけじゃよ。こら」
「で、輝夜さんと寝床がどう関わりが?」
想像はつくけど。
「うむ、ほら、見せておやり」
輝夜が顔から首筋を伝って(キツネさんが悶え)背中から床へ降り、床に広く薄く伸びてエアマットのように膨らんだ。なるほど。
キツネさんはエアマットスライムをつつきながらこちらを向いた。
「このとおり、板間でもこやつがなんとかしてくれるでな」
寝床はクリアか。俺のベッドより寝心地良さげだ。
「しかし物見遊山云々以前に、タダシ殿の住まいを見るだけでも興味が尽きぬな。言葉は多少異なるようじゃが、言葉以外はまるで別じゃ」
「そうですねぇ、何から話すべきでしょうかねぇ」
モヤに狐耳にスライムからして魔法的な技術のある世界だろうけど、その他の文化がわからない。
わざわざ泊まるってことは世界を渡るのがそれなりに大変なんだろう。俺が仕事でいなくても適当に過ごせることが目標だろうか。
「まずは着るものを調達して、お金の使い方を確認して、食べものの調達方法ですかね。目立つと面倒ですし」
「目立つか」
「ええ。美女ってだけでも男の目につきますしね」
キツネさんはくつくつと笑った。
「美女か。そうか。こちらの男女もそのあたりは同じかの。礼は体で返そうかの?」
「お礼はありがたいですが、物見遊山どころじゃすまなそうですねえ」
俺は眉間を寄せながら苦笑した。
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