第1わん 終業式の朝、葉山家にて
太陽が山の稜線に沈みつつあった。
この時間にだけ世界に染みる様に溶け出す茜色。
その夕焼けという名の絵の具に染まった、枠のないキャンバスへと姿を変えた雲一つない空が眼前に広がっている。
「ヴヴゥゥゥ〜〜〜〜〜〜〜〜」
時報の音が聴こえる。
日の長い季節は午後6時に、日の短い季節には午後5時に鳴り響く、子供は家に帰る時間だぞと知らせる時報。
現在では既に廃止、タイトルのわからない音楽に変更され、鳴り響く事のない過去の夕暮れ時の日常の一コマ。
その時報を合図に、二匹の犬による遠吠えという野生の本能に刷り込まれた行為による合唱が始まった。
「「ヴォフゥゥゥ〜〜〜、ヴォウ、ヴォフウゥゥ〜〜〜」」
その二重奏を聴きながら「あぁ。これは夢なんだな」と意識の片隅で朧げに自覚する。
自身を客観的に見れない視界が、茜色の夕焼け空から地上へと移行していく。
どうやら自宅の二階のベランダかららしい視界の先には、庭の風景が写りこんでいる。
大人の胸にかかる位の高さ、太い木材で造られた柵がある。柵の中はおおよそ十畳ほどの長方形の敷地があり、隅にはそこに住む主の住家が鎮座していた。
こちらも造りは木造で、形はシンプルな四角い形状の父さんが作った手作りの犬小屋。
その大合唱は、時報の音が鳴り止むまでの間、絶え間無く響き続けていた・・・・・・。
***
体が熱い。胸より下が、暖かいを通り越した上昇温度を感じている。
夢の続きを見たい、眠り続けたい、とどこからくるか判然としない欲求に押されて、まどろみに留まろうと耐えるが、覚醒に至る阻止限界点は訪れる。
「・・・・・・っだぁ〜!暑いっ!」
睡眠から覚醒に強制移行させられた僕、葉山糸は我慢出来ずに声を上げつつ、窓際に面したベッドの上で上半身を跳ね起こした。
寝癖のついた短い髪を掻きつつ、寝ぼけた視線をさまよわせる。憎っくき覚醒原因は即効で判明(Q.E.D)した。NEXTコ〇ンズヒントは不要なほど明解に、ベッド横の窓(犯人)で視線が停止する。
昨夜、遮光カーテンを閉め忘れた窓からは、直射日光が問答無用で侵入してきており、それが自身の胸より下にクリティカルヒットしていた。
日当たり良好過ぎるのも、季節によっては考え物である。
Tシャツにトランクス一枚という夏季限定、野郎就寝時特有の格好でも、真夏の直射日光が誇る暑さをカットするのは不可能なのであった。
傍らにある時計を見ると、まだ早朝の6時を15分ほど過ぎたところだった。
この季節、気力が常時満タンな太陽は、既に太陽光を全開で発動している。なにこのス〇ロボ脳・・・嗚呼、二度寝したいと漫然と思考の片隅で思ったが、カーテンを閉め直したところで眠れそうにはなかった。
仕方ないので顔を洗って来ようと寝起きで固い体を起こし、億劫そうに部屋をでて洗面所へと向かう。
階段を降りて、一階にある洗面所で顔を洗っていると、玄関のドアを開け閉めする音が聞こえた。
凛姉が、我が家の家族である愛犬リリーさん (♀シベリアンハスキー) の散歩から、帰ってきた所だと思われる。
「ただいま〜。・・・・・・まだ寝てるのかしら?」
顔を洗ってる最中に返事をするのは不可能である。にしても冷たい水が気持ちいい。などと頭の中でつらつらと考えつつ洗顔を終えて、顔をタオルでワシワシと拭いた後に、
「おかえりー。そして、おはよー。起きてるよー」
軽く距離があるので声を張り上げて返事をする。
「はーい!おはよういっちゃん。それじゃあ、朝食の準備するから着替えてきなさ〜い」
「了〜解」
返事を返して、一旦そのまま自分の部屋に戻る。自室のクローゼットを開いて制服を取り出し、もそもそと着替えを開始する。
僕の通う私立高校の男子制服は、左胸のポケットに校章のワッペンがついた白カッターシャツに蒼いネクタイ。その上にズボンと同色になる濃紺のジャケットを羽織る洒落た感じの制服だ。
今は7月、夏真っ盛りなので上はジャケットなしになる。カッターの下をTシャツにするかタンクトップにするか軽く考え、暑さ軽減優先でタンクトップを選んだ。色が黒だから余り意味はないかも知れないが、そこは面積&気持ちの問題である。
ネクタイに関しては、当初こそ慣れない作業でつけるのに時間がかかったものだが、今はもう手慣れたものである・・・形が綺麗かは別にしてだが。
着替えを終えて、一階のリビングに向かう。階段を降りている最中に「チーン」とトーストが焼き上がる機械音が聞こえた。
「いただきます!」
「・・・・・・いっちゃん。それは椅子に座って食べ物を前に置いた状態で掌を合わせて言うものよ。リビングに入った瞬間に言うものではないわ」
牛乳の入ったコップを片手に、机の向こう側に立つ凛姉が、多少呆れの混じった溜め息とともに言葉を零す。コップをトーストがのったお皿の横に置いてから、向かい側の椅子に腰掛ける。
目の前の椅子に座る女性は、僕のたった一人の姉弟。三つ年上で、今年から大学に通っている姉の葉山凛。
ショートボブの髪に切れ長の瞳、特長的な左目の下の泣き黒子。街を歩けば必ず人目を引くその顔立ちは「かわいい」より「綺麗」という形容詞がしっくりとくる顔立ち。
筆記体で胸に「STRIKE」とロゴが入ったサイズが大きめのTシャツに紺色のハーフパンツ姿。
パッと見ただけで判るスタイルの良さを持ち、女性にしては高めの身長は母親似で170cmほどだったと思う。
ちなみに、人目を引く容姿を活かして大学生兼「モデル」という肩書きも持っており、女性向けファッション雑誌にも多数でていて人気もあるらしい。
何故に疑問形かというのは、僕が女性向けファッション雑誌を読まないため、どれくらい紙面に出てるか等の把握をしてないためである。
「んー、あ。牛乳ありがと。判ってるんだけど朝食の匂いを嗅いだら思わずでちゃったね」
「思わず・・・って、も〜、人前でやっちゃダメよ。姉さん恥ずかしいから」
「大丈夫だって、家族の前ぐらいでしかやらないから」
「・・・そうね、いっちゃんと姉さんとリリーさん。・・・三人だけの家族だものね」
トーストにブルーベリーを塗りながら、唐突にしんみりした口調で問題発言をする実姉。
数拍の間。
「凛姉っ!父さんと母さんはまだ生きてるから!勝手に殺さないでっ」
「あら?そういわれてみればそうだったかしら?でも姉さんの中ではかなりの回数でお亡くなりになっちゃってるのよね。・・・主にエスケープの口実で」
「ちょっと待って凛姉っ!その方程式で話を進めていくと、親戚一同含めて一体何人が犠牲に・・・!?」
「大丈夫よ。コマンドの使用は主に中学高校の時だったから、仕事先では未使用だから」
コマンドってなんだ?・・・って、あぁ。エスケープか。っじゃなくて!
「それの何がどう大丈夫なのかがわからないよ凛姉!あぁ・・・、叔父さん叔母さんごめんなさい」
「あら?まだまだねいっちゃん。遅刻、早退、ズル休み。これしき学生のサボりスキル一般教養の部類よ」
「そんな一般教養はありません!むしろ凛姉の一般常識を疑うよ・・・」
そんな会話の中、ふと思い出す。僕が風邪をひいて学校を休んだ時には、常に凛姉が一日中側にいて看病してくれていた記憶と事実を。
・・・・・・まさか姉様。
「そういえば凛姉、僕が風邪ひいて寝込んでた時の事覚えてる?」
「ええ、勿論覚えてるわよ。姉さん一生懸命看病したもの」
「うん。ありがとう。だけど今記憶の中の姉さんが、全て一日中付き添ってくれてたのがふと思い出されたんだけど。何回かは確実にド平日に僕は風邪をひいていたと記憶してるんだけどあれは・・・?」
「え?そんなの勿論、スキル発動してるわよ?私にとって学校なんかよりいっちゃんのほうが大切だもの」
「ケロッと白状た〜!凛姉・・・・・・心配してくれるのは、その・・・嬉しいんだけど、学生なんだから学校行こうよ。それに隣が白浜さん家なんだから風邪ぐらい、よっぽど大丈夫だから」
ちなみに、うちのお隣りさんこと白浜さん宅は、母と娘二人(旦那さんは仕事で東京)の三人が住んでおり、親がうちの両親と仲が良いこともあって良く面倒をみてもらっている。
奥さんの蓮さん (美人) が医者なので、病気の時は直ぐに診てもらえるのだ。
蓮さんには二人の娘がおり、長女の里桜(高校二年生)と次女の麗奈(中学三年生)で、こちらも僕が物心つく頃から家族ぐるみの付き合いをしている。
「・・・・・・大丈夫じゃな・・・は里・・・と・・・奈のほう・・・」
ボソッと何事かを呟く凛姉。小さすぎてよく聞き取れなかったけど
「凛姉なにか言った?」
「ううん。何でもないわよ」
物凄い笑顔でサラっと流された。何故か、凛姉の背景にマ〇ャドでも唱えたかのような吹雪が一瞬垣間見えた気がするのは・・・いや、多分気のせいだよね・・・・・・?
その後朝食を食べ終えて、朝のニュースを見るともなしに見てから、通常よりは少々早いが学校に行く事にした。
鞄を傍らに置いて玄関で靴をはいていると、
「いっちゃん。今日は姉さんの分もまとめてお願いね」
と、いつの間にか見送りに立っていた凛姉が背中から声をかけてきた。
「うん!分かってる。そういえば凛姉、今夜は遅くなるんだっけ?」
右手の人差し指で靴の踵をいれつつ、左手に凛姉の分も入った朝の日課となっているリリーさんの朝食「パンの耳」が入った小皿を掲げながら問い返す。
「そうそう。撮影と打ち合わせがあるから、今夜の夕飯は先に食べててね」
「ん。だけど、少し遅いくらいなら帰ってくるまで待つけど?」
今日の食事当番は、週に一度の僕の担当日なのだ。基本的に凛姉が作ってくれている分、感謝の気持ちも込めて作る為、なるべく一緒に食べたいと思っている。
口にだすのは気恥ずかしいから言わないけれど。
「いっちゃん可愛いっ!姉さん嬉しいっ!だけど今日はかなり遅くなる予定だから残念だけれど先に食べてて。嗚呼、仕事キャンセルしてしまいたいっ!いっちゃんに「あーん」ってしてもらいたいっ!むしろ今すぐ抱きしめたいっ!」
頬を両手で挟み、目を伏せて、体をくねくねと身もだえさせつつ暴走する姉。綺麗なお姉さん一転、変態なお姉さんである。
「凛姉・・・思考が駄々漏れしてますですのことよ?」
軽い身の危険を感じつつツッコミをいれておく。
「あらいけない。つい私のいっちゃんへの愛という名の願望、もとい渦巻く欲望が軽く溢れだしちゃってたかしら?」
「なんで言い直したのっ?しかも、はっちゃけ具合が上がってるし!」
「いっちゃんが望むのなら何時でも何処でも姉さん大丈夫よ。むしろ望むところよ」
「何をっ?いやっ、やっぱりいい。言わなくていい」
こちらの話しをまるっきり聞いていない様子の凛姉が両手で自身を抱きすくめつつ身をくねらせながら続ける。
「勿論。禁断の果実、近親相・・・「いってきます!」」
身 (貞操) の危険を感じて言葉の途中に被せるように早口にまくし立て玄関をでる。
外は暑いはずなのに冷や汗がでるのはなんでだろう。いや、深く考えるのはよそう。
頭の中で軽い現実逃避をしていると、玄関を出た右手にある柵の向こうから、コンクリートを軽快に蹴る「チャッチャッチャッ」という足音が響いてきて、意識を現実に引き戻される。
視線を向けると丁度奥に建つ犬小屋から、こちらに向かって尻尾をぴんとたてながら駆けて来た我が家のアイドルであり愛しい家族。シベリアン・ハスキーのリリーさん (♀) が、柵にジャンプして両前脚をかけ、二足歩行立ち状態になってこちらに熱い期待の眼差しを向けている。
「おはよ。リリーさん」
笑顔で声をかけて柵の前に近付き、そのサファイアのように綺麗な青い瞳をみながら、
「おすわり」
声をかけるとすぐに柵から前足を外し、その場にお行儀良く座るリリーさん。その動きに合わせてしゃがみ込み、柵の隙間から左手を差し入れて掌を上にむける。
「お手」
リリーさんは遂行する。素早く右前足を掌に乗せると、間髪いれずに左前足も掌に乗せる。
「・・・・・・まだおかわりとはいっていないんだが・・・」
両前足をのせてドヤ顔(の様に感じる)で目を輝かせるリリーさんに突っ込みをいれつつ、苦笑しながら立ちあがる。次に「おかわり」と言われるのを理解している彼女は、先手をよく打ってくる。その為、大分前から「お手」は寧ろ「両手」になっていることが多い。
朝食のパンの耳がはいった小皿を左手に持って、右手で一つ摘んでリリーさんの頭上にヒョイっと軽く放る。
バッと俊敏にその場で跳躍をして「パクっ」と見事に口で捕らえるリリーさん。
しかも、着地した時には既にパンの耳は口内には欠片も残っていない見事な早業である。
続けて凛姉の分も入ったパンの耳を次々に繰り出しては、尽く一瞬で口内から亜空間へと消すリリーさん。
「リリーさん・・・・・。一瞬で飲み込まずにちゃんと噛みなさい」
途中。毎度の事になっているツッコミをいれるも、リリーさんは聞く耳もたん的に視線を僕の手元にロックオンし続けていた。苦笑しつつ残りを放る。
全部食べ終えて、「もうないの?」的な表情で首をちょこんと傾げるリリーさんに「おしまい」と言って手をひらひらと振る。
その時、リリーさんの耳がピクッと動き、次いでその視線が自分の背後にピタッとロックオンされた事に気付くと同時に、
「おはようございます。いっくん。リリーさん」
「オハヨーい〜兄。リリーちゃん」
と、背後から鈴の音の鳴るような可愛らしい声で朝の挨拶がかけられた。
お読みいただきありがとうございます。
2/24誤字修正。一部文章修正。(ストーリーに大幅な影響はなし)