第16わん シベリア回想
日本で古来「狼」と呼ばれてきた動物は絶滅したとされるニホンオオカミ、これはタイリクオオカミの一亜種と見なされている。
一方、北半球に広く分布する分布域が広いタイリクオオカミは、多くの亜種に細分化されるが、その中の一つにシベリアオオカミが存在する。
寒さの厳しい北の大地。ロシア連邦領内にあるシベリア。
主な都市として、西から、オムスク、ノヴォシビルスク、クラスノヤルスク、イルクーツクがある。人口最大の都市はノヴォシビルスク。
シベリアからカナダ北極圏にかけてのツンドラ地帯を原産地とする、社会性に富んだ性格の大型犬種。進化系統上の祖先はスピッツのそれと同系とされている。極東北極圏を中心にトナカイ遊牧や狩猟を行う「エスキモー」と総称される民族に、古くから犬ぞりなどの牽引による人荷の運搬・狩猟補助などを行う用務犬として重用されてきたのがシベリアン・ハスキーである。
ちなみに日本で一時ブームとなったのは、ハスキーを扱ったコミックが人気の火付け役を担ってたりする。
閑話休題。
狼と犬は外見が似ていても種としては別である。日本では「狗神」と呼称されるものはニホンオオカミを指さないように「狼の神」は犬を示さない。
リリーはシベリアに存在する狼の種を統括する神様の娘として顕現した存在だった。ゆくゆくはこの大地に生きる種を見守る役目を引き継ぐ者として、その日も仔犬の姿をとって森の中に異常がないかてくてくと散策していたのだが・・・この日はいつも通りの巡回とはならなかった。
基本的に仔犬の姿をとっていても、動物達には内包する神の存在感が露骨に伝わるために、野生のオオカミや人に飼い馴らされているハスキー犬なども不用意にリリーに近付いてくる事は今までに一度もなかった。精々遠目にこちらが通り過ぎるのを見送るくらいで、畏怖を感じる彼等が自発的に近付いてくる事は基本的になかった。
時折、森に入った地元の猟師や野草を取りにきた人間に遭遇する事もあったが、基本的に神秘を目にする事が困難な人間にはその姿を認識することはできず、例え認識できたとしても、外見が狼よりはハスキーよりだった事もあり、野良の仔犬と思われるくらいで、鹿などの獲物を狙う彼等に特に興味を持たれる事も追いかけ回されたりする事もなかったであろう事は容易に想像ができた。
しかし、その日リリーは奇妙な人間と出会う事になる。
太陽が中天を過ぎた頃。昨夜に降り積もった雪に小さな足跡を残しながらてくてくと巡回をしていたリリーは、ふと視線を感じて歩みを止めた。
後ろを振り返ると、五十Mほど離れた所にポツンと佇む人影が視界に入った。
目を凝らして見ると、新雪よりも白い襟に毛皮のついたコートを着た、よく見かける地元の人間とは違う黒い瞳を持った女性がパアッという擬音が付きそうな輝く笑顔でこちらを見ているのがわかった。
人間があんなに笑顔になるような物が何かあったかと思わず周りを確かめてから森の木々があるだけなのを認めて視線を戻すと、驚く事に彼我の距離がその一瞬で二十M程にまで縮まっているのに気付いて固まった。
相変わらずキラキラと星でも浮かんでいそうな輝く瞳の笑顔を浮かべる人間の女が、よりハッキリと見える位置に立っている。
とても高速で動いた後とは思えない程自然体で立っているのが逆に異常と感じつつも、リリーは向こうが確実にこちらを認識している事を悟りつつ、どうしたものかと考える。
そして、ついと視線を一瞬逸らしてから先程よりも早くまた見据えると、魔法でも使ったようにさらに距離が詰まり、彼我の距離はおよそ五Mにまで縮まっていた。
害意は全く感じられないのに、何故か身の危険は感じるという初めての状況に逡巡するリリー。
次に視線を外したらヤられる・・・という戦慄を感じつつ、端から見ると可笑しなにらめっこを始めた体な一人と一匹は暫く膠着状態に突入した。
先に動いたのはリリーだった。
というか、より正確に言うならば背を向けて逃走を開始したのがリリーだった。
その理由は、対峙していた人間の女が呟いている声を認識したためだった。
「ハァ、ハァ、ミニモフ。ミニモフだわ。あぁ、つぶらな瞳、丸っこい体型、全てがカワユス、カワユス」
そんな呟きを聞いた瞬間。
気が付けば女に背を向けて、その場所からの全力逃走を選択している自分を認識したリリーだったが、最初の一歩を踏み出した後の二歩目が地面を踏み締める事なく宙を泳いだ事実に驚愕する。
神速で追い付いた女が背後から自分を両脇から抱え上げて、その胸元に抱きしめられたのだと気付いた時には既に遅く。
そのまま全力で人間の女にほお擦りされ、全身をモフられる事となった。
人間の女は日本人で、名を葉山百合子といった。
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ハスキーブームは動物のお医〇さん。