序章 7月26日養老山、山中にて
「・・・・・・これは完全に迷子・・・かなぁ?」
ぽつりと零れた少年の独り言は、全方位から鳴り響く蝉の声に飲み込まれた。
生い茂る木々の枝葉の隙間を縫って、地面へと細く木漏れ日が降り注いでいる。周囲からはむせ返る様な熱気とともに、濃密な植物の匂いが立ち篭める。
額から流れ落ちる汗を手の甲で拭いながら、頭の中で現在状況は「迷子」よりほぼ「遭難」であると一人脳内注釈をいれていたが、周囲を見回しても獣道すらない完璧な山の中とあっては現実的に考えてどちらが正鵠を得た状況かは言わずもがなである。
因みに文明の利器。ポケットに入っている携帯電話の液晶には、無情にも圏外の表示。山の中でも繋がりやすくなった現代とは言え、やはり全てをカバーは出来ていないようだ。しかしながら、いつも使っていた登山道はぎりぎり圏外ではなかった事実に思い至るに、最初の登山道からは相当な距離を離れてしまったようである。
「・・・コントかい」
現在状況に陥った経緯を振り返りながら一人ごちる。
山頂までいつも通り登るだけだったはずの道程から外れたのは、完全な己の不注意からだった。それに加えて重なった不運。
結果。自分が何処に向かって進めば元の道、又は人里に戻れるのか見当もつかない程に迷ってしまった。
「・・・・・・とりあえず・・・進むしかないか」
山中にいるのだから、とりあえず下れば人里につくのではないかと思うかもしれないが、事はそんなに簡単ではない。遠目に見れば三角の形でも近づけば単純明解に理解出来るように、実際の山というのは起伏に富、子供が砂場の砂でつくる山のようなわかりやすい斜面で形成されている事はない。高く生い茂る木々の間を、獣道もない草を掻き分け中腹を進むという行為は、登っているのか下っているのかが簡単にはわからないものである。
時刻はお昼を過ぎた辺りだが、夏場のこの時期、夕闇が訪れるのはまだ先とはいえ、平野部と山中では当然後者の方が暗くなるのは早い。
夜闇の中を山中行軍するのは明白な自殺行為でしかないので、なんとかそれまでには脱出したいところである。
一時間程歩き続けただろうか、唐突に周囲に霧が沸き上がりだし、辺り一面を白い濃霧があっという間に覆い尽くした。
山の天気は変わりやすいとはいえ、何の前触れもなしに濃霧が立ち込める状況はいささか奇妙に感じられたが、考えても栓なき事と少年はより慎重に移動を続ける。
そして、すぐに少年は強烈な違和感に体を襲われた。例えるなら蜘蛛の巣に顔面から突っ込んでしまった時の様な、又はシャボン玉の膜を貫いたような、極薄い何かを通過した感触を全身で感じたのだ。
しかし、自身の体を見下ろしても目に見える変化はなく、蜘蛛の糸が絡みついていたりしている事もなかった。
首を傾げ、頭に疑問符を浮かべながら一歩踏み出すと、足元から「ジャリッ」という音と共に、先程まで踏み締めていた草木を踏む感触とは異なる、玉砂利を踏み締める固い感触が靴底を刺激した。
それと同時に、周囲を覆い尽くしていた霧が、音もなく夢幻だったかの様に一気に消えて溢れる光が視界を塗り潰した。
眩しさに閉じた瞼を開くと、頭上には先程までは枝葉で遮られて直視できなかった照り付ける夏の太陽。眼前には木々をくり抜いて造られた拓けた土地が広がり、足元には玉砂利が敷き詰められ、少し先からは石畳の道が真っ直ぐに伸びていた。石畳の始まりの箇所の左右には石で作られた灯籠が建っており、それは等間隔で奥へと向かって並んでいた。
視線を石畳の先に動かすと、こじんまりとした神社らしき建物を見受けることができた。
「やった!人里へ突き抜け・・・・・・た?」
少年の声音が遭難回避の喜びから、尻すぼみにトーンダウンし、最後には疑問形になった。
その理由は、辿り着いたこの空間の目に見える境界は全て森林に囲まれており、何処かに繋がる道を見つけられない事に気付いたのと、建物は社が一つだけで他にはなく、人の気配も全く感じられなかったからだ。
しかも、先程までは五月蝿い程に合唱していた蝉の声も何故か聞こえず、奇妙な静寂がその場を支配していた。
「・・・・・・」
少年は、まるで何かに導かれるように石畳の道に足を踏み入れると、そのまま社へと歩を進めていった。
厳かな雰囲気を放つ社は、年月は感じさせるが朽ちた部分は見受けられず、とても綺麗な外観をしていた。
放置された気配がないということは、人が手入れをしている事実を推測させるのだが、矛盾するように地面や周囲には人の足跡はおろか、生物の気配が全く感じられなかった。
頭の片隅で異常な状況であることを感じつつも、少年は進む。
正面の階段を上がり、本殿への観音扉に手をかけた。
その中で少年が目にしたのは−−−−
* * * *
北ニ聳エル山々ニ 養老山ト呼バレシ山アリキ
彼ノ山奉ルハ神非ズ 二柱ノ精霊奉リケリ
資格無キ者霧ニ阻マレ着ク事叶ワズ 選バレシ者ノミ社ニイタル
社ニイタリシ者ニノミ 二柱ノ加護ヲ授ケラレン
加護授ケラリシ者 天〇〇ツマデ護〇ケ〇
夏季には非常に涼やかな滝を一望できる広場に建つ小さな石碑。
その石碑に彫られた、碑文の最後の一文は、長い年月を越える過程で風雨に晒され欠けていた。
少年がこの碑文の意味を、想像もできなかった出来事によって理解し。
最後の欠けた一文の内容を知る事になるのは、高校に進学をして迎えた、最初の夏休み。
その最初の一日目でのこととなる。