精霊王の屋敷5
陽の落ちた部屋の中では、ペンを走らせる音だけが響いていた。炎の精霊を宿したランプが、やわらかく室内をオレンジ色の光で照らしている。
「メグ様、まだお休みにならないのですか?」
湯上りのミルクを飲み干したシルフィアは、髪についた雫を拭いながら主人の肩先に止まった。書き物机の上に広げられた紙面は、少女らしい几帳面な文字で半ば以上が埋められている。
「屋敷に着いたら城に報告をしろと約束させられちゃったもの。
初日だし、お父様も色々とご心配だろうから、報告してあげるのは娘の役目でしょ」
言葉だけならば義務で仕方なくと言った調子だが、マーガレットの頬は楽しそうに緩んでいる。
手紙には聞いたより険しかった山道のこと。落ち着いた屋敷の様子。自分以外の使用人のこと。そして美しき精霊王のことが、事細かに綴られていた。
城以外の生活をほとんど知らない皇女には、見聞きしたもの全てが新鮮で、一度書き出すと手が止まらない。あれもこれもと書きたいことが次々と思い浮かんだ。ガラス細工のペン先も、まるで踊るようだ。
「そうはおっしゃられますが、明日からはお仕事ですよ。
少しでもお体を休めていただきませんと」
「うーん、そうねえ」
主人は昔から、ひとつのことに集中すると周りが見えなくなる性質だ。
返事は返せど、ぶどう色の瞳が向けられなかったことから、自分の言葉は半分も耳に入っていないだろうとシルフィアは思った。埒があかないと、妖精が手紙の上に身体を移動させると、マーガレットはぱちくりと驚いたように瞬きをする。どうやら皇女は誰と会話しているのかもよくわかっていなかったらしい。
知らず漏れるため息を吐き出されるままにして、シルフィアは細い両手を腰に宛てた。いつものお説教の体勢だ。頭の上できりりとひとつに結った髪が、前のめりになった反動でふわりと揺れる。
「わたしもここまで来たからには、もうお城に戻るようにとは申しません。
ですが、反対を押し切ったからには、ご自分のお仕事には責任を持っていただきます。
ペンを置いて、お父様にお送りしてしまいましょう」
さぁさぁ早くと、お怒り気味の世話役に促されては、皇女も興が削がれたのか、言われるがままペンを下ろした。それに満足したように妖精はうんと頷く。
「もう、仕方ないわねえ。
今日はここまでにしておくわ」
手紙に念入りに封をすると、マーガレットは夜着の下からコンパクトを取り出した。繊細な透かし彫りを施されたそれは、通常のものとは違い少女の手のひらにすっぽりと収まってしまうほど、ちいさなものだ。身だしなみに使う手鏡ではなく、精霊の力を借りるための魔法具であった。
人間が魔法を使うためには寄り代が必要だった。寄り代は使用する精霊の力が込められたものに限定され、多くは装身具に加工しやすい精霊石と呼ばれるものを使用する。特に様々な種類の力を扱うことが出来る者は、マーガレットのようにコンパクトの形で持ち歩くものが多かった。
くるりと蓋を回し、青と緑の石を覗き窓に合わせる。精霊の力を呼び出すためだ。
「風と水の精霊よ」
リンガホーン皇国では基本的に手紙を人の手に託す必要はない。魔法によって、瞬時に相手の手元に送ることが出来るからだ。勿論、一部の魔法使いがいない街での伝達手段のために、人間の配達員も残されているが、それは非常に稀な例だった。
殆どタイムラグもなく、正確に相手に届けることが出来るこの術は、民間でも特に重宝されている。
細かな仕組みは解明されていないが、水に溶かし風を使って送るのだ。利便性の割には手紙を浸せるだけの水さえあれば使える手軽なもので、風と水の魔法を仕える者にとっては基本的な術のひとつでもあった。
しかし、今日はいつもとは違った。普段ならば水差しから手紙に水を振り掛けた途端、呼応するようにコンパクトの石が光を放つはずが、何の変化も起きなかったのだ。
「あれ?」
じわじわと水が机の端に伝ってくる。マーガレットは首を傾げた。精霊が応えれば、水は手紙と共に跡形もなく消える。こんな風に水浸しになった机を見るのは初めてだった。
「風と水の精霊よ」
もう一度、今度はコンパクトに手を添えて呼びかけてみる。城からそう離れていないとは言え、初めての土地だ。力を借りる精霊も変わる。王城の周囲を取り巻く風の精霊は、魔法で呼ばなくとも挨拶を交わすような仲だが、この山に住む精霊には自分の声が届きにくいのではないかと思ったからだ。
ところが、今度も机上には何の変化もない。広がった水がひとしずく、皇女の夜着を濡らした。
「姫様、もしや魔法が使えぬのでは……」
シルフィアが恐る恐るといった調子で声をかける。それは今、主人が最も聞きたくない言葉だった。
魔法が使えないというのは、物心ついてから今までマーガレットが一度も体験したことがない事態だ。
元々、魔力土壌の強いリンガホーン皇国に生まれた人々は、諸外国より魔力量の大きい者が多い。特に、皇族や一部の上級貴族にはそれが顕著で、魔力の強い子が生まれる血筋を保つ努力を繰り返してきた。その成果は大きく、マーガレットも魔法の基礎を教わる前に妖精と言葉を交わし、精霊の力を借りる術を知っていた。
だから自分の呼びかけに精霊が応えないというのは、初めてのことだ。その為、こういった場合の対処法もわからない。ただ、ぎゅっと魔法具を握り込むことしか出来なかった。
「恐らくご自分でも気づかぬ疲れがあるのですよ。
人間の魔法使いならば、体調に左右されて術が使えないのはままあること。
今日のところは、僭越ながらわたしがお手紙をお送りいたします」
皇女の困惑が伝わったのか、妖精は一際大きな声を出すと、ぱんと両手を合わせる。何も心配することはないというように、音に反応した主人に笑顔を向けた。
安心させるように頷くと、シルフィアはちいさく口中で何事かを呟く。羽から生じていた燐光が細い身体を包み込むように膨れ上がり、それが消えたときには机上から手紙は消えていた。
「ふむ。これで一先ずは安心でしょう」
「……魔法が使えないわけじゃないのね」
「それは勿論です。昼に同族たちに挨拶をしてきましたが、この山は皇国中でも魔力土壌が非常に強い土地だと言っていました。
何より精霊王様のいらっしゃる場所で、精霊の力が使えないなどありえません」
では何が原因なのかと、益々不安そうに眉根を寄せる主人の頬に、シルフィアはやさしく寄り添った。ちいさな手のひらがなだめるようにマーガレットの頬を撫でる。
「もう今日はお休みなさいませ。
一晩寝れば治るというのもよくあることですよ。
余り深く落ち込まれないでください」
幼い頃から皇女を見てきたシルフィアは、落ち着いた声音で語りかけながら、何度も頬を撫でていく。その内に肩の力が抜けたのか、マーガレットはふぅーっと大きく息を吐いた。
「そうね。悩んでいても仕方がないわ。
とりあえずシルフィアが魔法を使えるようで安心。
もし貴方まで使えなかったら、誰が何といってもフェラー卿が連れ戻しに来るはずだもの」
口喧しい宰相の顔を思い出して、マーガレットは苦い顔をする。シルフィアと一緒に最後までマキシミリアン邸でのメイド生活を反対していた彼は、姫君にとっては頑固者のじいやのような存在だった。近衛兵を連れて行けと言い張っていたのもフェラー卿である。
「フェラー卿は姫様をご心配されているんですよ。
さぁさ姫様、久しぶりに子守唄でも歌って差し上げましょうか」
「シルフィア、呼び方が戻っているわよ」
「これは失礼いたしました、メグ様」
ふふっと笑みを交わし、マーガレットは大きく伸びをした。魔法が使えないらしいのは不安だが、夜に悩んでいても気が滅入るばかりだ。
確かに一晩寝れば、何故か歯車が噛み合うというのは魔法に限らずよくある話で、ここは長い付き合いの世話役の話を聞いておこうと思った。
ひんやりと冷たい寝具の中に身を滑り込ませ、ランプの明かりを消す。ふと同じく魔法具であるこのランプはどうやって点けたのかと思い巡らすと、既に灯りのあるものを執事に手渡されたのだと思い出した。少なくとも彼は魔法を使えているのだろう。
明日やるべきことの一番上に、レンに魔法について相談をすることを追加して、マーガレットは枕に頭を預けた。自室のものより幾分肌触りの悪いシーツは、けれども太陽の匂いがする。
明日には魔法が使えるようになっていますように。そう胸中で願いを唱えながら、皇女は少しずつ眠りの海に落ちていった。
しかし夜が明けても、マーガレットの呼びかけに精霊が応えることはなかったのだった。