精霊王の屋敷4
「お茶でもいかがですか?」
屋敷の主人に挨拶をしてからは、例の素っ気ない態度で執事に屋敷の間取りを案内された。その後は「仕事は明日からで結構です」という言葉に甘えて荷物の片付けを終え、茶でも飲もうと使用人専用の休憩室にやってきたところ、掛けられたのは先般の言葉である。
目の前に陶器のカップを置きながら話しかけてきたのは、マーガレットより幾分年かさに見える少女だった。着ているのはデザインの違うメイド服で、どうやらこの屋敷の先輩メイドらしい。
「麓の街からひとりで歩いてこられたなら、お疲れでしょう。
この屋敷の庭で採れた新鮮なハーブなんです。きっとリラックスできますよ」
少女は、マーガレットと自分の二人分の茶を、言葉の間でてきぱきと用意し、手馴れた仕草で供してくれる。カップからは鼻腔の奥に弾けるような爽やかな香りが立ち上っていた。
「あたしはアンナ・サリヴァンと言います。
もう三年ほど、このお屋敷でメイドとして働かせていただいております。
勿論、お嬢様と違って下働きなんですが……」
アンナと名乗った少女は、そう言うと芝居がかった仕草で肩を竦ませる。持ち手にかかる指先にはちいさなヒビが目立ち、なるほど自己紹介の通り水仕事を日常的に行う仕事をしているらしい。
メイドの仕事というのは大きく分けて二種類ある。
ひとつはいわゆる世間一般のイメージにあるような、調理場の下働きや、掃除や洗濯などの家事を行うメイド。こちらは平民の娘が務めることが多い。
もうひとつは来客の相手をしたり、主人の身の回りの世話を行うメイドだ。こちらは家事とは言っても、茶や茶菓子の用意をすることくらいしかない。その代わり人前に出ることも多いため、若く美しい教養の高い娘でなければ務まらない。貴族や平民の中でも裕福な家の娘が就くのが、こちらの仕事だった。勿論、マーガレットもこちらである。
上級のメイドの中には、下級の者たちの人事にまで口を出せるものもいる。同じ使用人の立場でありながら、アンナが殊更丁寧な言葉で話しかけてきたのもそのせいだ。
皇女はぼんやりとしていたことを誤魔化すように微笑むと、「ありがとう」とカップに手を伸ばした。
「私はメグ・フローリアスと申します。
お嬢様だなんて呼ばないで、同じメイド仲間なんだから気軽に『メグ』って呼んで欲しいわ」
「そんな……妖精連れのお嬢様を呼び捨てにするなんて恐れ多い」
メイドにまで畏まった態度を取られては、こちらの化けの皮も剥がれようというものだ。多くの人間にかしずかれる人生を送ってきたマーガレットは呼び名に訂正を求めようとしたが、年かさの少女はそれを容易に受け入れてくれるつもりはないらしい。
「あの子は、シルフィアというのだけど、気にしないで欲しいわ。
単に代々我が家に仕えてくれている屋敷妖精なだけで、フローリアスは領主自らも畑仕事をするような家よ」
嘘は言っていない、嘘は。王城自体に付く屋敷妖精ではないが、シルフィアは皇室に代々仕える妖精の一族の出身だ。
今はこの場にいないちいさな世話役に心の中で謝って、皇女は首を振ってみせた。シルフィアは部屋の片付けが終わるのを見届けると、山に住む同族に挨拶に行くと言って出かけてしまったのだ。
妖精を連れているというのは、この国では一種のステータスとして扱われることがある。
古来より人の世には無関心で、同じ種族の中でも群れることはない精霊たちとは違い、妖精は人に近しい存在だった。彼らは自らの住まいを気に入った人間に託し、その開梱者に守護を与えて血筋を守る。そうやって人間に寄り添うように生きてきた種族だ。
その為、個人的に友誼を結んだ極一部の者を除いて、妖精を連れているのは国の発祥以来の古い貴族の家系であるというのがリンガホーン皇国での常識だった。例え家格が下のものであろうとも、妖精付きであるというだけで敬意が払われるのは、貴族同士の関係でも重視される風習のひとつだ。
それが平民と貴族という元々の身分差に加われば、アンナの振る舞いは当然のことだった。
「お優しいことを言って、あたしを困らせないでください。
お嬢様がよろしくても他の方が許さないでしょう。
それこそシルフィア様が」
「あら、うちの妖精はそんなに心が狭くないわよ。
私、領地にずっと引き篭っていたから、年の近いお友達が少ないの。
お願い。仲良くしてちょうだい。ね、アンナ?」
そう言ってカップを持つアンナの手を、自分の両手で包み込む。
先程はマーガレット自身がマキシミリアンにやられたことだが、身分の高い者の方から歩み寄ってみせるのは悪い手ではない。肌に触れてみせると言うのは親愛を表すのには手っ取り早い方法だ。
ダメ押しのようににっこりと微笑んで見せると、アンナのそばかすの浮いた頬にちいさく赤みが差した。
「そこまで言われるなら……」
「メグよ」
「メグ、よろしくね」
大きく破顔すると存外おさない印象になる少女は、マーガレットの手を握り返す。荒れてはいるが、あたたかで優しい手だ。人の良さそうな笑顔を見て、屋敷ではじめてまともな人間に出会えたようだと皇女は内心ひとりごちた。
なにしろ執事は慇懃無礼を絵に書いたような有様で、主人は気後れするほどの美貌である。印象に天地の差があるものの、とっつきにくさで言えばどちらも似たようなものだ。
その点、アンナは安心出来る。少し痩せぎすなようにも思えるが、身長はほどほど。決して不器量というわけではないが、低めの鼻とくるりと丸い水色の目に愛嬌がある。夕焼けのように赤い髪を三つ編みにして背中に一本垂らしている姿は、心強ささえ感じさせるものだった。
「あなたみたいな人と一緒に働けるなんて嬉しいわ。
私、少し不安だったから」
友人候補に弱った本音を打ち明ければ、赤毛の少女はたちまち人の良さを発揮して、うんうんと大きく頷いてくれた。
「でもメグったら、ぼーっと天井を見つめちゃって、マキシミリアン様に骨抜きにされたみたいだったじゃない」
「そ、そんなことはないわよ。
勿論、マキシミリアン様は素敵なお方だったけれど」
慌てて否定してみるも、アンナは皆まで言うなと手のひらをこちらに向ける。婚約者の秀麗な面立ちを思い返しては、うっとりしていたのはお見通しのようだ。
「まぁ仕方がないわ。あのお姿だもの。
大聖堂に飾られた天使様の似姿だって、我らがご主人様を前にすれば霞むというもの」
「本当に。この世のものとは思えないわ。
まるでお会いしたのが夢みたい」
どうやら思うことはみな同じらしい。ほうっと感嘆の吐息を漏らすと、それは二つ分重なって、少女たちは互いの目を見て笑った。
実際天使様も霞むというのは言い得て妙だ。皇国一の大聖堂に描かれた天井画の天使と、マキシミリアンの姿のどちらを信奉するかと聞かれれば、少なくとも年頃の娘は十人が十人後者を選ぶだろう。
「でもマキシミリアン様を慕ってもダメよ。
精霊王とも言われる大精霊様だし、何よりこの皇国のマーガレット姫様のご婚約者様だもの。
お会いしたこともないらしいし、お互いどう思われてるのかは知らないけど、叶わぬ恋に身を焦がすのは時間の無駄よ」
自分の名前が出されて、マーガレットの背がびくりと跳ねる。他人のフリをして自分の話を聞かされるのは変な感覚だ。
「それに、もしマキシミリアン様に不埒なことをすれば……」
「すれば?」
「うちの執事様が黙っちゃいないわよ。
あなたに言うのは気が引けるけど、前任者はそれで追い出されたようなものだもの」
「お、追い出されたって穏やかじゃないわね」
気が引けると言いつつ隠すつもりはないらしく、アンナはずばりと言葉を続けた。けれど前任者が追い出されていたとは、どうりで珍しく城に差配の依頼なんかが来るはずだ。流石に想像していなかった展開でマーガレットは唖然とする。
上級メイドが職を辞するのは縁談がまとまったときがほとんどで、その場合は突然決まるものでもないから、辞める前に後任を探すものである。
てっきり主人の人嫌いが原因でそれが決まらなかったのかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。もっともアンナをはじめとして、この館の使用人たちは見たところ人間ばかりで、マキシミリアンが身の回りを精霊だけで固めておきたい選民主義思想の持ち主でもなさそうだ。いよいよもって精霊王の噂の根拠が見つからず、マーガレットとしても首を傾げるばかりである。
男女の仲の不埒な行いについては、流石に温室育ちの皇女と言えども察しがついて、不穏な内容からは矛先を逸らすことにした。
「ところで、あの執事のレン様はどういった方なの?」
「あらぁ? なに、執事様の方が気になる感じ?
確かにクールで、よく見ればお顔立ちも整っていらっしゃるし、マキシミリアン様とは違った意味で魅力的な方よねぇ。
あたしがこちらでお勤めさせていただいて以来、浮いた噂のひとつも聞かない堅物だけど、応援するわよ?」
「待って、違うわ。そうじゃなくて……彼は人間なの?」
まさか初対面での評価がどん底の男に対する慕情を疑われるとは思いもせず、慌てて否定する。あんなにつかみどころのない相手なんて、マーガレットは真っ平ごめんだった。
レンは見た目は人間であるように見える。妖精にしては姿が大きすぎるし、精霊にしては外見が些か地味すぎる。けれども、ただの人と言い切るにも纏う雰囲気が自分たちとは異なっているように見えた。一言で言うと雰囲気が清浄すぎた。俗世の欲など全て捨てきったような背中は修行僧にも劣らぬように思えて、先達の少女が何か知らないかと軽口のついでに訊ねてみたのだ。
「えぇ? そんなことを聞いた人ははじめてよ。
でも、うーん、そう言われてみると執事様が人間だって聞いたことはないわね。
どこの生まれだとも聞いたことはないし。何しろ素性が謎な人なのよ。
きっとここで一番長いスヴェンさん、あ料理長ね、も知らないと思うわ」
アンナも確かなことは知らないらしく、突然の思ってもいない質問に首を傾げるばかりだ。
知らないのならば仕方がないと謝る同僚に手を振って、マーガレットは黒ずくめの執事の姿を思い浮かべた。完璧な作法に、そして何処か居丈高にも見える物腰。精霊王の最も近くに仕える者だ、人間ならば名のある名門の出ではないのか。そうであれば誰も素性を知らないのは不自然だ。
でも人間じゃないとも聞いたことはないわよ、付け加える赤毛の少女に頷いて見せながら、マーガレットは冷め始めたハーブティーに手を伸ばすのだった。