精霊王の屋敷3
屋敷の主人の部屋は、中央の階段を二階に登り、玄関ホールを取り囲む廊下を左回りに歩いた突き当たりにあった。
切り立った崖の上に建てられた館の中で、恐らくそこが一番『碧の湖畔』がよく見えるのだろう。さやさやとレースのカーテンを揺らす風に、水の匂いを嗅ぎ取ってマーガレットはそう考えた。
身だしなみを整え、腹もくちくなった。料理人の腕は、王城の食事を食べ慣れた皇女の目にも適うもので、特に川魚の包み焼きパイは絶品だった。ここに勤めている間にレシピを聞き出すことを、己の心に記しておく。
そうしていよいよ、精霊王マキシミリアンとの対面というわけだ。
もう一度、頭のてっぺんから腰までを手でなぞって、おかしなところはないか確認する。
メイドキャップはズレていないか。レースのカラーは汚れていないか。エプロンのリボンは曲がっていないか。
婚約者と認識しているのはマーガレットだけなので一方的なものではあるが、幼い頃より想像してきた人との初対面なのだ。思わずおかわりをしてしまったスープが顔についていないか不安になって、自身の右肩に止まっている妖精に確認してしまう。
シルフィアの方も主人に釣られて少し浮き足立っているのか、「ご心配なさらずとも」と澄ました顔で取り合いながらも、どこかそわそわと落ち着かない様子だ。
「マキシミリアン様」
こんこんと、部屋まで先導してくれたレンが、軽やかなノックの音を響かせる。彼は乙女心の準備を待ってくれるつもりはないらしい。
扉の向こうから「どうぞ」という応えが返る前に、かろうじて深呼吸をひとつすると、マーガレットはぐっと顔を上げた。今日からの暫定主人がどのような外見をしていたとしても、完璧な淑女の笑顔を見せられるよう、口角を意識して吊り上げる。
少なくとも二百年以上は生きている精霊がどんな姿をしているのか、城の人間は誰も教えてくれなかった。人付き合いに関しては、余り良くない噂ばかりの王様が、執事と似ていないのをせめて祈るばかりだ。
「失礼いたします」
黒色の青年が口にする断りの文句を、同じく重ねて礼を取る。スカートを持ち上げる手が少しばかり震えていたが、まずまず及第点と自身の合格点を与え、田舎から出てきたばかりの少女に見えるよう、おずおずと面を上げた。
「本日よりお世話になります。
南の森林区はフローリアス領の娘、メグと申します。
ご機嫌麗しゅう、ご主人様」
そこまで言い切れたことをマーガレットは奇跡だと思った。この一ヶ月間、夢にまで見るほどに練習した成果もあったものだ。衝撃で思考は止まってしまっても、口は勝手に決められた台詞を言い切ってくれた。
しかし奇跡が起こったのもそこまでで、皇女はそこから後どうすれば良いかわからなくなってしまった。
目の前に立つその人が、余りにも美しすぎたからだ。
人とは思えない。最初に浮かんだのは、そんな言葉だった。勿論、精霊王なのだから人間ではないのは承知している。
自身の世話役の妖精を例に取るまでもなく、妖精や精霊と言った種族は美に秀でた外見をしているのもわかってはいた。
けれども、そんな通り一遍の言葉では表現しきれないほど、目の前の少年は完璧な姿かたちをしていた。
午後の日差しを浴びて輝く髪は、月光を一本一本梳いたような白銀。頭の形が良いのだろう、綺麗に切り揃えられ、収まるべくして収まるべき場所に整えられている。髪と同じ色をしたまつげは、神様が手ずから植えたのではないかと思わせる配置だ。
それは小ぶりの鼻と、ふっくらとしたくちびるも同様で、少し丸みを帯びた頬の稜線と合わせると少女めいてさえ感じさせる。
そして、なんといっても瞳の美しさと言ったらない。若葉を思わせる萌える緑の双眸は透き通るような輝きで、この目に見つめられれば男も女も関係なく、その身を地に投げ打ってしまうのではないかと思われた。
造作のすべてが余りに整いすぎて、生きているのかさえ危ぶまれる人形のような少年が、口の端に浮かべた笑みの色だけが僅かながらに彼を生物だと認識させる。
背はマーガレットとそう変わらない。僅かにこぶし一つ分ほど視線が高いだけだ。身体の作りは全体的に華奢で、それが彼の人形めいた印象に拍車をかけていた。
「ようこそ、メグ。
僕はローレンス・マキシミリアン・ベスティベーザ。この屋敷の主人だ。
長旅お疲れ様。君を歓迎するよ」
これもまた爪の先まで美しい手でマーガレットの手を取ると、マキシミリアンは頬に微かに刻むばかりだった微笑みを顔全体に浮かべる。そうすると人形めいた印象はたちまち失せ、気安ささえ感じさせるものに変わった。
精霊王は偏屈で人間嫌い。そう言っていた人々の頭を片っ端から揺さぶりたい。ひやりと冷えた指先の感触に、ぼんやりとしていた頭が少しだけはっきりとする。
我に返って、慌てて主人の言葉に応じようとすれば、声がひっくり返ってしまった。
「……あ、あたたかなお言葉、感謝いたします、ご主人様。
物慣れぬ身ではありますが、よろしくお願いします」
「緊張しているのかな? 僕のことはマキシミリアンで良いよ。
こちらこそ、よろしく」
ふふっと笑いながら指先に力が込められる。重ねられた手から伝わるのはぬくもりだけで、人間に対する敵意や侮蔑の感情などは感じられない。もしかしたら精霊には知られざる感情表現があり、それがこの少ないやりとりの中に込められているのかもしれないが、マーガレットはつまらない憶測よりは自分の感覚を信じることにした。
今まで何度も聞いていた話は、まるでデタラメだったらしい。
精霊王マキシミリアンは人間の使用人にも極めて友好的であり、そして童話の中の王子様も裸足で逃げ出すような美少年。第一印象としては、これ以上ない最高点が皇女の中で弾き出されたのは、無論言うまでもないことだった。