精霊王の屋敷1
海と見紛うばかりの湖はしんしんと水を湛え、中天に昇った陽光を眩しいばかりに跳ね返していた。
見事な尾根が連なる山脈の緑は深く、この秋の見事な実りを予感させる。
国名をそのまま表したようなその光景は一幅の絵画のようで、その美しさに誰もが息を呑むだろう。多くの画家が描き、多くの詩人が詠った風景は、今日も旅人の心を弾ませ、商人を励ます見事なものであった。
しかし彼女は違った。いや彼女とて本来ならば、きっと両目を少女に似つかわしく輝かせ、感嘆の声のひとつも上げただろう。それだけの心の余裕が今の少女、マーガレット・エル・リンガホーン皇女にはなかったのである。
マーガレットはここ『蒼き山脈と碧の湖畔に慈しまれし白き聖花の皇国』、通称リンガホーン皇国の第一皇女にして第一皇位継承者の少女である。齢十五を数える皇女は、ちいさな妖精ひとりだけを共にして山道を歩いていた。
背中を半ばほどまで覆う巻き毛は、はちみつを溶かしたように色の濃い金色。ところどころ毛先に赤茶けた色が混じる髪を、今は赤いリボンでひとつに結わえている。
目にかからないよう切り揃えられた前髪から覗く秀でた額は、彼女の聡明さを雄弁に語っていた。きりりとした眉の下には、陽に透かすとピンク色にも見える大きなぶどう色の瞳が輝いている。
肌はやわらかなミルク色だが姫君の弱々しい印象はなく、紅く染まった頬からははつらつとした生来の性格が垣間見えるようだ。
びょうびょうと山おろしの風が吹く崖の上で、マーガレットはごくりと喉を鳴らした。皇国の兵士ならば一時間、女の足でも二時間もあれば着くと聞かされた山道はいよいよ険しく、今は大人ひとりが通るのもやっとという道幅しかない。それも山中の獣道であるというならばまだしも、彼女が現在殆ど這うように進んでいるその道は、断崖絶壁という他ない場所を通っていた。
一歩足を踏み外せば、城の鐘楼に登ったときよりも遠く見える湖面に、なす術なく叩きつけられるのは容易に想像できた。この崖にたどり着いてから何度も脳裏を巡った冷たい想像に、やはり背筋を震わせてマーガレットは重いため息を吐く。
今日の為にと履き慣らした踵のないブーツは土に汚れ、山肌にすがりついているせいだろうスカートの裾には幾つもかぎ裂きが出来ていた。普段は身につけない膝下の長さのそれは、お気に入りの行商人から買い付けた花柄の布で特別に仕立てさせたもので、それが益々マーガレットの憂鬱に拍車をかけた。
この分では襟に蔦の刺繍が入った白のブラウスも、兄が仕留めた鹿の革で作ったベストも、どろどろに汚れきっていることだろう。今はそれを立ち止まって確かめることも出来ないのが、まだしもの救いであった。
城を立つときには手に提げていた旅行かばんは、今は取っ手に無理矢理腕を通して背負っている。両手で壁面に縋り付いていなければ、とてもではないが山頂まで歩ける自信がなかったからだ。
まるで姫君には見えないだろう自分の姿に、思わず恨みの篭った声が漏れる。
「騙された……」
朝食を終えて間もなく出立したはずが今や太陽は高々と輝いており、空腹の具合から考えても既に四時間は軽く歩き通している。慣れない山地を行くのに足が鈍ったとしても、昼食の頃には着くはずだったのが大誤算だ。一体、誰が気安い道のりだなどと言ったのか考えても記憶は遠い。
今のマーガレットに出来ることと言えば、山頂に聳える屋敷に恨みがましく視線を送るのが精々のことであった。
「マーガレット様、少しご休憩なさってはいかがですか?」
「良いのよ、シルフィア。いま座ってしまったら、もう立ち上がれる気がしないもの」
そんな主人の様子が気がかりなのか、人の手ほどの大きさしかない妖精は透き通った翅を動かして近づくと、手巾でマーガレットの額に浮かぶ汗を甲斐甲斐しく拭う。
頭の高い部分で結えられ、それでも膝の裏まで届く髪は白に緑を数滴混ぜ込んだような薄緑。肌は磨かれた真珠のごとき白さで、忙しそうに皇女の周りを飛び回りながらも、その姿は踊るように軽やかで優雅である。
きりりとした眼差しは可憐なすみれ色をしており、花のほころぶようなくちびるがツンとした印象を和らげていた。
大人の手のひらに収まってしまいそうなちいさな体には、薄絹を幾重にも重ねたようなドレスを纏い、まさにお話の中から抜け出してきたような妖精だ。
けれど今その妖精も心なしか、その肌や、身にまとうドレスが汚れているように見えた。
「やはり姫様……わたしは心配です。
今からでも遅くはありません。お城に戻りましょう?」
「それは何度も話し合ったでしょ。
私の人生に関することだもの。自分の目で見て確かめたいの」
「ですが、精霊王マキシミリアン様は人嫌いで有名です。
滅多なことはなさらないとは思いますが、もし何かあったら……」
ちいさなすみれ色の瞳が至近で震える。シルフィアが自分の身を案じているのは、マーガレットもよく分かっていた。
しかし、この一ヶ月の間、繰り返し唱えられたお決まりのセリフに、答える声もやや平坦になる。それに引き返そうにも街は既に遠く、ようやく全貌が伺えそうな距離にまで近づいた目指す屋敷に向かう方が早いのは一目瞭然だ。
自分のことは自分で決める。それがマーガレットの身上だった。
それは皇女という身分のお陰もあって、この十五年間そこそこに叶えられてきた。
けれどもその身分のせいで、ままならないこともある。そのひとつが『婚姻』であった。
皇族の習いとして、マーガレットにも生まれながらに婚約者が定められていた。それこそが先ほどシルフィアが震えながらに口にした、精霊王マキシミリアンその人である。
第十四代皇帝バートランドが精霊王と交わしたという、『自らの代から数えて、皇室の十人目に生まれた皇女を妻に』という約束。その十人目の皇女こそがマーガレットなのであった。
婚約者の存在そのものに否やはない。皇女とはそういうものであると理解しているし、精霊王には国全体の恩義もある。
もう二百年近くも前の戦争のときばかりではない。その後も人嫌いで有名なはずのマキシミリアンは災害や、皇室の変事のたびに影から助け、リンガホーン皇国を支えてくれている。
おかげで国は平和に栄えている。近隣諸国で聞くように、街を女子どもひとりでは出歩けないというようなこともない。
大きな争いが長く起こっていない為もあり国の景観は美しく、観光に訪れる客も後を立たない。外の国の人々から賛辞が送られると、精霊王のおかげだと返すのは、国民の中でも習慣となっていた。
精霊の王が守っている約束を、人の側から違える訳にもいかない。例えマーガレットが第一皇位継承者であったとしてもだ。
理解もしているし納得もしている。けれども、それだけでは収まりがつかないのが感情というものだ。
十五歳の少女としてはありがちなことに、マーガレットもまた恋愛に夢を見ていた。
親に定められた婚約者が容姿も人柄も完璧な美男子で、政略結婚の果てに真実の愛に目覚めるというのは、巷間の物語でもお決まりのパターンだ。まだ恋を恋とも知らない皇女は、滅多に山から降りてこない精霊王との恋愛に夢を見ていた。
人嫌いとは言われるが何百年も約束を違えない姿勢は誠実であり、精霊たちにも慕われているようだから人柄は悪くないように思われた。天災さえ独力で退けてしまうその力の強さは折り紙つきで、恋愛経験のない姫君が理想の恋愛相手に重ねてしまうのも無理からぬ話である。
だからこそマーガレットは、精霊王マキシミリアンに会いたいと、それが適わないならばせめて一目見たいと、ずっと願っていたのだ。
そんな少女が小耳に挟んだのが、珍しくかの王から寄越された頼みであった。
「姫様にメイドの真似事をさせるなど、お許しになる陛下も陛下です」
「あら、真似事とは失礼ね、シルフィア。私は正真正銘のメイドになるのよ」
「それが心配だと申し上げてるんです……!」
いよいよ感極まったのかシルフィアは、手にしていた白い布の中に顔をうずめてしまう。その姿をやれやれと見遣りながら、マーガレットは汗で頬に張り付いた金褐色の髪を払い除けた。
マキシミリアンの頼みとは、『屋敷で働くメイドをひとり都合してほしい』というものであった。それに渡りに舟とばかりに皇女が立候補したものだから、城中が上に下にと大騒ぎになった。
多くの者は、今のシルフィアのように大反対をしたが、唯一賛成をしてくれたのがマーガレットの父、つまり皇帝である。
平民出身の女性と大恋愛の末、男児まで設け、更に皇室に引き取った父は自由恋愛主義者であり、恋に憧れる娘の応援をすると言ってくれたのだ。
おかげでマーガレットは皇帝陛下直筆の推薦状を携え、精霊王の屋敷でメイドとして働くこととなった。
しかし幼少の頃から皇女の世話役として仕えてきたシルフィアはそれが心配でたまらないようで、最後の最後まで、いやこのときにまで反対をし続けているというわけである。
「マキシミリアン様のところには客人もほとんどないと言うし、炊事は得意だから心配しなくてもバレやしないわよ」
大きさこそ人形ほどしかないが、時に姉のようにも慕ってきた妖精が、本当に自分を思ってくれていることは言葉以外からも知れて、今更のようにマーガレットは安心させるために微笑んで見せた。
シルフィアがどれだけ嘆いたところで、マーガレットはこのアイディアを引っ込めるつもりはなかった。思いつきのように口にしてしまったが、よくよく考えてもメイドとして婚約者に近づくのは良い案だと思えたからだ。
相手はまさか皇女が単身――妖精がひとりついてはいるが、乗り込んでくるとは思っていないだろうし、使用人相手には態度が横柄になる主人がいるというのもよく聞く話だ。
精霊王の人となりを確かめるには、メイドは正にうってつけの仕事だった。
「確かに姫様のお料理は絶品ですが、そう言った問題ではありません。
大体、今度のことばかりではありません。一時が万事、そういった思いつきだけで行動なさることを……」
おまけにと付け足したウインクが良くなかったのか、傍仕えの妖精はすっかり小言をいう姿勢に入ってしまっている。
こうなったら手のつけようがないことを知っているマーガレットは、はいはいと適当に相槌を打ちながら、少しずつ歩き慣れてきた崖の道をじりじりと前に進んでいった。
先程までは進んでも進んで近付く気配がないように思われた屋敷も、さすがに空腹で倒れる前にはどうにか辿り着けそうだ。そう思えば、歩く足にも力が入るのだった。
子供時代のおてんばにまでシルフィアの小言が達したころ、マーガレットはようやくその足を止めた。
目の前には屋敷というより、ちいさめの城というほどの建物がどんと待ち構えていた。
さすがに今まで起居していた城には敵わないものの、石造りのその建物はひと目で素晴らしい建築物であることがわかる。
堅牢そうでありながらも無骨ではなく、ところどころに施された流麗な彫刻が古色蒼然とした面持ちを和らげている。
緑がかった青い屋根の色は、その後ろに見える蒼き山脈にまるで誂えたよう。
前庭には余計な雑草も生えておらず、窓という窓は午後の陽光を受けてきらきらと光っている。
その様から住んでいる人からの愛情が伺えて、マーガレットはこの屋敷の主人に益々好感を持った。
金属の鈍い光を放つノッカーを、規則正しく二度コツコツと鳴らすと、皇女は小言の止まない傍らの妖精の頬を、指先でつつく。
「シルフィア、ここからは私のことを『姫様』と呼んではだめよ。
私は――」