或る騎士の死
かなり昔に書いた作品に、文章や表現の面で少し手直しを加えました。
どこかで見た覚えのある方がいらっしゃるかも知れません。
潮騒が遠く聞こえる。少し黄金色を帯びた光が降り注ぐ庭には、赤や黄色の葉で彩られた鮮やかな絨毯が広がっていた。
のどかな風景は、そこが隔離された療養所だという事を忘れさせる。
その日、僕はたまたま友人の祖母の出所に付き合ってそこを訪れた。もう随分病気も良くなったし、最後の面倒は家族で、と思ったらしい。
別段僕は何もする事がなかったので、老人の不自由な体を友人の車に乗せる手伝いをした後で、そこらをぶらついていた。
帰りは車はないけれど、バスが通っているから大丈夫とのことだった。折角こんな辺鄙な所まで来たんだから、ゆっくり景色を楽しんで行かなきゃ勿体ない。
そんな軽い気持ちで、僕は散策を続けた。療養所にいるのは、老人ばかりだった。病気持ちで家族が世話をみきれない人や、親族がいなくてどうしようもなくここに入った人もいる。実際に重病で『療養中』の人間はほとんどいないようだった。
ふと、僕は木陰にいる男性に気を引かれた。
別に何処がどうと言う訳でもないのだが、その横顔がまるで夢でも見ている様だったので、僕は足を止めて立ち尽くしていた。
「あの人はね、惚けちゃってるんですよ」
突然後ろから声をかけられ、びっくりして振り返る。そこには、白衣を着た所員が立っていた。
「もう、奥さんのことも分からないし、今朝の出来事さえ不確かなんです。話しかけても一向に要領を得なくて、大変なんですが……それでも一応、自分が世話になっているって事は分かってるんですね。不思議なことに、物語みたいな話をさせると実に理路整然と話すんですよ」
「物語……ですか?」
「ええ。自分は何とかって騎士なんだって言ってますよ。まだ、武士なら分かるんですけどねえ」
彼はそう言って苦笑する。侍だって言うにしたって、どう見てもあの人は明治以後の生まれだと思うんだけど。
「まあ、話しかけられたら適当に話を合わせてあげて下さい。その絵空事に付き合っている限りは、ちゃんと論理的思考が出来るみたいですから」
言うだけ言って、彼は誰かに呼ばれて去って行った。
僕はしばし立ち尽くしてから、やがてゆっくり件の男性に近付いた。
禿げてはいなかったけれど、彼はもう総白髪になっていて、なかなか立派な髭をたくわえていた。木陰でうつらうつらしながら、時折焦点の定まらない目を開けてぼんやりしている。
――ところが、僕の足音に気づいて振り返った途端、その目が見る見る精彩を取り戻したのだ。
「ティニアン! ティニアンじゃないか!」
「――!?」
突然腕をつかまれ、正直言って僕は内心怖くなった。狂った老人の怪力に腕をへし折られるんじゃないかとさえ思えた。
「人違いです、僕はその何とかって人じゃありません」
慌てて言った声が上ずった。もし彼が本当に狂ってしまったのなら?
しかしその危惧は無用だった。彼はハッとして手を離し、ゆっくり首を振った。
「……そうだな、彼がいる筈がないんだ。すまなかったね、君」
そのしっかりした口調に、僕は二度驚かされた。惚けているなんて言われていたけれど、まるでそうとは思えない。僕はちょっと腕をさすって、大丈夫と笑みを浮かべて見せた。
「そんなに僕はあなたのその友達に似てるんですか? あ、隣、座ってもいいですか」
彼が頷いたので、僕は草の上に腰を下ろした。確かに僕は生粋の大和民族って顔をしているわけではないけど、カタカナ名前の人と似ているほどとは思えない。
「ティニアンだ。そうだな、よく見るとあまり似ていないかもな。だが面影がある。私はレドニクと言って、ロカンドの騎士だった。君は? 何という名前なのかね」
彼、自称レドニクの喋り方はいささか芝居がかっている様にも感じられたが、気にしないことにして答えた。
「榊芳雄です。ヨシオ=サカキ」
「ヨシ……ヨシュア?」
「それでもいいですよ。呼びやすい様に」
「ふむ。かたじけない」
「ロカンドの騎士だった、っておっしゃいましたね。ロカンドってどんな所ですか」
僕が問うと、彼は少し悪戯っぽく笑った。
「年寄りの延々たる昔話に付き合う覚悟なくして、迂闊にその様な質問をするものではないぞ、ヨシュア。覚悟があるのなら、いくらでも話して進ぜるがね」
慌てて僕はバスの時刻表を取り出し、最終の便が六時半なのを確かめてから言った。
「六時までに解放して頂けるなら、ぜひ聞かせて欲しいです」
「そうかね、それでは……」
私は元々高貴な生まれではなかった。狩人の息子で学もなく、ただ獣を狩り、さばいて保蔵処理する技術を持つだけだった。
それが、あれはまだ十四歳ぐらいの頃だったと思うが、たまたま高貴な方々の狩猟場の近くに行った時に、一人の貴人をお助けすることがあってな。
その方は獣にではなく、人間に襲われていた。人相の悪いのが数人掛かりであったから、どちらを助けるべきかはすぐに判断出来たな。結局それが正解で、なんとお命を救った方というのが国王陛下だったのだ。
「余の命を救った褒賞に何を望むか」
とまあ、豪気にも陛下は尋ねられた。こちらは平民なのだからして、適当に金貨なり銀貨なりの袋を放って寄越せばすみそうなものなのだが、あの方はそうはなさらなんだ。
そこで私は、騎士にして欲しいと頼んだのだよ。無論、騎士というものに漠然と憧れていただけであったから、それが無謀な願いとは考えもせずにな。
だが陛下は叶えて下さった。まず従士から修行を積んで、後には国王の騎士となるが良い、と笑って仰せられたのだ。
まあ、どの程度本気でいらしたのやら分からぬが、当時の私にとっては大いに励みになったよ。
国王陛下の騎士であった名家に従士として入れて頂き、そこで私は修行を積んだ。宮廷の作法や騎士としての規律など、辛いことも多かったが、投げ出す気になど全くならなかった。私にはひとつの夢があったからね。
いつか立派な騎士となって、あの気前の良い国王陛下をお守りする立場に、と、それだけを考えていたものだ。
だが生憎とその夢は叶わなかった……
結局その日は、何故その夢が叶わなかったのかを聞く時間がなくて、僕はバスに飛び乗って帰る事になった。
どうも彼の話によればロカンドと言うのは欧州の何処かの国に似ている様だ。森と湖に恵まれた、やや冷涼な気候の。
でも勿論、調べたところでそんな国はなかったし、似た名前を探してもみたけれど、彼の言う様な条件のあてはまる場所も時代もなかった。
しばらく寒い日が続いてから小春日和が訪れた時、僕はまたあの療養所に行った。今度は単にあの老人に会う為だけにだったけど、ちょうどそこは景色も良くて気分転換になるから、苦には思わなかった。
紅葉はもうほとんど散ってしまっていて、木々は寒々としていたけれど、それでも日なたにいるとぽかぽか暖かい。
彼は前回と同じ場所にいたが、今度はそばに老婦人がいて、のどかにお茶をすすっているところだった。
邪魔かな、と思って僕はためらっていたけれど、彼は目ざとく僕を見つけた。
「ティニアン……ではなかったな、ヨシュア! いい所に来た、君も一緒にどうかね。こちらのご婦人が差し入れを下さったのだよ」
誰なんだろう? 僕は怪訝に思いながらも、ちょっとその婦人に会釈して、彼女の隣、彼の正面に腰を下ろした。
「はじめまして。榊芳雄です」
「ご丁寧に。長野たけ、と申します」
そう言って会釈した婦人の顔は、なんだか寂しい。もしかして、と僕はささやいた。
「奥さんですか?」
たけさんは、黙って小さく頷いた。
「時にヨシュア、今日は何か用事があって来たのかね?」
そんな様子には気付かず、彼は朗らかに言う。僕は彼の調子に合わせて笑顔になった。
「あなたのお話を聞きに来たんですよ。従士になって、それからどうしたんですか?」
「おや、覚えていたのかね。年寄りの昔話など、もう退屈したかと思ったが。よろしい、折角足を運んでくれたのだから、話してあげようかね」
どこまで話したかな。そう、陛下の騎士の下で従士として修行を積んでいたところまでだったな。私が騎士になる前に、反乱が起こったのだよ。
まだ私は政治には疎かったが、それでも反逆者が不当に王の地位を要求したことは分かった。だがどうすることも出来んでな。
幼い王子殿下をお守りして、城から逃げ出すのがやっとだった。
陛下は城に踏みとどまって戦われ……二度とお会いすることはなかった。敗走の途中で私が仕えていた騎士も殺され、ようやく信頼できる伯爵の領地に入った時には、王子殿下をお守りしているのは私とあと数人の従士や馬丁だけという有り様だった。
そんな時に、伯爵の下で従士を務めていたティニアンと出会ったのだよ。
彼は私と違って元から高貴な生まれだったが、少しも高慢なところはなくて、むしろ実直で謹厳な性質だった。私はよく彼の真面目さをからかったものだよ。
私達はそこで数年を過ごした。その間に私とティニアンは、様々な出来事を通して親友になった。彼は端正な顔立ちで気品があったから、娘達にも人気があってね。時々それが原因で喧嘩もしたのだが……。
王子殿下が十六になられた時に、我々は反逆者から玉座を取り返すべく兵を挙げた。実際それは長い戦いになったよ。その途中で私もティニアンも騎士に叙せられたのだ。
反逆者に味方する貴族を、或いは改心させ或いは倒して、少しずつ国土を取り返していった。王子殿下は先の国王陛下に比べるとなんとも頼りないお方だったが、しかし偉大な国王にはなれずとも、愛される国王になる素質はお持ちだった。
当時の僭王が横暴であるのに比べれば、頼りなくとも王子殿下の方がマシというのが本音でもあったのだがな。おっと、こんな事を言うからとて、私の忠誠を疑って貰っては困るぞ。ティニアン共々、最後まで殿下をお助けしたのだからね。
我々はロカンドを取り返し、殿下を王位に即けてからも、その下で騎士としての務めを果たしたのだよ……。
彼はロカンドという国の素晴らしさを語っている途中で、うつらうつらし始めた。
僕は、たけさんと一緒に彼を支えて療養所の部屋に連れ戻し、ベッドに寝かせた。たけさんに向かって「かたじけない」などと言う様子は、本当に他人としてしか認識していない人のそれで、たけさんはとても寂しそうだった。
「前にも、主人の話す絵空事に付き合って下さったんですってね」
療養所の食堂で、僕はたけさんと少し話をした。彼女は、ありがとうございます、と頭を下げて、目頭を押さえた。
僕はなんともいたたまれなくて、
「いいえ……そんな、僕は」
などと曖昧な答えをするしかなかった。
「あの人ね、とても嬉しそうに言ったんですよ。昔の友達に似た若い方が、自分の昔話を聞いてくれたんだ、って。わたくし、ロカンドとかいう国が何処にあるのかも存じませんけれど、あの人の心はそこに行ってしまったままですの。ほとんど毎日の様にここに通っておりますのに、わたくしの事は顔も名前も覚えていないんですのよ。あなた様の事は覚えていますのにね。きっとその友達に似ていらっしゃるからでしょうけれど」
何が悪いのか分からないけれど、なんとなく僕は、すみません、とつぶやいた。
たけさんのつらい思いも考えず、無神経に彼の――騎士レドニクの昔話を聞きに来たことが、ひどい罪悪の気がして。
たけさんは、涙目で微苦笑を浮かべた。
「いいえ。あの人の心があちらに行ってしまったのなら、仕方ありませんものね。少しでもあの人が楽しく過ごせるなら、今まで苦労してきたんですもの、それが好いんですわ。榊さんておっしゃいましたかしら、よろしければこれからも、あの人の話を聞きに来て下さいましな」
「ええ、あの……長野さんがそうおっしゃって下さるんなら……」
「是非、そうして下さいまし。わたくしも、お茶菓子など用意して参りますから」
僕はそんな約束をすると、一応自分の連絡先をたけさんに教えて、療養所を出た。
最後に、お願いします、と言って頭を下げたたけさんの姿は、バスの窓から見ていたせいか、なんだかとても小さく感じられた。
数日後には急に寒くなって、雪がちらついた。僕は家で火鉢にあたりながら、ぼんやり本など読んでいた。
「榊君、電話だよ」
大家さんが呼んだ。誰からだろう? 友人からかかってくる予定はないし。
訝りながら電話を取ると、たけさんからだった。ひどく切迫した声が、
「あの人がいなくなったんです」
と告げた。僕は一瞬、頭の中が真っ白になってしまった。一息置いてから、僕は慌てて聞き返した。
「何ですって? いなくなったって?」
「あの人が療養所にいないんです。所員さんが目を離している間に、何処か外に出て行ってしまったらしくて、探しましたのに見つからないんです……!」
「分かりました、すぐ行きます」
僕は慌てて寒空の下、外套を羽織って飛び出した。バスが来るのを待つのももどかしくて、僕は片道歩いて一時間の道程を走りだした。こんな寒い日に、何処か外で倒れたりしたら……。
冗談じゃない、僕はまだ彼の話を最後まで聞いてないし、たけさんはレドニクから元のあの人に戻って貰ってないんだ。
療養所までの道がひどく遠く感じられた。でも結局、それが正しい選択だった。
途中の海岸で、彼が倒れていたのだ。その背中にうっすらと雪が積もっている。
「しっかりして下さい、長野さん……レドニクさん!」
抱き起こして揺さぶると、彼は呻いて少し目を開いた。
「ティ……ニアン……すまん、許してくれ」
「? 僕が分かりますか、芳雄です、ヨシュアですよ」
言ったものの、彼には聞こえていないみたいだった。かすれた声で、彼はつぶやく。
「許してくれ……私は、おまえを殺すつもりじゃなかったんだ……ただ……妻が、子が、大事だった……許してくれ」
今の彼には、もうロカンドの様子しか見えていないんじゃないだろうか。ここは彼の国で、彼は、どうしてだか知らないが親友ティニアンを裏切って、彼を死に追いやった罪の意識に苛まれていて……
「分かってるよ、レドニク。君は悪くない」
一か八か、僕はそう言った。彼は目を見開き、僕をまじまじとみつめる。目を逸らしたら嘘だとばれそうで、僕はなんとか彼を直視したまま、笑って見せた。
「……ティニアン、許してくれるのか……私を……ああ、信じてくれ、本当に私は」
「信じてるよ。僕らは親友じゃないか」
励ます様に言った僕の言葉に、彼は満足げにほほ笑む。そして、そのまま目を閉じてしまった。
ちょうどそこにバスが通りかかった。僕は慌てて道に飛び出して両手を振り、バスを止めて貰って彼を担いで乗り込んだ。
療養所に着くと、たけさんが所員の人達と一緒に駆け寄って来て、泣きついた。
「まだ死んだわけじゃありません、泣くのは早いです」
僕は言って、所員の人に彼を預けた。応急処置はここでもできるが、後でちゃんとした病院に移すかも知れない、ということだったが、とりあえず命は助かる様だった。
僕はたけさんと一緒にしばらく彼に付き添っていたけど、彼の意識はなかなか戻らなかった。夜が更けると、たけさんは一日中捜し回ったせいで疲れたらしく、座ったままうとうとし始めた。
「長野さん、宿直室で寝かせて貰った方がいいですよ。あなたの方が病気になっちゃ、仕方ないでしょう。ここは僕が看ていますから、今日はもうお休みになって下さい」
僕が言うと、たけさんは、申し訳なさそうだったがおとなしく出て行った。
そうしてしばらく経った頃、彼がふと目を覚ました。ぜいぜいと喘ぐ様な息をしていたが、彼は苦しみを声に出さなかった。
「ありがとう、ティニアン……昔から、おまえはそうだったな。もうじき私もそこに行くよ……だから、またおまえと轡を並べて走らせてくれよ……」
「…………」
僕はただ、黙って頷いた。何と答えたらいいのか、分からなくて。
偽善者、という言葉が脳裏をかすめた。
けれどもし、ティニアンと言う人が本当に真面目で誠実な親友だったなら、きっと彼を許すだろう。許すもなにも、人を裁くのは神のみがなし得ることだ、とか何とか言って。
そんな気がしたから、僕は確信を込めてにこりとし、もう一度深く頷いて彼の手を握った。年老い、痩せて骨張った手。なのに、僕には不思議とそれが逞しい青年のものの様に感じられた。
彼は僕を見て、手に力を込めた。仄かな月明かりの下で見る限り、その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
失踪騒ぎの翌日には、僕は家に帰った。彼はまた意識が朦朧とした状態に戻り、ちゃんとした病院に移されるまでの間、僕のことも分からなくなっていたし、病院にまで付き添うには、僕は部外者だと思ったから。
病院に行く車は、彼の息子のものだった。結構、高そうな車だった。案外彼は資産家だったのかも知れない。
やがて季節が移り、春になる頃には、僕はもう彼の事を半ば忘れかけていた。
梅が散って桜がほころび始めた頃、一通の葉書が届いた。差出人は、長野たけ、と記されていた。彼が退院して自宅に戻れる様になったらしい。自宅の住所と簡単な地図があって、是非一度おいで下さい、とあった。
ちょうど天気も良かったし、その近くまで行く用事があったので、退院祝いに菓子折りを買って出かけた。
彼の家は予想通り大きかったが、庭の回りの垣根は低めで、枝折戸なんかがあって風流な造りだった。正面の門から入るのがためらわれ、僕は枝折戸の所から中をうかがった。
「君、もしかして榊芳雄君かい?」
聞き覚えのある声がして、僕はぎょっとした。見ると、枝折戸のすぐそばの木陰に、彼がいたのだ。だが、どうも受ける印象が他人の様に思われた。入院していたせいなのか、それとも記憶が曖昧なせいなのか……?
「あ、えと……そうです、こんにちは。退院おめでとうございます」
「ありがとう。こちらこそ、療養中も何かと世話になったそうですね、家内から聞きましたよ。さ、そんな所に立ってないで、お入りなさい」
「え……? あの、奥さん、分かる様になったんですか?」
僕は何故とはなしに愕然として、立ち尽くした。彼はにこにこしながら答える。
「おかげさまで、不思議とすっかり調子が良くなりましてね。その代わりに療養所でのことは、ほとんど忘れてしまったんですが。まあ、とにかくお入り。中でゆっくり話を……」
「すみません、僕ちょっと用事があって。近くまで来たから立ち寄ったんですけど、ゆっくりしてられないんで……あ、これ、食べて下さい。また今度、機会があればお邪魔しますから。本当にすみません」
僕は早口でそう言い訳して、そそくさとその場を離れた。
本当に、何故だか分からなかった。ただ、もう彼は『彼』じゃないという事が、そしてもはや『彼』は何処にも存在しないんだという事が、僕をそこから逃げ出させたのだ。
やはりレドニクは、死んでしまった。
きっと今頃、天国でティニアンと一緒に馬を走らせたりしているんだろう。
そう思うと少し気は軽くなる。そしてその代わりに、僕の中から枝折戸のそばにいた老人の記憶がきれいに流されて行った。
――結局、もう一度僕があの家を訪ねることはなかった。たけさんからその後も何通か葉書は届いたけれど、それもやがて途絶え、僕も就職のために上京して、長野夫妻と僕とをつなぐものは何もなくなってしまった。
ただ、ロカンドという幻の国の話と、そこに生きた騎士の不完全な物語だけが、いつまでも、少し色褪せた懐かしい残像として、記憶に残っていた。
(完)




