【コラボ侍】ざこのうた
せわしなく吐き出される熱い呼吸は、いつまでも冷める気配を見せなかった。
まるで、肺が燃えちまっているように、必死で酸素を求め、胸にこもる熱気を外に逃がそうとしている。
視界には、空しかない。
灰色で、重苦しく俺たちに覆いかぶさっている。
背中に湿った土を感じながら、俺は寒々とした荒野に身体を投げ出していた。
もう、動けそうにない。
激しく上下する胸が、地表でなすすべなく呼吸を続ける魚のようで、自分でも可笑しくなってきた。
――結局、俺たちは雑魚ってわけだ。
「ひ、緋狐ぉ……」
サラサラと耳をくすぐる野芝のむこうから、声が這ってきた。
そいつは、少し離れたところで大の字に伸びている化け狸、狸休の肺から絞り出された声だ。
ふいごのようになった俺の肺とは違って、やつの肺は、ドロドロの何かに絡め取られたように、ぜいぜいと重く上下している。
やつも、たぶん、動けない。
「あ」
俺はどうにか答えた。
思った以上に掠れた声は、灰色の空に吸われていった。
「負けたなぁ」
狸休は、どこか満足そうに言った。
「おう」
あっさりと認めた俺の返事に、ひひひと苦しげに笑う。
「お前で敵わん相手やもんなぁ……俺が敵うわけないやんかぁ……」
「だな」
「ガキのくせに、えらい強いやっちゃ」
「ああ」
相変わらずおしゃべりな野郎だ。
黙っていれば、いつか、傷だって癒えるかもしれないのに。
俺たちを負かした相手のことは、名前も素性も知らなかった。
「殺してもよい相手」だと頭が言ってたから、襲った。
鬼だとか、賊だとか、政府だとか――俺には何のことだかさっぱりわからない。
わかろうとも、思っちゃいないけれども。
「なぁ、緋狐ぉ」
「あまりしゃべるな」
俺は、閉じそうになるまぶたと戦いながら、邪険に言った。
眠い。
このまま眠ったら、傷は治るのか、それとも、一生目覚めなくなっちまうのか、どっちだろうか。
いずれにせよ、口を動かすことすら億劫になってきやがった。
「初めて、会うたときのこと、覚えてる?」
「……だったら何だ」
「懐かしいなぁ」
「もう黙れ。いい加減に――」
「お願いや、緋狐」
俺の言葉を遮ると、狸休は、ドキリとするくらい冷静な声で言った。
「もう、黙ってたかて、助からへんやんか……」
「ばかやろう」
助かるかもしれねぇじゃねぇか。
そう言おうとする俺は、よほど往生際が悪い。
それでも、早々に諦めちまうようなやつよりゃマシだ、と思う。
いつもそうだ、昔から。
「なぁ、黙らんといて、緋狐」
なぁ、なぁとうわごとのように続ける狸休は、甘えるような声の裏に、寂しげな震えを隠していた。
「なぁて。お願いやし……独りぼっちは、嫌や……」
「俺、狸休」
毛艶のいいその狸は、左足に鎖が食らいついている事実すら気づいていないような、間抜けな表情で言った。
「そっちは、なんちゅうの?」
野生育ちの俺は、その狸を、人間のガキを見るような目で睨みつけていた。
なんて緊張感のない野郎だ。
俺がこんなふうに目をキラキラさせるのは、事切れた獲物を目の前に、いざ食事を始めんとするときくらいだってのに、この狸ときたら。
「やっと仲間が出来て、うれしいねん」ときた。
「意味わかんねぇな」
と、俺がすげない第一声を放つと、そいつはいっそう嬉しそうだった。
その時の俺が、なぜかほっとしていたのは、四足を束ねて自由を奪っていた縄が解かれたからという、それだけの理由ではなかったのかもしれない。
霧立ちこめる白伏の霊山――。
はじめの悲鳴が上がったとき、俺は一人、河原にいた。
山が雄たけびを上げ、襲ってきたのかと思った。
襲ってきたのは、人間だった。
多くの狐が死に、わずかな狐は逃げ去り。
そして俺だけが、無様にも逃げそびれ、死にそびれた。
――妖狐は高く売れる。
猟師はそういって、俺に縄をかけた。
買われた先は、どこかの街の、どこかの屋敷。
屋敷の主人はよく肥った男だったが、もはや顔も、臭いすらも覚えちゃいない。
閉じ込められた四畳半の先客は、だるまみたいにろころした狸だった。
なんでも狸休というんだと。
「ちょっと前に、引き取られてきたんや。ここに来る前は、呉服問屋で招き猫やっててん」
「はぁ?」
なんで狸のくせに猫やってんだよ。
俺は、お前の過去なんか興味ねぇよ、というように、馬鹿でかいあくびをしてやった。
「くぁー……はいはい。そんで、ごふくどんやってなんだ」
そんな調子で、狸休と話していると、いつもやつのペースに巻き込まれた。
狸休は生まれたときから人間に飼われていて、服や布を売る御店で、草色の座布団に座っていたそうだ。
それで飯が食えるし、寝込みを襲われることもないってんだから、良い御身分じゃねぇか。
「けどな、よぉしてもろた旦さん、亡うなってしもてん。若旦はんは、俺のことそない好きちごてんやろなぁ」
そして、狸休はこの屋敷の主人に譲られた。
それが二日ほど前のこと。
ここの主人は、変わった生き物を集めるのが趣味だというが、それにしても俺とこいつしかいないというのは妙な話だ。
「俺が来てすぐは、ごっつい山猫もおってんで」
今は、主人に連れられてお散歩みたいけどな、と、狸休は暢気に言う。
――なるほどな。
地下壕から血の臭いがぷんぷんしやがる。
この屋敷は、イカれてんだ。
「どうせ、暴れたかて、この鎖ははずせへんで」
俺がいよいよここを出ると言ったとき、狸休は首を振って言った。
「それやったら、大人しゅうして、美味いもん食ってたほうが幸せとちゃう? そもそも飼い主に殺されるやなんて、そんなこと……」
「けっ」
これだから、能天気野郎は。
仲間の血の臭いすら嗅ぎ分けられない、哀れなやつだ。
俺は鎖が許す限り高く跳ね、宙返りをする。
畳を踏んだときには、人間の姿になっていた。
だが、耳と尾――化け損じ。
ちぇっ。
やはり、俺は妖術の才能がないらしい。
だが、この際美しさなんてどうでもいい。
誰かが認めようと、馬鹿にしようと、ようはここから逃げ出しゃいいんだ。
獣用の錠枷が足首に食い込み、皮膚を切って血をにじませたが、俺は鎖の元をたどり、打ち付けられた杭を引き抜いた。
「ここにいたほうが幸せってんなら――」
一生ここにいやがれ。
そう捨て台詞を吐こうと振り返ると、狸休は驚いたように四本足で立ち、口をぽかんとさせて、俺に見入っていた。
さらにいっそう、目を輝かせて。
「すごいやんかぁ!」
「寂しかったんや」
昔を振り返る狸休の声は、独り言のようになっていった。
「生まれたときから、ずぅっと誰かがいてくれたさかい。独りぼっちなんて、耐えられへんねん」
「甘ったれたやつだよ、お前はさ」
俺が思ったことをそのまま口にしても、「そうやで」と、やつは開き直るばかりだ。
「けどなぁ? これでも、強なったんやで」
そうかい。
「あったかい膝とか、やらかい布団とか、失ぉてしもたもんも多いけどなぁ。昔を思たら、未練たらたらやけどなぁ」
俺は思わず、ふっと笑ってしまった。
「まったくだ」
狸休も笑い出した。
二人してひとしきり笑うと、狸休は、止まりかけたオルゴールみたいに、ようやく言った。
「緋狐。お前とおったから、……俺は強ぉなった」
狸休にせがまれ、俺はやつに化け術を教えた。
息の潜め方も、音を立てない歩き方も、敵の急所も。
俺が狸休を強くした、確かにそうかもしれない。
――けれども。
本当に、お前は戦いたかったのか?
強くなりたかったのかよ?
「なぁ狸休。お前、――」
寂しがり屋の狸休は、よくしゃべり、よく笑い、俺の傍らで眠る。
「だって寂しいんやもん」と、口癖のように言い訳をしながら。
俺は、そんな狸休をうるさいやつだと思いながらも、やつとしゃべり、ともに笑い、隣で眠った。
化けるのが下手で、いつも独り河原にいた俺。
変化した姿を水面に映して、人知れず修行を続けた日々。
人間の手を逃れて山に戻り、散り散りになった一族を見つけることが出来なかった、あのときの孤独。
「俺も、寂しかったんだ――」
――ひこ。
――ひこ? へぇ、かっこええ名前やな。どんな漢字?
――知るかよ。……ただ、こう言ってた。“狐にあらず”……そんな意味があるんだとよ。
――狐に非ず? 狐やのに、そらおかしいなぁ。
――だぁら、俺が知るかよ!
――お前、字書けるのか?
――ふはひ、ほひえへもーはんは。
――あ?
――ほれ、見てみ見てみ。非狐。これがお前の漢字や。
――ふぅん。
――でも、お前は狐やし、こら間違ってるさかい……ほは、ほへへひぃは。
――何だこれ。
――これでも、ちゃあんと“ひこ”て読むんや。こっちのほうが、絶対かっこええ。
たとえもう戻ることが出来なくとも、決して失うことはない。
お前の葉っぱが皮膚を刺すことなく、俺の尻尾が骨を砕くことのなかった、遠い日々。
おわり