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よあけ  作者: 紙仲てとら


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第29話

 1月中旬。タビトとチカルが出会ってから1か月以上が経過した。

 これまでにふたりは何度か顔を合わせているが、タビトは未だチカルとのコミュニケーションに関して悩んでいた。前回はすこし落ち着いた気持ちで話ができたように思うが、ぎこちない態度になってしまうのは相変わらずだ。笑顔と愛嬌で相手を魅了することを生業としているのに情けない……これ以上の醜態を晒してはアイドルの沽券にかかわる。

 対面では思うように振る舞えない彼だったが、その一方――作業報告書のメッセージ欄を使ったやり取りはまるで旧来の友人のような親密さで続いていた。

 好きな本、音楽や趣味、出先で目にした美しい景色の話。見えない相手を思って書き連ねている瞬間だけは、辛い出来事を忘れることができる。紙面ではこんなにも心を許し饒舌になれるのに、いざ目の前にするとあがってしまうのは一体なぜなのだろう。

 言葉を多く連ねるタビトに対して、チカルの返事は短い。そしていつも堅苦しい文面だ。それでも彼女からのメッセージは大きな喜びだった。堅苦しさの裏に見え隠れする気遣いが心地よく、なによりあのころころした文字を見ると心が和む。

 また、彼女とはスマホでショートメッセージのやり取りもしていた。電話番号を知っていれば送ることができるもので、ちょっとした用事を頼んだりするときに利用している。

 このツールでのやり取りに関しては……苦い思い出がある。

 昨年の年末。チカルが担当として部屋に来るようになったばかりのことだ。

『電子レンジの中に卵が入っていたのですが、いかがいたしましょうか』

 彼女から送られてきたこのメッセージを読んだとき、楽屋で思わず声が出た。

 事の顛末はこうだ。

 電子レンジでゆで卵が作れる――しかも一度に4個も――という便利グッズ「エッグクッカー」なるものを手に入れて、翌朝の分を前日の夜に作った。レンジの扉を開けて無事できたらしいのを確認し、冷めてから冷蔵庫にしまおうと思ってそのまま忘れてしまったのだ。せめてレンジから出して冷ませばよかったものを!

 しかもその翌朝、レンジの中に置き去りにされた卵に気づくことなく……いつも通りに鍋でゆで卵を作って食べた。あまりにも間抜けすぎる――

 昨日は仕事の関係で都内のホテルに宿泊し一日留守にしていたため、作ったのはおとといの朝。冬とはいえ食すのは危険だ。廃棄するしかないだろう。

 チカルに捨てさせるのは忍びない……恥ずかしくて顔から火が出そうになりながら、レンジに入れたままにしておいてほしいと返信した。庫外に出したら掃除の邪魔になるだろうし、かといって冷蔵庫になど入れたら誤って食べてしまいそうな気がしたのである。

 なにしろ完成したものをレンジに一晩放置し、翌朝になっても思い出すことなく鍋で新たに作るなんてことをやらかしたのだ。そこまでボケ散らかすくらい疲れているということは、誤食だってあり得る。

 家に帰ってレンジを開けると、エッグクッカーの上にメモ用紙が乗っていた。そこには『差し出がましいことを申しますが、ゆで卵は常温保存に向かないかと存じます。お召し上がりの際は十分お気を付けください』と書いてある。

 要するに“場合によっちゃ腹壊すぞ”という警告だ。スケジュールを見て今朝作ったものではないと知ったのか、心配させてしまったらしい。

 恥こそかいたものの、こういった状況での気遣いが好感に繋がりチカルへの信頼を生んだのは確かだ。彼女はお世辞にも明るいとは言えない。だが、彼女の仕事に対する取り組みや言動をみれば信頼に値する人間だとわかる。おごそかで堂々としているためとっつきにくいが、警戒するような存在ではない。

 チカルのことになると顔を赤くしたり青くしたり忙しいがしかし、最近はそういった瞬間も楽しくなってきた。もっと彼女のことを知りたいと思うのは、純粋な興味からか?それともなにか別の感情が、好奇心を誘発しているのだろうか?

 ――すこしずつ輪郭を成すチカルへの想い。初めて感じる甘い胸の痛みと熱にすっかりのぼせた彼は、昨晩から浮かれており足が地に着いていない。彼女に会える今日が楽しみすぎて、ベッドに入ってもなかなか眠れず……完全に寝不足だ。まるで遠足前夜の子どもである。

 彼はいま改めて思う――時間というのはなぜ、意識していると進みが遅いのか。ゆっくり昼食を摂り、片付けを終えてもまだチカルが来る時間にならない。手持無沙汰でスマホを見れば、会社やメンバーから大量のメッセージが届いていた。どうやら来週の仕事も延期されることになったらしい。ヤヒロが不満を垂れ流している。

 事務所が労働基準法に引っ掛かり、是正勧告を受けたためマネージャーらの仕事が調整され、今週の仕事が数件、来月や再来月に持ち越しになった。予定は狂ったが、仕事が潰れるのを避けられたことは幸いである。

 当初の予定では、今日は朝から仕事のはずだった。留守のはずの家主がいればチカルは驚くに違いない。会社の事情で予定が大幅に変更されることを伝えたのかどうかを聞こうとホズミに電話をしたが、出なかった。

 彼にメッセージを送るとすぐに既読になり、話し合いの最中で電話に出られなかったこととそれに対する謝罪、家事代行サービス会社であるサフェードを通じてチカルに伝えておくという旨の文章が送られてきた。めずらしく文章内に誤字が散見される。各企業への謝罪行脚や予定の調整に忙しくしているのだろう。

 ああ、落ち着かない――タビトはうろうろとクマのように歩き回った。アイドルになど微塵の興味もないと思われる相手になにを意識することがあるのかと、自分でもあきれてしまう。

 思わず溜息をついたそのとき玄関ドアの施錠を解く金属音がかすかに耳に届いた。

 反射的に壁の時計を仰ぎ見れば、針がいよいよ14時を指そうとしている。抱えていたクッションを放り投げると、リビングのドアを開け放ってチカルを待った。

 予想していたとおり、彼女はタビトの姿を見ると驚いたように細い目を丸くする。それからわずかに眉根を寄せた。

「お体の具合が?」

 心配する声を受け、タビトは不自然なほど元気に答える。

「違うんです。急に休みになって……」声が裏返りそうになりながら続ける。「驚かせてしまってごめんなさい」

 彼は自身の緊張を感じ取り、更に動揺した。不快な汗が滲む手を握り込んで、荷物を下ろしているチカルを見つめる。胸元に手を当てずとも、鼓動がはっきりと感じられた。全身が心臓にでもなったかのようだ。

「怪我やご病気でないならよかったです」

 チカルは言って表情を緩める。

 短く答えたきりで沈黙しているチカルに眼差しが吸い寄せられ、彼はまじまじとその姿を見つめた。

 小さな薄桃色の唇。表情のない冷たい横顔。きつくひとつに結んだ黒髪のなかに、白髪が一本きらりと光っている。ふちだけほんのりと色づいた白い耳朶のピアスホールはもう縫い針の先ほどのサイズで、ほとんど埋まりかけているように見える。

 もっと声が聞きたい――狂おしい思いに駆られたタビトは、洗面台で手を洗っているチカルの背中に話しかける。

「あの、……那南城さんが前におすすめしてくれた映画、全部観ました」

 おもむろに顔をあげたチカルが、鏡のなかでわずかに目を瞠る。

「連休中に観ようと思ってたんですけど……我慢できなくて。どの映画もおもしろくて大満足でした」

「楽しんでいただけたようで何よりです」

「特に、老姉妹に仕えるメイドが主人公の作品……雰囲気もストーリーもすごくよくて、お気に入りの一本になりました。ああいう作品はなじみがなかったんで、観るきっかけをもらえてありがたかったです」

「あの映画は私も大好きなんです。気に入ってもらえて嬉しい……」

「いろんなジャンルを知ってるんですね。映画鑑賞が趣味なんですか?」

「趣味と言えるほどでは……」

 会話はすぐに途切れてしまう。心臓がうるさく鳴るのを無視して、彼はいつもの自分を演じようと必死になる。

「――そういえば……前に描いてくれたあの猫のイラスト、印象的でした。なんていうかその……味があって」

「猫?」

 タオルで手を拭きつつわずかに小首を傾げるのを見たタビトは、その反応が示すものを察して硬い声で訊ねた。

「――猫……じゃない?もしかして」

 次の瞬間。

 あ、とチカルが丸く口を開ける。いつだったか作業報告書のメッセージ欄に描いたクマのイラストのことを言われているのだ――

 彼女はとっさに答えた。

「猫です」

「いや、あのっ……ごめんなさい!勘違いしちゃって……」

 慌てるタビトを前に、彼女は眉一つ動かさずに言う。

「謝らないでください。私の方こそすみません」

「ほんとにごめんなさい!俺――」

 言いかけたが、なにを口にしても言い訳でしかない。この状況を良い方に向かわせることはできないと気づいて、言葉を奥で詰まらせたまま唇を結んだ。

「お気になさらず」

 彼女は軽く一礼し、空っぽの洗濯カゴを抱えるとタビトの横を足早にすり抜け、ドライルームに消える。チカルの背中を唖然として見送ることしかできないタビトを、リビングに置きっぱなしのスマホが呼んでいた。

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