09
「この世界に、好きな人が居るんです」
召喚魔法の術式は、召喚対象の意思を無視する。
けれど送還魔法の術式はその反動であるかのように、送還対象の意思に大きく影響される。
送還される本人に、元の場所に帰ろうという強い意思がなければ、術式は失敗するどころか、暴走してもおかしくはない。
「好きな人が、できたから。彼とは離れたくないから。だから、帰りたくなくて」
背もたれのある椅子に座っていたのは、せめてもの幸いだった。
裏切られたような、見捨てられたような、その感情は突然彼女に覆いかぶさってきた。
まるで体の感覚が、徐々に自分の手から離れていくような錯覚に囚われる。
「なん、」
で。どうして。
咄嗟に口から零れた音すら、うまく繋がらない。
「わがままだっていうのはわかってる。私の送還の為に、色んな人が頑張ってくれてるって。この世界には嫌なことだってあるのも知ってます」
ナツもまた、膝の上で握りしめた両手を見下ろしている。けれど彼女の瞳にはカヤと違って、強い意志が垣間見えた。
それでも、と。ナツは繰り返し続けた。
呆然と、いつの間にか体を椅子に預けていたカヤは、泣きそうな貌でその言葉を聞いていた。
放っておけば空白に染め上げられそうな意識を揺り起こしたのは、カヤの捨てきれない希望、だったのかもしれない。
その時かたりと、部屋の隅から聞こえた物音に反応することも無意識に後回しにして、カヤは二人の間に横たわる沈黙を破った。
「それで、いいの?」
多分、物音や気配には気づいていたけれど、カヤはそれに反応するという行為に、価値を見いだせなかったのだと思う。
「それで本当にいいの? 後悔しないの? だって、戻れない、よ」
一度、ナツが帰らないなどと公言してしまえば、もしかしたら彼女は二度と故郷へ戻れないかもしれない。
今の時代では、貴重な貴重な《翼》だ。富を、栄光を、繁栄を齎す事を望み、彼女を手中に収めたがっている権力者は多い。
それを今まで退けてこられたのは召喚主ウィルトラウトの地位と権力と血筋故であるし、彼がそうしてきたのはナツ本人の希望を尊重して、というのが一番の理由だ。
そう公表されている以上、その前提が崩れてしまえば、後にナツがやはり帰りたいと望んでも、その機会は訪れないかもしれない。
「うん」
震える声で尋ねたカヤへの返答は。
「それでも、私、ウィル……ううん、ウィルトラウトの、側に居たいから。元の世界には帰らない。帰ったりなんか、しない」
しっかりとカヤへ視線を射てきたナツの、どこか甘やかな声音で告げられた。
「だから私、これからもこのままこの世界で、」
「何、それ」
夢見るように続けられた言葉は、けれどそこで遮られたけれど。
いつの間にか開かれていた中庭へ続く扉を閉めることもせずに、ティーリは室内へ入ってきた。まだまだ冷たい空気が、彼の後を追って入り込む。
先ほどの物音は、どうやら彼が扉を開けた音だったようだ。
それは鋭い物だったけれど、重苦しい虚無感の中で、カヤは聞きなれた声に僅かな安堵を覚えた。
「あ、ティーリさん、あの」
「なんで――今更、そんなこと」
再びナツの言葉を遮って、扉を開け放ったままこちらへ向かってくるティーリの声音は固い。
彼の金茶の瞳に感情は映っておらず、更に言うならまるで無機質な仮面でも被っているかのように、その貌にもまた表情は宿っていなかった。
「帰らない、とか、ほんとうに?」
しかし繰り返した声や口調は焦りの色を示している。同時にそれは何かを恐れるように。
カヤは自分が座る椅子の横まで歩いてきたティーリに、不安そうに視線を遣った。
「ごめんなさい。私の為に、研究頑張ってくれてたのに」
ナツはナツで魔術師に対して気後れでも感じているのか、僅かに彼から目線を外して答える。
「でも好きなんです。ウィル様の事。私、彼と離れたくない。だからもう、送還の魔法も研究しなくていいです」
それを、ティーリに言うのか。
カヤが反射的に傍らの魔術師を見上げれば、一瞬その顔が歪んだように見えた。
「本当はもっと早く私が決意して、言いだしてなきゃいけなかった。でももう少ししたら、魔術師の皆さんにもきちんと言おうと思っていました」
彼の方を見はせずに、しかしその瞳には強い光を宿して言い切るナツは、きっとその事に気づいていない。
ティーリを案ずる思いからか、それともこちらが縋っているのか。カヤは魔術師から視線をそらすことができなかった。
けれど見上げる彼の横顔は、ひんやりと固い。見ているこちらが、痛みを感じるほどに。
「――そう」
「ティーリ」
カヤが思わず従兄を呼んだのと、彼が吐き出すように言ったのはほぼ同時だった。
僅かに、時間が淀む。
誰も動かなかった。しんと、数瞬の静寂が横たわった。
幾拍かの後に、ティーリは「引き上げる準備、しておいて」と、肘掛けの上のカヤの指に一瞬だけ、かすめるように軽く手を添えて言った。
先ほど咄嗟に立ち上がろうと腰を浮かせかけた彼女を気遣うように。何かを諦めるかのように。
「帰る意思が無い、なら。今用意している実験用の術式も材料も全部無駄になる。外の皆さんには、準備を中止するよう伝えておきます。こちらにいらっしゃり次第、殿下にも」
それだけ言い切ると、彼はくるりと踵を返して早足で中庭へ向かい歩きだした。離された腕にカヤは自然と、座ったまま視線だけでその背中を追う。
凍りかけていた思考はゆっくりと動きを取り戻してきてはいるが、まだ多くを考えられるほど完全ではなかった。
「あ、待って! でも私、ウィル様には後でゆっくり、自分の口から」
ナツが慌てて立ち上がるが、ティーリが振り返る事はない。
彼女が「だからまだ他の人には」などと、咄嗟に止めようと伸ばす腕を振り払い、魔術師は研究室の扉を開く。そして実験の準備を続ける同僚の元へ、躊躇いもなく言葉を告げにいった。
研究室に残されたのは、閉められた扉に立ち止まったナツと、そしてカヤだけ。
しばしの間、彼女はその場にぽつりと立っていた。カヤも気まずく思いながらも動けずにいた。
かろうじて、どこか歪に穏やかさを保っていた水面に、投じられた現実。一投は波紋を生み、告げられた言葉は本人の意図しないところで鋭さを持った。
自分の動揺、きっぱりとした否定、垣間見たティーリの横顔。
きっと『最初に示された通りの道筋』でなんてもう進んでは行かないであろう事を、カヤは続けざまに直面したそれらから、緩慢に受け取った。
しんと止まった空気の中で、落胆が重く彼女にのしかかる。
だって、カヤと違って帰る事が出来る彼女は、帰りなんかしないと言い切った。そしてティーリにもう送還魔法の研究をしなくてもいい、とも。その二つの言葉が、心に鈍痛を感じさせる。
ただ、くやしかった。
軽やかに吐かれた彼女の言葉は、いつか追いかけた夢を、無意識ながらも切り捨てた。
「どうしよう……」
立ち尽くしたままのナツが泣きそうになりながら呟いた声に、カヤは肘掛けの上に置いたままの手に僅かに力を込めた。
軽くうつむいたままではあったが、そのままのろのろと立ち上がる。帰り支度を始めなければならない。
傍らに畳んで置いていたコートを手に取ると、それを視界の端で目にしたナツは、慌ててカヤの方を振り返った。
「私、ファーレンさんの事怒らせちゃった、けど。でも私の決めたこと、間違ってないですよね?」
焦ったように彼女は繰り返す。その声音はどこか気まずげではあるが、同時にそれを肯定か、それとも共感でもすることを望んでいるように聞こえた。
腕にコートを抱えたまま、カヤは無理やりに、口元にぎこちない笑みを浮かべた。
「ごめんね」
ずるいと、衝動的に心中に渦巻く感情をぶつけないように、言葉を選んで口にする。
同時にそれを察してほしくはなかったから、表情も取り繕った。
「私にはわからない」
知っているわけ、ないじゃないか。だってそんな可能性なんて、カヤは初めから持っていない。なら考えられるわけがなかった。自分を、彼ら一族を、そして彼を思うなら。
カヤはそれだけきっぱりと言うと、ナツから逃げるようにして、手早くその場でコートを羽織る。そして室内の一角に置いてある自分やティーリの手荷物を取ろうと、彼女はナツに背を向けた。
またここで一区切りです。
次の話から地の文ばかりだったりとか、さほど進展が無い文章がまるまる一章分ほど続いていく予定です。
ますます人を選ぶ気がしますが、書いてる自分が楽しければいいかなと思って書いてるので仕方ない。
次の章が終われば一応話の折り返し地点です。が、その次の章がやたらと長くなりそう。