08
それは予兆でもあったのかもしれないと。気付いたのは、本当に後になってから。
回廊を挟んで垣間見るウィルトラウトと、その半歩後を行くナツの姿だとか。
カヤとの会話で王弟の話題が出る度、ナツが嬉しそうに笑む様だとか。
確かに、移り変わる日常の中に紛れ込むそんな光景に、彼へ向かう彼女の好意を垣間見たこともあった。
しかしその時は、幾つも季節を経るほどの時間を必要とせずに、召喚主に躊躇いなく好意を向ける事、召喚主もまたそれに拒絶を示さないのは、やはり帰る事が出来ると決まっているからだろうかと。深く考えず、苦笑しつつも少し羨ましく思っただけ。
――カヤとティーリは召喚当初から、今のような関係を築けていたわけではない。
季節が移り変わる間を、言葉を交わすこともなく、稀にすれ違っても視線を逸らし。
カヤがユフィアに引き取られたことによって形ばかりの親類となった事実すら、互いに認めようとはしなかった。
そんな風に故意に距離を置いていた相手との間柄が変化し、歩み寄ろうと向き合った切欠となった出来事も、決して喜ばしい物でもなかった。
現在では相手に親愛の情すら持ち、助け合って穏やかに日々を過ごす事もできている。けれどもそこに至るまでの過程は、いたみにまみれていた。
だからナツが誤って召喚されたが帰る事はできると聞かされたあの時に、『その人はあの苦い思いを感じずに済むのか』とほっとしたのだろうと、カヤは思う。
根拠はきっと、ナツはカヤのように『帰れない』故のくるしみは感じずにすむのだろうという、ぼんやりと浮かんだ単純な考え。
だって故郷へ帰る事が出来るという時点で、カヤとナツの将来も、周囲から向けられる視線や感情も異なるのだから。
つまり彼女と関わって最初に感じたのがそんな安堵で、次いでは対面した時の本能的な羨望だった。
ナツはカヤから、何かを奪っていくという事をしなかったのだ。
それに奪うどころか、ある意味ではカヤに与えさえした。
召喚があったからこそ交わしたユフィアとの会話で、気付かされた彼女の甘えと矛盾。
……本当に長い間、被害者だから、加害者だからという言葉と事実を盾に、カヤは彼らから守られるだけの環境を享受してきた。
決して望ましいばかりではない、最初に持ったその関係性に無意識に固執していた。
家族であっても加害者の身内、大切であっても自分を拐した人間、今や故郷と呼ぶべき土地だけれども、それでもそこは無理やりに攫われて連れてこられた場所だから、なんて。
けれど加害者と被害者と言う関係を引きずったままでは、少なくともカヤが互いの間にそんな言葉を構えたままでは、どこまでいっても『本物』にはなれないのだと。朧げならもあの時自覚した。
ナツがこの世界に喚ばれなかったなら、きっと養母とあの会話を交わさずに、カヤはずっと気づかないままだったかもしれない。
とはいっても、今自分から壁を打ち壊し歩み寄ろうとするには、少し勇気が足りないけれど。
それでも得たのは大きな実りだった。
だからこそ、ある種の感謝の念すら浮かんだ相手に、親しみは持ちやすく。
かといってナツが元の世界へ帰る事は、カヤにとって羨ましくさえ思うものであったから、やがて行われる送還をただ寂しいとだけ思いはせず。
それは友人にも近い間柄となっている今も変わらない。
冬の間穏やかに、彼らの時間は流れていった。
まるでその穏やかさと対になるかのように、緩やかに少しずつ、その少女の感情が羽化していくのには、誰も気づかないままだった。
気付かなかったから、誰もがナツという少女はやがて故郷へ帰って行って、そうしてそれぞれに元の日常が戻ってくる――そう思っていた。
「でも、今の私の状況って実は、そんなに悪くはないんじゃないかなって思って」
もうしばらくもすれば年も開けるだろうという冬の最中。
大きく切り取られた窓辺、陽光のあたる場所に設えられた椅子に、ナツとカヤは半ば向かい合わせで座っていた。
その時カヤとナツが居たのは学院の、ウィルトラウトに貸し与えられた研究室だったが、室内には本来の利用者たちの姿は見えない。
ウィルトラウトは公務がある為、今日はまだ学院には来ていなかった。
ティーリと他三人の、研究室に常駐している研究員たちは、先ほどから研究室のすぐ外の中庭で実験の準備に追われている。
送還魔法の術式を、ようやく実験段階まで構築することができたのだ。
カヤはこの朝方、唐突に家に帰ってきたティーリに、
「送還術式の研究、ようやく実験段階までこぎつけたよ」
「術式の実験で、俺が倉庫に貯蔵している鉱石の粉とか、刻印入りの金属片とかが使えそうだから、取りに来た」
「入手手段が限られてるから、新しく手に入れようとすると時間がかかるんだ。ならいっそ提供してしまおうと思って」
「ごめん、なんか実際に荷物にまとめてみたら、一人で運べる重さじゃなかった。……学院まで手押し車で運ぶの、手伝ってもらえたりする?」
などと言う流れで学院まで借り出された。
何でも学院を出てきた時はティーリ自身慌てていたのと、研究室にちょうど手の空いている人間がいなかったので、うっかり重量の目算を誤って一人で取りに戻ってきてしまったらしい。
カヤとしても今日は古書店の定休日であったし、何より最近とみに顔色の悪い――けれど頑なに必要最低限以上の休みを取ろうとしないティーリの事は心配だった。
そういうわけでティーリを手伝って学院まで来て、せっかくだからと早めの昼食を学院の食堂でとったのが半刻ほど前。
その間に今日も今日とて学院に顔を出していたナツに遭遇し、彼女に引きずられるがまま訪った研究室に留まる事となったのは、至極単純な理由だった。
人手不足である。
魔術師たちは陽の上っているうちに、やたらと時間のかかる実験の準備だけは終わらせておきたいようで。
そのためには人手は必要で、ただでさえ人数の少ない研究員たちは、できるなら総出で事に当たりたい。
そうなると研究室は無人になってしまうが、折々に術式の構成をまとめた書類の確認だとか、道具や材料の持ち出しで出入りするため、鍵をかけてしまうのは面倒である。
ならばとばかりに魔術師たちは、送還の当事者であるナツ、そして社会的に信用の高いファーレンの一族の一員であるからという理由でカヤに、形ばかりのいわゆる留守番を任せたのだ。
少々無理があるのではと思ったが、実験を行うのは研究室の大窓に面した中庭だ。
窓の外からも室内の様子はうかがえるし、部屋の扉の前の廊下は人通りも多い。形だけ室内に誰かが居ればそれで良いらしかった。
「私、最初はここでの生活、不便な事も多いなって思ってたんです。元居た世界みたいに、便利な機械や道具なんて全く無くって」
そういうわけで窓辺の椅子に腰かけていたナツは、肘掛けに腕を立ててカヤに言った。
この部屋にいるようにと頼まれてしばらくもたたないうちに、カヤとナツは常のように会話に花を咲かせていた。
室内には不用意に触らない方が良いものも多いし、かと言って他にする事もないのだから。
学院の研究室だというのに、今自分たちが座っている椅子には、ふかふかとした背もたれまでついている。ウィルトラウトの身分に対し、妙な気を利かせた者でもいるのだろうか。
そんな事を考えながら、カヤはナツの話を聞いていた。彼女は自分が積極的に話すことを好む。
「でもそういう不便さって、今までが凄く恵まれてきたから不便に思うんだろうなって思って。最近はここに来た事、何で召喚なんてされちゃったんだろうとか、思わなくなったし」
「そっか。実りがあったなら、よかった」
「はい! 良い事も嬉しい事もいっぱいあったし、逆に前居た世界より楽しいかもしれない」
にこにこと笑うナツに、カヤも何となく嬉しさと悔しさか、それとも羨ましさかが入り混じった感情が浮かぶ。
窓の外に視線をやれば、実験の準備も進んでいるようだった。それはつまり、ナツの送還を執り行える日も――彼女が帰れる日も近いという事。
「ナツさんがそう言うなら、ウィルトラウト殿下も少しはお気持ちが晴れるんじゃないかな」
カヤはそう言ったのは、本当に何気なくだった。
対するナツの反応は、少し頬を染めて「そう、かなあ」なんて嬉しそうに笑むという物。
そこまでは、彼女たちの常の会話とさほど変わりはなかった。
カヤもその反応に少し引っかかるところはあったが、それに特別意識が向くほどでもなく。これといって気にせずに、自分からも新しく会話を繋げようかと口を開きかけた、時だった。
「あの、カヤさん」
「うん?」
ナツが言葉を続けてくる。カヤはいつものように相槌を打ったが、ナツはその後すぐに音を発さずに、間をゆっくりと置いた。
「私、最近思ってる事があって」
たっぷりと時間を待ってから、少女は再び口を開く。
「帰りたい、って、今までは思ってたんです。でも、今は帰りたいとか、思えない」
そうして。
「――え、」
呆然と、軽く瞳を見開いたカヤに、帰る事の出来る少女の差し出した刃は突きつけられた。