05
最近、ティーリが家に帰ってこなくなっていた。
ティーリはカヤを召喚してしまった責任を、多少なりとも取ると言う事で、成人の日からカヤの庇護者を務めている。したがってカヤもティーリの庇護下に在る。
その事もあって二人は、幼い日々を過した魔術師領から王都に越してきて以来、学院街の貸家に同居している。
そこに甘やかな空気は一切無い。しかし幸か不幸か、長い時間を共有していた彼らの間には、ある種の連帯感が有った。人生を狂わせた相手だとしても、憎み疎んじ続ける事は難しい。それに、恨むべきではないとの理解も納得も、カヤだってとうにしていた。
だから、カヤも彼が帰宅しないことを心配した。
行き先は分かっている。今回の事故で特別に王弟ウィルトラウトに割り振られた、学院の研究室だ。
彼は朝も早い内から出かけていって、そのまま真夜中過ぎまで帰ってこない。そして数時間仮眠を取って、また出かけていくのだ。そんな生活を続けていたら、体を壊してしまうのではないか。
そう思ってきていた矢先の事だった。
カヤは先程から少しの荷物を手に、ティーリが籠もっているのであろう研究室を探していた。
事前に事務所に立ち寄って、位置を記したメモは貰っているが、学院は広く入り組んでいる。
幾人かの学生達とすれ違いながらメモに頼って進んでいけば、少し迷いはしたものの、やがてそれらしき一角に辿り着いた。
学院の東の塔、その中庭と通じた一階部分を、どうやらティーリたち送還術式の研究班は使っているらしい。
けれど教えられた部屋の扉には、『許可無き者の入室を禁ず』などと書かれた張り紙がしてあった。
許可無き者、とはどこまでを指すのだろう。
学院の許可? それとも研究者達の許可だろうか。不用意にノックして、研究の邪魔をすると言うのも気が引ける。
「あれ? どちら様?」
しばし迷っていると、不意に後方から声がかかった。
カヤが少し驚いて振り返ると、声の主は首を傾げつつ聞いてくる。
「何か御用ですか?」
黒い瞳に、短い黒い髪。カヤと同じ色を持つ、カヤよりは少し年下の少女だった。
貴族の娘が着るようなゆったりとしたドレスを纏っており、学院の者にはあまり見えない。節制を説く学院の生徒や職員は、例え王族であろうとも学院内では華美な装いは慎む。だからカヤも少し不思議に思ったが、けれどはっきりと返事を返した。
「身内の者が、こちらに居るはずなんです。届け物をしたくて」
ティーリは同居人であると同時に、『従兄』でもある。養母ユフィアがティーリの父親の姉なのだ。
カヤのその言葉を聴くと、少女は笑顔で「あ、じゃあどうぞー」と、張り紙の貼られた扉を開けた。
「ウィルさん、お客さん!」
そして室内に声をかけ、中へさっさと入ってしまう。
研究の邪魔になるのでは、とカヤは思ったが、けれど少ししても室内の研究者から何の文句も聞こえてこなかったので、遠慮がちに彼女の後に続いた。
室内は、術式の記述だろうか、羊皮紙にこれでもかと記されたメモの類や、事典や専門書を始めとする本、様々な魔術の材料で溢れていた。
方陣を敷く為と言うのも有るのだろう。研究室は広く、奥の石の床だけは綺麗に片付けられていた。
室内の人影はまばらで、二、三人ほどしか見当たらない。先程の少女は部屋の奥で栗色の髪の青年に、何やら咎められながらも話をしており、カヤは先にティーリを探そうと視線を巡らせた。
すると部屋の隅、円卓に据えられた椅子の一つに、見慣れた青年を見つける。
うつむきながらも真剣な眼差しで書に視線を滑らせているティーリは、手元の頁を捲りながら、時折に傍らの羊皮紙に文字を記していた。
カヤがゆっくりと近づくと、彼は不意に気付いて顔を上げる。
「ティーリ、元気?」
「――カヤ? え、何で」
「三日も帰らないんだもん。流石に心配になったから来たの」
ティーリの顔には、疲れが色濃く浮かんでいた。心なしか、少し顔色も悪い気がする。
「ねえ、ちゃんと寝てるの? 食事は?」
少し不安になって聞いてみると、彼は「一応」とこくりと頷く。
「あー……。言って、なかったっけ、そう言えば。学院の寮を借りられているんだ。一昨日から。食事も食堂で食べてる」
「それで、帰ってこなかったんだ」
ティーリの言に、カヤは少し安心したように、ため息混じりに微笑した。
「でも、『一応』じゃ駄目だよ。ちゃんと食べて、休んでね」
学院の寮を借りられた事は聞いていなかったが、彼に悪気はなかったのだろう。時々こういう事がある。研究に没頭している時は、特に。
しかし幼い頃は病がちであったティーリは、今でもあまり体力が無い方だ。だと言うのに研究に没頭すると途端に寝食を忘れ、ひと段落着いてから少しした頃に、一気に体調を崩す。
これまでにも何度か似たようなことがあったから、その点は心配だった。
「心がける」
ティーリはそれだけたゆげに言うと、一度のびをして席を立った。