03
――枝葉堂は、王都の学院街に店を構えている。
二人の住居は学院街の大通りから、ひとつ通りを渡った地区に有り、治安もそれなりに良い。大通りの一角には朝と夕に市場が立つし、地理的な不便さはあまり感じない。
だから特に約束もしていないのに、ティーリがわざわざ職場まで迎えに来た事を、カヤは少し不思議に思っていた。
時折は互いが互いの職場まで出向いて帰路を共にしたり、そのまま買い物に出かけたりもする。けれど今日はそのような提案は無かったし、突然に店に来るなどという事も今まであまり無かった。
「ティーリ、どうしたの? 今日、来るって言ってなかったよね?」
半歩前を行く青年の背中に、カヤは不思議そうに声をかける。
けれど通りの喧騒にまぎれて、その言葉はうまく届かなかったのだろうか。ティーリはこれと言った返答を返してこなかった。
それでも何か言ったのは伝わったのかもしれない。彼はカヤの左手を躊躇いがちに軽く掴むと、歩調を速める。
その時僅かに背中越しに振り向いたが、すぐに覚悟を決めたように手を握る指にもう少しだけ力を籠め、再び彼は前を向いた。
反応らしき反応と言えば、それだけ。
彼はそのまま通りを横切って、石畳の小道に歩を進めた。
内心首をかしげながらも、カヤは重ねて声をかけはしない。
しばらく二人は、静かな道を進んだ。けれど家に近づくにつれて、次第に歩調はゆっくりとしたものになっていた。同時に指に籠められていた力も弱弱しくなってゆく。
「ティーリ? 大丈、夫?」
今度こそ、聞き逃す事は無いだろう。
もう一度話しかけると、青年は振り向かずに、けれど今度ははっきりと言葉を返した。
「今日、学院で事故があった。術式の暴走事故だ。術者は王弟。末王子のウィルトラウト殿下」
その言葉も、返答にはなってはいなかったけれど。
それでも少しばかり張り詰めた声音は、緊張の色を濃く帯びている。
表情こそカヤからは見えなかったが、無言の時は引き結ばれている口元からは、真剣さが垣間見えた。
「学院って、じゃあ、お客さん達が話してたのってその事?」
「話してたって……。もう、市井にまで伝わってるのか」
「何かあったみたい、程度しか聞かなかったけれど」
学院地区に店を構える枝葉堂は、専門書も充実している事もあって、学生や学者の客が多い。
学院での噂話程度なら、カヤも自然と耳に入っていた。
「そう」
ティーリはそのまま一言発したきり、しばらく言葉を止めた。
やがて彼はゆっくりと歩みを止めると、おもむろに振り返ってカヤに向き直った。
「カヤ。今日学院で、人間が一人、召喚された」
そうして告げられた言葉は、人通りの無い細い小道に、弱弱しくもはっきりと響く。
「喚びだされたのは本人曰く十代の女。外傷は無い。術式暴走で、誤って呪われた形跡も無い。殿下にも召喚の意図は無かった。事故だった」
夕暮れの迫る街角で、その言葉に打ちのめされたかのように。
何か、大事なものを見失ったかのように、カヤはゆっくりと瞠目した。
それはまるで、心のどこかに突き刺さったままの硝子の欠片が、ゆっくりと痛みを思い出させるように。
「名前はマイハラナツだと、名乗ったって聞いてる。俺も召喚分野の研究者だから呼び出された。けど、直接会ってはいない」
「それ、って、」
零れた言葉は、彼女自身驚くほどに淡かった。消え入りそうに小さかった。
だというのに、その音はどこか力強く。
押し込んでいたものが、あふれ出るような感覚に、知らず言葉が詰まる。
ティーリもまた、呆然とした彼女の痛みに、僅かに顔を歪めた。彼自身はそのように、痛みを憶える権利など無いと知っていたけれど。
でも、無理だった。堪える事は酷く難しく。
「……カヤと、同じなんだ」
どちらかと言えば使われた言葉そのものは、事実を認めるだけの言だった。けれども確かに、発されたのは肯定だった。
十二年前、カヤはティーリによって召喚された。
こことは異なる世界から。魔法の存在しない場所から。
幼い夏の日に、突然に故郷の世界から拐かされた。
その時、ティーリはまだ無知だった。知らなかったからこそ、カヤという一人の人間の人生を狂わせた。
当時、齢十を目前に控えていた彼は、使役獣を欲していたのだと聞いた。
だからこそ家の倉庫に眠る、《籠鏡》との名を持つ自鳴琴の形をした魔法具は、酷く魅力的だった。
それは《駒鳥》という使役対象を呼び出すのだと、書庫で読み解いた書物に記されていたのだ。
少年はだから希望を持って、一人隠れて術式を行使した。
両親に認めてもらいたかった。
己の体の病弱さと言う劣等感を拭いたかった。
見下してくる級友を、何とか見返してやりたかった。
だから使役獣として、過去使役主に栄光をもたらしたとされる、《駒鳥》を手にしたかった。
けれどその結果、幼い魔術師は破ってはいけない禁を破ったのだ。
禁じられているにもかかわらず、知らず人の子を喚び出してしまった。
《駒鳥》は、比喩。『《籠鏡》によって召喚された人間』を指し示す代称だった。
そうしてその時彼は、召喚に用いた魔法具《籠鏡》を壊してしまい――召喚されてしまった幼いカヤは、生まれ育った地に帰る術を、永遠に失った。
魔法具の破損は、カヤを故郷に送り返す事を不可能とした。
だからこそ。ティーリのその言葉は、色褪せた思い出を呼び起こさせる。
「召喚された人は。その人は、帰れるの?」
張り詰めた言葉にすぐに、ティーリはこくりと頷く。
それだけは、彼は事故のあった学院に呼び出された時、真っ先に確認していた。
魔法具に破損は無いか。術式は破綻していないか。術者は術式の行使が可能な状態か。
自分で過去に取り返しの付かない失敗をしていた分、それに関してだけは、的確に行動できたと確信している。
「帰れる。魔法具の破損もないし、術者が術者だ。術式の材料も揃えられる」
「そ、か」
途切れ途切れの言葉を零したカヤから、ティーリは無意識に瞳をそらした。
幼い頃のおぼろげな記憶は、カヤを長年苛ませている。
帰りたい、どうして帰れないのかと。今も忘れられずに憶えているからこそ、緩やかに侵食を続ける。
カヤ自身、頭では帰れないと分かっていても、それでも心では、そう簡単には認められない。受け入れられない。
やはり加害者であるティーリからすれば、その現れは酷く自責の念を抱かせる。突き刺さるような不可視の刃だった。
「早く、戻れるといいな」
「――、うん」
その言葉は多分、何時までたっても忘れられない、彼女の懐郷故に紡がれた。
だからこそ、なのか。何時までたっても、歪な記憶に縋ろうとする。
カヤはうつむいて続けたティーリを、ただぼんやりと見つめていた。
「召喚方陣の研究要員に、俺も借り出された。ずっと、研究だけは続けてるから」
薄暗さを徐々に増す石畳の道で、繋いだ指に、今度はカヤが力を籠めた。家はもうすぐそこだ。後もう少しで、彼らの住む小さな一軒家の玄関に辿り着くだろう。
それなのに、どうしてだろうか。しばらく足を動かす事ができなかった。カヤも、ティーリも、どちらとも。
背負ってしまったその過去は、どちらにとっても重すぎた。
「彼女は、無事に帰す事ができると、思う」
痛みにも似た、その優しさに。
一瞬、最後に目にしたあの夏の景色が、うっすらと脳裏を掠めた気がした。