12
わかったらもう行け、という意思を込めて、ティーリは突き飛ばすように乱暴にカヤの腕を振り払った。
態度で示したティーリに、僅かに均衡を崩しかけたカヤは、床に膝をついたまま唇を引き結ぶ。
苦い物を堪えるような表情からして、きっとカヤは蹲っているのがティーリだとは思わなかったのだろう。多分他の誰かだと思って心配したのだ。
唐突に浮かんだその回答は、あながち間違ってはいないだろう。
だってカヤはいつもなら、ティーリの姿なんて見かければすぐに、俯くように視線をそらして足早に彼から離れる。
それはティーリも同じで、二人は互いに互いを避けあっていた。
だからこそ、こんな邂逅は稀だった。まともに彼女の顔を見たのなんて、幾月ぶりだろう。
僅かに沈む感情に、ティーリは俯いたカヤから、彼女をきつく射ていた視線を逸らした。
「カヤちゃんに意地悪しないでよ、ティーリの癖に!」
けれど、そんな空気を不穏さと受け取ったのか、傍らからカヤを庇うようにもう一人の幼い少女が声を張り上げる。
他の子ともと同じように彼女もまたティーリを、『役立たず』の跡取りを嫌っているのだろう。
いや、多分それだけでない。
ティーリに向けられた幼い彼女の声色は、彼を蔑んでいるのは明らかだった。年上の子供たちをまねるように、見下してもいるのか。
けれどそれは、あまりにティーリをみじめにさせた。
「別に何もしてないじゃない、か、っ」
反射的に、ティーリは傷ついたように声を張り上げる。けれども途中でごほりと咳込んでしまい、最後まで言葉を発することはできなかった。そのまま二度三度と苦しそうに咳を続けるティーリを、幼い少女は苦虫をかみつぶしたように見降ろした。
「意地悪、してるじゃない。あたしたちみんな知ってるんだから。カヤちゃんのこといつも睨んでるじゃない!」
その言葉にくしゃりと、自分の顔が泣きそうに歪むのがわかる。突き刺してくる言葉を払う余力もなく、痛みをこらえる余裕もなかった。
指摘し責めたてる彼女は、じゃあどうしてティーリがそんな行動をとってしまっているのか、僅かでも考えはしたのか、と。
そこまで配慮を期待するなど本当に身勝手だと思いつつも、そんな問いが一瞬彼の脳裏を過った。
自分の心中を慮るような人間などもう居ないというのに、縋るように期待してしまった。
わかっている。他人にそこまで自分をかまえと、願うべきではない事も。気遣ってくれるかもなどと、夢見ることなど無駄なのだと。
そう堪えたティーリの心中など知るはずもなく、カヤもまた振り払われた手を庇うようにして、「いいよ、チェイル」と目をそむけた。
「そんなこと気にしてないから。――だって関係、ないよ」
何が、誰が、とも言わずに、カヤは冷たい石の廊下から膝を浮かせて立ち上がる。
どこか軽やかでさえあるそれは、しかし強い言葉だった。
その響き、そして熱に浮かされた意識は、たやすくティーリに包み隠されない感情を吐露させる。
「部外者のくせに」
言うべきではないし、言って傷を負うのはカヤだけでなく自分もだとわかっていながら。
幼い少女――チェイルの手を取ったカヤに、ティーリは嗤うように言葉を投げかけた。
「ファーレンの血統じゃないくせに、我が物顔で。馬鹿じゃないの、どうせそのうち排除されるのに。邪魔な荷物なんだから」
咳込んだ反動で粗く呼吸を繰り返しながら、それでも顔だけは上げてティーリは言い放つ。
ありったけの妬みと、嫉みと、どす黒い劣等感が込められた言葉。
ティーリが投げつけた鋭い音に、カヤは傷ついたように唇を噛んで立ち止まった。
そしてしばしの逡巡の後、彼女は少年をきっと見下ろす。
「カヤちゃん?」
チェイルが彼女の手を引いたが、カヤは躊躇わなかった。
じわりと瞳に涙を浮かべて、少女は言葉を溢れさせる。
「私の所為じゃない」
感情をまるで爆ぜさせるかのように、カヤは鋭い声をティーリに向けた。
「こんな、ふうに、ここでこうしていなくちゃいけないの、全部あなたが!」
相変わらず壁に寄りかかりうずくまったままの彼を見下ろして、彼女は叫びを振りかざす。
かと言って、カヤの声に僅かに表情を歪めたティーリをその刃で刺す事は、ついぞなかったけれど。
チェイルー、と。そして続いてカヤ、と。廊下の角の先から少女たちを呼ぶ声が聞こえた。
ティーリも聞き覚えのある少年の声。誰であったか、忘れてはしまったけれど、やはり学舎の生徒であろうとは察しがついた。
しかし近づいてくる足音は、一人の物だけではない。その事を一瞬不思議に思ってそちらを向いたカヤは、そしてティーリを責めたてる機会を失った。
「オルト兄ちゃん」
「カヤ、チェイルも! 何で来ないんだよ、俺もメイシャも随分待、って。おい、どうしたんだよ!?」
廊下をかけてきたオルトは、チェイルの声に速度をゆるめた。
そして近づきながら、ティーリが相変わらず蹲っているのを、カヤの頬に涙が伝っているのを見て驚いたように言う。
カヤも自分の高ぶっていた感情に冷静さを取り戻したのか、慌てて袖口で目元を拭った。
苦い思いがティーリの心中を過った。
けれどそれも一瞬の事で、オルトと連れ立ってこちらに来ていたのだろうか。もう一人姿を現した男の姿を目に留めると、ティーリは一転、呆けたように困惑をあらわにした。
「オルト、二人は見つかったのか?」
ティーリと同じ焦げ茶の髪。けれど瞳の色は異なり紫。纏うのはファーレン一族内の序列で五位以内に入る事をあらわす、鉄色をあしらった衣服。
心配そうに言いながらこちらへ向かってきた彼は、少年がうずくまっていること、そしてそれがティーリだという事に気づくと、驚いて駆け寄ってきた。
「ティーリ!」
相変わらず壁にもたれかかったままのティーリの傍まで来ると、男は心配そうに「大丈夫か?」と彼に声をかける。
その様子に、オルトはティーリの方は構わずともいいと判断したのだろう。カヤ達に「何か、あったのか?」と尋ねた。
「え、っと」
「……風邪だって、言ってたよ」
「風邪? ふうん」
チェイルがつっかえたカヤに代わって、躊躇いがちにオルトに答えるが、彼から返ってきたのは淡白な反応だった。
長の息子の体調不良はいつもの事なのだから。子供たちにとっては、特別気にする事柄ではなかった。
けれど男にとっては、やはり気にかかる事であるらしい。その言葉を聞いて、彼はカヤたちの方を向いて「すまなかったね」と口を開いた。
「風邪なら、うつってしまってはいけない。オルト達は戻った方がいいだろう。図書棟を抜けるのにも時間はかかる」
「でも、エディス様」
「ティーリには私が付き添うから。それに、メイシャ達も待っているんだろう?」
少しばかり躊躇ったオルトに、エディスは穏やかに言った。
ティーリを厭う大人たちも多いというのに、彼の言葉はただ子供たちに対する配慮と心配だけで形作られている。
それも当然では、あるだろう。エディス・ファーレン。彼はティーリの父親なのだから。