11
魔術師領に早くも降った初雪に、子供たちは随分とはしゃいでいるようだった。
領主の城の庭には雪が積もっているが、誰かが朝の内に遊んだのだろう、あちらこちらに足跡がついている。
一人渡り廊下を歩いていたティーリが軽く嘆息すれば、冬の寒さに吐息が白く曇った。少しの距離を挟んで聞こえる、同じ年頃の領都学舎の生徒たちの声がどこか苦く感じる。
今は雪こそ止んでいるものの、空気は刺すように冷たい。風邪気味の身体には、それすら負担に思えた。
「ね、メイシャも午後街に降りない? 授業無いし。街道も雪積もってるみたいだから、旅芸人の人たち、まだ出立しないで公演してるって」
「あー、ごめんちょっと無理。授業終わったら従妹とか、あとオルトとかと食事する約束」
「従妹ってチェイルちゃん? じゃあ仕方ないか」
「旅芸人って花笛一座でしょ? 私前に一回見たし、皆で行ってきなよ」
花壇を挟んだ庭の向こう、ティーリの歩くそれと並行して設えられている渡り廊下。そこを話しながら横切る少女たちがこちらに気づく前にと、少年は歩を速めた。
魔術師領領主の城の一画にある学び舎は、領都学舎と通称されている。
学舎には傍系や分家、姻戚関係にあたる者も含めたファーレン一族の子供たちが集っており、やはり魔術を中心に、彼らは勉学に励んでいた。
親元を離れて、準成人にあたる十四の歳までの八年間を、皆共に過ごす。学舎が構えられている場所が場所なだけに、在学中は領主の城の敷地内の一角に設けられた館で共同生活を送るのだ。
加えて専属の人員が充実している魔術系統の学問の教師を除けば、常に彼らの近くにいる大人が少ない分、子供たちの結束は強く交流は盛んだった。
それが領都学舎の、同時にファーレンの子供たちの関係性。
そこに加われていないティーリだ。
体さえ弱くなければ。一年前のあの冬の日、《駒鳥》の召喚など成功していなかったなら。自分もかろうじて属せていたかもしれない、彼らの社会に憧れないと言ったら嘘になる。
けれど実際には除けられているのだ、ならば彼らの様子なんて見聞きすらしたくない。
少女たちが自分に気づかない内に、彼女たちから逃げるように。
足早に雪の掻き分けられた廊下を渡り切り、ティーリはその先にある大扉の向こう、図書棟へと足を踏み入れた。
「……やだ、な」
誰もいない廊下を歩きながら、ティーリはぽつりと呟く。
図書棟と呼ばれている書庫の多い城内の一画は学舎として割り当てられている棟にほど近く、こんな事も時折とは言えある。それは仕方のない事だけれど、いつまでも慣れなかった。
今のティーリにとって、師に勉強を見てもらっている時間以外は、ほとんどが一人で過ごし、一人で使う時間だ。
だから彼は書庫へはよく足を運ぶ。自分の失敗を取り戻すか、それとも無かった事にでもしてしまえる何かを探そうと。
その為には今のように、体調の悪いさを押して通う事も少なくはなかった。ティーリにとって、何か行動することも、逆に何も行動しない事すらも、無言で責められているように感じる。そんな中《駒鳥》の召喚を、自分の失敗を無かった事にする方法を探るのは、たった一つ自分に許された行為のように思えたのだ。
屋内を歩き、いくつかの扉の前を過ぎて馴染みの書庫の一つの扉を開けると、今日もまたティーリは書棚の間を彷徨い始めた。
書名に視線を滑らせ、ゆっくりと部屋を移動する。時に立ち止まり、興味を持った本に目を通していけばあっという間に時間が過ぎた。
そうして一刻ほどたった頃、だろうか。
目的の本は確保し終えたものの、室内とは言え暖炉の無い書庫で長い時間を過ごしたからか、体は冷え切っている。
念のため着込んではきたが、それでも寒い。
加えて集中から覚めてみれば、だるさとふらつきも感じた。自室を出てきたときは微熱程度だったが、もしや熱でも上がってきているのかと思い当たる。
ならば早く部屋に帰ってしまわないといけないと、ティーリは見繕っていた数冊の本を持って書庫から出た。帰りがけに書庫の扉の脇に置かれている魔法仕掛けの羊皮紙に、自分の名前と書名を記して貸し出しの手続きを終える。
本を両腕に抱えて硬い石材の廊下をゆけば、ふらつきやだるさに加えて眩暈も感じた。借りすぎた、だろうか。本の重みで腕が痛い。
だんだんと呼吸も乱れてくるのは、やはり不調のあらわれだろうか。一歩一歩の足取りが重く、廊下がやけに長く感じる。
そして庭の渡り廊下へ続く大扉が見えた頃、不意に均衡が崩れた。
「っ、うわ」
疲労の所為だろう、かくりと膝が折れ、前のめりになる。膝が石材の床に崩れた事に慌てて、ティーリは咄嗟に右手を前に出し床についた。
屈みこむようにその場で蹲れば安定は取り戻せたが、けれど左手だけでは支えきれなかった本が、ばさばさと床に落ちて散らばる。
ぼんやりとした思考には、そんな些細な失敗すら落胆の理由になりえた。
落ち込んだように軽く息を吐くと、少年は片膝を立てて蹲ったまま傍らの壁に寄りかかった。
本を拾わなければ、そして部屋に戻らなければ。
そう思いつつも体は重く、それを制御しようとする意志も熱に浮かされた今は弱い。
少しだけ、このままでいようか。僅かな時間、壁に体を預けたままで。ティーリはそんな思い付きに甘えたくなった。
だって石材の敷き詰められた床は、体温の上がっているだろう身体にはひんやりと心地よかった。この通路を通るものも少ないだろうし、少しの間なら。そう思った。
「――ど、メイシャもオルト兄ちゃんも、もう行っちゃった!」
しかし唐突に開いた廊下の先の大扉の先から響いた子供の高い声が、そんな誘惑を許さなかった。
早い歩調の足音もこちらへ向かってくる。走っているのだろうか。
子供という事は、領都学舎の生徒か。ティーリは憂鬱に思いながらも、けれど動けないまま軽く俯いた。
気力がないし、体も重い。自分を気遣う人間もいないだろうし、このまま蹲ってやり過ごそうと決める。
「大丈夫だよ、この前はオルトもお腹すいちゃってただけだよ」
するとすぐに最初の声への返事が、ティーリの耳朶を打った。どうやらもう一人いるらしい。
どこか聞き覚えのある二人目の声は、幼い一人目の物に比べれば、少しばかり大人びて落ち着いたものだった。
領都学舎の生徒なのだろうから、それでもおかしくはないだろう。
学舎の子供たちは結束が強い分、彼らの間に年齢や性別の垣根は無きに等しい。
俯いたままの顔に、左右の髪が落ちてきた。苛立ちと、沈む感情と、目にかかりかけた髪に軽く瞼を伏せると、ティーリはただ子供たちが通り過ぎるのを待った。
しかし彼の望んだとおりには、どうやらなってはくれないらしい。
「どうしたの!?」
驚いた幼い声とともに、石の床を駆ける音がこちらに向かってきた。同時に大扉の閉まる音が響き、追いかけるようにしてもう一つの足音も移動する。
どうして、放っておかないのか。
苦くも不思議に思ったティーリの肩に、そっと手が置かれた。次いで「どうしたの? 具合、悪いの?」と気遣う、二人目の声が間近でする。
そこで気づいてしまった。聞き覚えのある声色に感じた既視感は、すぐに彼女が誰かを示した。
なんで。よりにもよって。
そう思いながらもティーリはすっと顔を上げた。そして我が身を守るように少女を睨む。
彼女にきつい視線を遣るのに、罪悪感は感じない。もう慣れてしまった。
「――だるいだけ」
眼前で膝をつき、心配そうに覗き込んでくるカヤにそっけなく返せば、彼女は驚いたように目を瞠った。
当然だろう、ティーリが彼女を嫌いなのと同じように、いや、きっとそれ以上にカヤはティーリを嫌っている。
「風邪だよ」
だって奪われた者が一番嫌い、厭い、憎むのは、いつだって奪った者であるはずなのだから。