01
ぱりんと。硝子の割れるような甲高い音が、子供達の耳朶を打った。
いっそ病的なまでに白い肌をした少年と、鎖骨の上ほどまでに黒い髪を伸ばした少女。
淡い光と音を放ちながら、二人の頭上で浮遊していた、歪で小さな自鳴琴。それは唐突に、向かい合う彼らの間に落下した。
自鳴琴は、石の床にぶつかる衝撃に耐え切れなかったのだろう。
箱型の器の中でさえずっていた小鳥の細工物は、地に落ちた拍子に、細く高い音をたてて箱から投げ出された。同時に音色もきしりと鳴り止む。
その一連の出来事を、二人は確かに視界に納めていた。
しかし両者とも、その事に大きな反応を示さなかった。
宙に浮いていた自鳴琴。壊れてしまった自鳴琴。
二つが些細に思えるほど、もっと大きな驚きに、子供達は直面していたのだ。
先程まで少女……佳弥が浴びていた夏の陽射しは、今はもうどこにも降り注いではいない。
それどころか突然佳弥を取り囲んだ薄暗い部屋の中は、凍えるほどに寒かった。
――自鳴琴の壊れる音で、少女は一気に現実に引き戻された。そして初めて、自分の吐息が白く曇る事に気付く。
佳弥は思わず両の手で、むき出しの腕をかき抱いた。
「どうして」
佳弥が座り込む、色鮮やかな陣形の描かれた床。それを取り囲む鈍い銀色の光の枠の向こうで、少年は泣きそうに目を見開く。
重ねて纏う藍色と白の裾長の上衣に、濃淡の灰色で施された刺繍。足首までの黒色のズボンは厚手で、彼の装いは見るからに冬のものだった。
どうして、などと。それは佳弥の台詞である。
なぜ自分は室内に居るのだろう。少し前までは間違いなく、通い慣れた通学路を歩いていたのに。
それにこんなに寒い理由は? だって、今は夏のはずなのに。
疑問は尽きない。けれど今の佳弥には、言葉を音に乗せる事もできなかった。
眼前で呆然と佇む、佳弥よりはほんの少し年上であろう見知らぬ少年。彼が纏う空気の、その面持ちの、何と張り詰めた事か。
驚いているように、最初は見えた。
けれど次第に少年の表情には、焦燥と不安が入り混じりだす。
佳弥が不思議に思ってその顔を覗き込めば、少年はその明るい色をした瞳に、僅かに負の感情を浮かべた。
……そんな表情、佳弥は今まで見たことがなかった。
初めて目にした失意の色はどこか美しく、しかし底知れぬほどに深かった。
まだ七年しか生きていない幼い佳弥にさえ、それは絶望というモノだと悟らせるほどに。少年の表情は酷く鋭く、鮮烈だった。
つられるようにして佳弥が心細げに首を傾げると、彼もまたようやく、はっと我に返る。
少年は震える腕で抱え込むようにして持っていた分厚い本を、慎重に傍らの小机に置いた。
そして佳弥の顔を恐る恐る覗き込み、か細くかすれた声で呟く。
「鳥じゃ、ない」
それは問いかけというには、少しばかり断定的。
どちらかと言えば、彼が現状を認識させるために自分に向けた言葉を、間違えて零してしまったように聞こえた。
「わたしは、人間だよ? お兄ちゃん、どうして鳥だと思ったの? わたしには羽もないのに」
少年のその声が、酷く苦しげに聞こえたからだろうか。
先程とは反対に、佳弥は無意識に口を開いていた。
「ひとの、こを。俺は、」
「――痛い、の?」
けれどもそんな気遣いすらも、知らず少年を追い詰めたようだった。
瞬間顔を歪めた彼に、佳弥はもう一度、気遣うように聞く。
だって今にも、目の前の少年は泣き出しそうだった。彼が取り落とした言葉は、悲痛さを感じさせるほどに必死すぎた。
力なく崩れ落ちるようにして、少年は冷たい石の床に膝をついた。
そして恐る恐る、佳弥の方へ右腕を伸ばしてくる。
鉄格子のように天井までそびえていた銀の光の枠は、少年の手が触れると同時にふっと霧散する。
少女が見上げていた少年の顔が、彼女の間近に降りてきた事によって、子供達の距離は近くなる。
佳弥にとって、彼が纏うどこか痛みを帯びた空気は、酷く異質に感じられた。
どこまでも直ぐな、けれどどろりと感情の入り混じった、少年の表情と声音。
暖かく緩やかな日々しか知らなかった少女は、その仄暗さに魅了されてしまったのかもしれない。
少年の白い指が、佳弥の体温と感触を――少女の存在を確かめるかのように、彼女の頬に手を遣った。
冷たい指先に触れられたと同時に、佳弥は静かに、その言葉を音に乗せる。
「泣かないで」
その言葉を本来かけられるべきは、彼女であるなどと、その時はまだ知らなかった。わからないからこその慰めだった。
少年は何も言わなかった。佳弥もそれ以上、何か続けられはしなかった。
どこまでも危うげな静寂の中で、子供達の視線が交わる。互いに、今にも綻びそうなその脆い繋がりに、無意識に縋った。
瞳を射るというにはいささか儚く、絆と呼ぶには似つかわしくない、あまりに弱すぎる関わり。
だというのにどうしてか、子供達は視線を交わらせたまま、逸らす事ができなかった。
一瞬にも、数秒にも、もっと長い時間にも思えたその関係性に、先に耐え切れなくなったのは少年の方。
彼は視線こそ外さなかった。けれども引き結んでいた唇を、空気を求めるかのように僅かに震わせた。
「《籠鏡》は、だって、《駒鳥》を喚びだすはずなのに……!」
意識を集中していなければ聞き逃してしまうだろうほどに、小さすぎる叫びの声。
佳弥がかろうじて聞き取った彼の言葉は、確かに後悔に溢れていた。
けれど彼の悔恨の理由までは、その時は彼女はまだ知る由もなく。
これから築かれる関係性は、きっと歪に綻ぶのだろうと。理解しているのは、まだ少年一人だけだった。
王国の西方、魔術師領の片隅。
長の幼い息子ティーリが、無知ゆえに禁を破った冬の日。
ティーリに召喚された小さな《駒鳥》は、たったひとつの帰路を失った。
幼い頃に異世界に召喚されて以来帰れないまま大人になった主人公と、少年時代に彼女を召喚してしまった青年魔術師の中編小説。とかに仕上げられればいいななんて。
雰囲気重視でがーっと書いたので、抽象的だったり曖昧だったりぼんやりしている表現が多いかと思います。が、絡みつく感じの文章を書きたかったので、そこは大きくは直さないかと。
苦手な方はスルー推奨です。ますます人を選ぶ小説になってゆく……。
HDDのご逝去から三ヶ月近くがたって、やっと切り替えられました。
新作です。司書官と~は全く別の世界観。
一作あたりの文字数は変動しそうですが、8章くらいで仕上げられればと思っています。
最後まで書き上げたい。お付き合いくださるなら幸いです。