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第2話 行き倒れ その③



「先輩、上がったぞ」


 それから30分後、神崎がドアの向こうから呼びかけてくる。

 音から察するに、そのうちの15分ほどはドライヤーで髪を乾かしていたようだ。ロングヘアの女子にとって、ドライヤーは結構な重労働なのだということを初めて知った。


 ベッドから起き上がり、部屋のドアを開く。


「......え?」


 すると、なぜかプロ野球のレプリカユニフォームに身を包んだ神崎が、ドアを開けたすぐ先で待っていた。


 白地の生地に、肩口には二本の黄色いライン。更に胸の正面には大きく黒字で球団名が刻まれている。

 紛れもなく、九州の某県に本拠地を置く某球団のユニフォームだ。


 ちなみに、かなりオーバーサイズのものを着ているせいで、ユニフォームの広がった裾の下からは直接生足がのぞいていた。何とは言わないが、想像を際限なく掻き立てる悪魔的な着こなしだ。

頼むから、もうこれ以上刺激しないでほしい。


 視線を神崎の顔周辺に固定し、問いを投げかける。

 

「......なにその格好?」

「ふっ、よく聞いてくれたな先輩」


 なぜか自慢げな笑みを浮かべた神崎は、突然くるりと背を向け、背番号を誇示するように両手の親指を立てる。


「......」

「なんだ? ピンと来ないのか?」

「ピンと来ないも何も、髪で隠れてるから全然背番号見えねぇんだけど」

「あっ......。先輩、悪いが、部屋を出てくるところからやり直してもらえるか?」


***

 

 ベッドから起き上がり、部屋のドアを開く。


「......なにその格好?」

「ふっ、よく聞いてくれたな先輩」


 なぜか自慢げな笑みを浮かべた神崎は、背番号を隠していた白いロングヘアを両手で二つに分け、体の前へと流す。そして、くるりと背を向けると、露わになった数字を誇示するように両手の親指を立てた。


 くっきりと黒で描かれた背番号”21”。更に、その上の背ネームの部分には”KANZAKI”の文字が刻まれている。


「あー、お前の兄貴のやつか」

「そう、その通りだ!」


 体を反転させこちらを向き直した神崎が、勢いよく指をさしてくる。

 なんかやたらとテンション高いな。露骨に声弾んでるし。


 神崎は、俺が何か反応を示すよりも先に、ユニフォームの説明を付け加える。


「それに、これはただのレプリカなんかじゃないぞ。兄さんが実際の試合で身に着けていた、いわゆる実使用品だ」

「え、すご」


 プロ野球選手、それも甲子園のアイドルとして名を馳せたあの神崎翔が実際に使用したユニフォームなど、そうそう目にできるものじゃない。

 思わず、反射的に感嘆の声が出る。いや、()()()()()()


 神崎は、その反応を待っていたとばかりに、翡翠色の瞳を爛々と光らせる。


「そうかそうか、先輩も分かってくれるか! 兄さんの汗にまみれたユニフォームの価値を!」


 ちょっとキモい表現やめろ。

 そんなツッコミを入れる隙もないほど、神崎は早口かつ矢継ぎ早に言葉を紡いでいく。


「それに、このユニフォームがすごいのはそれだけじゃないんだ。何を隠そう、2025年シーズンの8月29日の〇ッテ戦、兄さんがプロ初勝利を挙げた試合で着ていた記念ユニフォームなんだぞ! あの時の兄さんは、本当にかっこよかった......あの試合はチームが優勝争いをする中で迎えた、プロ初の先発登板だったんだ。周りの期待も重圧も相当だったはずなのに、兄さんは全然動じなかった。それどころか、マウンドに上がるその瞬間でさえ笑っていたんだ。笑っている顔自体はかわいいのに、その精神性自体は他の誰よりもかっこいい所がもう最高で......こんな兄さんの妹でいられる私は、なんて幸せ者なのだろうと改めて感じた瞬間だったな......すまない、少し話が逸れたな。それで、肝心のピッチングについてだが......この機会だ。どうせなら一球ずつ振り返ろう。まずはロッテの一番打者、藤末に対する一球目だ。これがプロの公式戦における最初の一球ということにもなる訳だが、兄さんは初球からいきなりキャッチャーのサインに首を振ったんだ。そして、アウトコース高めに147キロのストレートを投げ込んで空振りを奪って見せた。これは、試合映像を見返していて気づいたんだが、あの時兄さんがキャッチャーのサインに首を振ったのは」

「何時間話すつもりだよ。頼むから、一旦止まってくれ!」


 結果的に演説を止めさせることはできたものの、どうやら完全に変なスイッチが入っているらしい神崎は、唐突にユニフォームの裾を両手で持ち上げ、顔の下半分を覆った。

 すると、思い切り鼻で息を吸い込み、その香りを存分に楽しむという奇行に没頭し始めた。


「はぁ、もう思い出すだけでダメだ。大好きだ、兄さん。兄さん兄さん兄さん!! ......はっ!?」


 ここが他人の家であることをようやく思い出したらしく、ブラコンは俺の方を見たままフリーズする。


 この地獄の空気の中で神崎が取った行動は――


「......さて、今日はもう遅いからな。そろそろ寝るとしよう」


 いや、無理無理無理無理。さすがに今のは無かったことにはできないって。

 とは言え、下手に突っついてまた変なスイッチが入るのも面倒だし、ここは一旦流しておこう。


「そうだな......じゃあ、神崎はこっちの部屋で......」

「はぁ、最後にもう一回だけ」

「少しは自重しろこのバカ!」


***


 神崎には元々両親が使っていた部屋で寝てもらうことにして、俺は自室へと引き上げた。

 

 なんというか、今日は本当に濃い一日だった。普通なら数週間分相当の情報量が一度に押し寄せてきたような感じだ。

 どうやら俺の小さな脳みそが限界を迎えたらしく、さっきまで眠れなかったのが嘘のように、意識がすっと薄れていく。


 ベッドに横たわったまま、電気のリモコンを手に取ろうとした――その時だった。


「せ、せせせせんぱい」


 顔を青ざめさせた神崎が、ドアの隙間からおずおずと顔をのぞかせていた。

 さっきまで変態変態していた所から一転、今度は完全に何かに怯えきった様子だ。一体こいつは一日に何個イベントを起こせば気が済むのだろうか。


「どうした? 幽霊でも見たみたいな顔して」

「......とりあえず、中に入ってもいいだろうか?」

「あぁ」


 中に入ってくる神崎の様子はどこか挙動不審で、何かを警戒しているように見えた。

 たった数分の間に一体何があったのだろうか。


 体を起こしベッドの縁に腰かけた俺は、目の前まで来た神崎に改めて問い直す。

 

「それで、何があったんだ?」

「......ゴキブリ」


 その声は弱々しかった。

 そのため、聞き取った内容に自信が持てず、思わず聞き返す。

 

「え?」

「その、ワモンゴキブリがいたんだ」


 なんでより詳しく言い直したんだよ。

 その感じでゴキブリにビビるのかとも思ったが、そういえばさっき「虫は嫌だ」みたいなこと言ってたな。

 

「......分かった。駆除してきてやるから、ちょっとここで待ってろって......え?」


 部屋を出ようとしたその時、俺の右の手首を温かく柔らかい感覚が包んだ。

 見ると、神崎の左手が俺の腕を掴んでいた。

 

「一人に、しないでくれ」


 赤らんだ頬に、潤んだ瞳。

 年頃の男子高校生に、この状況で何も感じるなって方が無理な話だ。正直、めちゃくちゃかわいい。

 

 自分の顔が熱くなってくるのをごまかすように、視線を再び部屋の出入り口に向ける。

 

「それなら、俺の後ろについてくればいいだろ。ほら、行くぞ」

 

 しかし、神崎は動こうとしない。むしろ、行くなと言わんばかりに、俺の手首をぎゅっと握りしめる。


「近づきたくない」


 俯き加減のまま、まるで今にも消え入りそうな声で神崎がつぶやく。


 少しわがままだが、どこかしおらしい。その様は、男なら誰でも胸をくすぐられる。

 ここまで豹変されると、目の前にいるこの美少女が、本当にあの小生意気なブラコンと同一人物なのか、疑わしくなってくる。

 

 それはさておき、このまま二人で立ち尽くしている訳にもいかない。そこで、その後のことについて神崎に尋ねてみる。


「ゴキブリが怖いのは分かったけどさ。放置したままにするとしたら、この後どうするつもりなんだよ? ずっとこうしてるって訳にもいかないだろ」

「......先輩、すまないが今日は一緒に寝てもいいか?」

「......」


 え、今なんて言った? 一緒に寝てもいい?

 いやいや、さすがにそれはまずいだろ。変なことをするつもりは微塵もないが、そうだとしても明らかに一線を越えている。


 きっぱり断ろう。

 そう、心に決めた瞬間――


「嫌、なのか?」


 追い打ちをかけられた。


 「嫌なのか?」って、やたらと断りづらい聞き方をするなよ。頑として「嫌だ」と断るのも変に傷つけそうな感じがするし......しかも、こう弱々しい声で尋ねられると、なおさら断りづらさを感じてしまう。

 普段通りの感じだったら簡単に突っぱねられるのに......たかがゴキブリ1匹でえらい変わりようだ。


 そして、俺は悩んだ挙句――


「いや、別に嫌だって訳じゃないけど......お前の方こそ大丈夫なのか? なんつーか、その......男女のアレ的に」


 またしても判断を後輩に押し付けた。しかも、微妙にキモい言い方で。


 そんな無責任野郎の問いに対して、神崎は首を縦に振る。


「大丈夫だ。ゴキブリよりは先輩の方がまだマシだからな」

「もうちょいマシな言い方あっただろ」


 なんか言い方がしおらしい分、しっかり胸に刺さる感じがする。冗談とかじゃなくて真面目に悪口言われてる感があるというか。


「それじゃあ、失礼するぞ」


 俺が地味に心に傷を負っている間に、神崎は俺の手を握ったままいつの間にかベッドに入り、そのど真ん中を陣取っていた。


 いや、詰めろよ。

 何堂々と「一人用です」みたいな寝方してんだ。あと布団の上に寝るな。


「おい神崎、もうちょい奥に行ってくれないと、俺が寝る場所ない......」

「すぴーすぴー」


 寝つきが良いにも程度ってもんがあるだろ。



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