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第2話 行き倒れ その①


 ささやくような寝息が、耳のすぐそばで触れる。

 すーすーと小さな音を立てるたび、そのかわいらしい響きが頭の奥をじんわりと溶かしていく。


 目の前いっぱいに広がる、柔らかな温もり。

 さらに回された右腕が、俺の背中にそっとまわり、引き寄せられるように抱きしめられる。服越しでも、繊細でやわらかな指先の感触が、これでもかというほどに伝わってくる。


 ......自分でも信じられないが、俺はいま神崎と添い寝をしている。

 色々と言いたいことはあるが、まずは、この状況に至った経緯から話そうと思う。

 


***



 街灯だけがぽつぽつと灯る、薄暗い田舎道を十分ほど歩く。

 舗装の甘い細い道を抜け、住宅がまばらに並ぶ一角まで来ると、二階建てのアパートがひっそりと建っている。

 コーポ桜台――名前こそ洒落ているが、まわりは田んぼや空き地ばかりで、店も人通りもほとんどない。


 階段を上がり、二階の廊下を奥へと進む。

 ――208号室。ここが俺の家だ。


「ただいま」


 返事が返ってくる訳がないと頭では分かっている。

 それでもつい口にしてしまうのは、長年の習慣が未だに抜けていない証拠だった。


 明るい木目のフローリングに、部指定の“青い”エナメルバッグを放り投げ、そのままソファに体を沈める。

 

 ちなみに、“私立赤峯高等学校”という名前にもかかわらず部のバッグが青いのは、学校全体のイメージカラーがなぜか青だから――という、いまいち納得しきれない理由による。

 そのため、野球部に限らず、大半の部活動のユニフォームや、部指定の道具類もだいたい青を基調としている。

 だったら最初から“私立青峯高等学校”にしとけよ、というツッコミは、この学校の生徒なら誰もが一度は口にする鉄板ネタだ。


 閑話休題。

 

 寝転がったまま、ポケットからスマホを取り出す。

 そのままUtubeを開き、検索バーに”神崎翔”と入力した。

 

 切り替わった画面には、観客が直撮りしたものからテレビ中継の映像をキャプチャーしたものまで、神崎翔の投球をまとめた動画のサムネイルがずらりと並ぶ。

 プロ入り後の映像も少なくはないが、それ以上に、やはり甲子園での投球を扱った動画が目立つ印象だ。とりあえず、1番上に表示されていた動画を開いてみる。


 2021年夏、甲子園準決勝。赤峯高校(福岡代表)vs黒羽高校(埼玉代表)のハイライト映像。

 その動画冒頭、早速、お目当ての神崎翔がマウンドに上がる所がアップで写される。


 こうして見ると、たしかに見た目からしてかなり似ている。

 兄はどこか女性的な美しさを兼ね備えたイケメンで、妹は逆に、男性的な凛々しさも感じさせる美人。

 そのせいか、どちらも中性的な印象が強いという点で非常に似通っており、身長や髪の長さ、おっぱいの有無といった分かりやすい違いがなければ、見分けがつかないんじゃないかと思うほどだ。


 やがて、映像の神崎が投球を始める。

 一塁手ファーストの方向に正対する、左投手特有のセットポジション。

 グラブを高く上げる、妹と瓜二つの投球フォームから放たれたのは、146km/hのストレート。

 浮き上がるような軌道でミットに突き刺さり、バットは空を切っていた――空振り三振。


 ハイライト映像は、主に神崎が三振を奪ったシーンを中心に構成されていた。

 奪三振の数は十二。気持ちが良いくらいのドクターKっぷりだ。

 結局、神崎はストレートを軸に黒羽打線をほぼ完璧に封じ込め、最後まで一点も許すことなく完封勝利を収めた。


 口元に笑みを浮かべ、相手打者を次々と打ち取っていく――その姿は、妹の投球とほとんど変わらない。


 だが、兄には一つだけ異なる点があった。ストレート一辺倒ではなく、要所で変化球を織り交ぜるのだ。


 カウントを整える球としても、決め球としても使える、曲がり幅が自在に変わるスライダー。

 そして、打者の手元で突如ブレーキがかかったように止まるチェンジアップ。

 どちらも、キレと精度を兼ね備えた一級品の変化球。あのストレートだけでも十分すぎるほど脅威なのに、それに加えてこの変化球があるのだから、もはや反則としか言いようがない。


 神崎が甲子園で投げていたあの年、俺はたしか小学五年生だった。

 当時から「すごいピッチャー」だとは思っていたが、自分も高校球児となった今、その凄さと自分との距離がよりはっきりと見えてくる。


 子どもの頃、何気なく眺めていた夜空の星。それが、ロケットで向かっても何万年もかかる場所にあると知った瞬間、星々は突如として一生手の届くことのない、果てしなく遠い存在へと変わった。

 ――今感じているのは、あのときの感覚によく似ている。

 今日のことを思い出す限り、妹の遥の方も、きっと......

 

 気がつくと、画面に表示されている動画が、別のものへと自動的に切り替わっていた。

 黒を基調としたユニフォームに身を包んだ神崎がマウンドに上がっている。プロ入り後の映像だ。


 ......え?


 一瞬、理解が追いつかなかった。

 なぜなら、その映像にうつる神崎 翔はあまりにも――


 その瞬間、映像がふいに止まり、着信音が鳴り響いた。

 画面には、無機質なフォントで「佐藤」の名前が浮かんでいる。なんつータイミングでかけてきやがる。


 どうせまた、くだらない話題を思いついて掛けてきたのだろう。

 この前なんて、「人間はポテチだけで何日生きられるか」という謎のお題でディベートを仕掛けてきた挙句、俺をコテンパンに言い負かしてさっさと電話を切りやがった。


 今日は無視してやろうか。

 とも思ったが、あいつのことだ。ここで電話に出なければ、家まで押しかけてくるくらいのことは平気でしてくる。


「もしもし」


 仕方なく通話ボタンを押して、声をかける。

 だが、返事はない。ただ、かすかに息遣いが聞こえることから、どうやらちゃんと繋がってはいるらしい。


「もしもし.......おい佐藤。聞こえてるか? おーい」

「ごめん!!」


 突如、俺の声を遮るように、佐藤が叫んだ。

 これまで聞いたことのない、佐藤の真剣な声だった。


「......え? どうしたんだよ、急に」 


 まったく心当たりのない謝罪。

 あまりに唐突すぎて、頭が真っ白になる。

 何も言えず、ただ次の言葉を待つしかなかった。


「正直言うと、めっちゃ舐めてた。

 変化球のひとつも投げられない女子とか、どうせまともなボールなんて来ないだろって思ってた。勝手に決めつけて、油断して......」

「おいこら、ちょっと待て」


 一瞬でも真面目に向き合おうとした俺がバカだった。

 人の黒歴史を気軽に掘り返すな。せっかく忘れかけてたのに。


「先生、ものまねの出来はいかがでしたか? ご公認はいただけますでしょうか?」

「誰が先生だ。認めるわけねーだろ」

「くそっ、まだクオリティが足りてなかったか......。よし、こうなったら、認めてもらえるまで毎日電話で聞かせてやる。日々反省日々成長する俺を楽しみにしててくれよな!」

「絶対やめろ! そもそもクオリティに関してはもう完璧、っておい、佐藤! 待て!切るな!」


 俺の制止もむなしく、通話は終了していた。

 


***


 眠気に身を任せ、布団にくるまる。

 まぶたが重くなり、意識がゆっくり沈んでいく......はずだった。


 ――あの時、なんであんなこと言ったんだ俺。


 脳内に、今日生まれたばかりの鮮明すぎる黒歴史が再生される。

 神崎に向かって、イタくてクサいセリフを吐く俺。それも、他の部員や監督が見ている前で。

 背筋を冷たいものが駆け抜け、眠気は一瞬で吹き飛んだ。


「......ああああああ!!」


 布団を跳ねのけ、ベッドから飛び起きる。

 暗い部屋に、自分の声と心臓の早鐘だけが響いていた。

 くそッ、佐藤め。マジで余計なことしやがって......。

 明日の昼休み、焼きそばパン奢るまで永遠にデコピンしてやるからな。


 スマホを手に取り、時計を見る。23:30。

 いつもならもう寝ている時間ではあるが、一度こうなってしまうと眠気はもう戻ってこない。

 

 ......散歩でも行くか。

 俺は仕方なくパーカーを羽織り、外に出ることにした。


 外は春の夜。ひんやりとした空気が肌を撫で、胸の奥まで澄んだ匂いが流れ込む。

 街灯はまばらで、遠くでカエルの声がぽつぽつと響いている。

 田んぼを抜ける道を歩けば、どこからか土と草の甘い香りが漂ってきた。


 夜風に吹かれながらの散歩。

 夜の町は昼間とはまるで違う顔を見せていた。普段は気にも留めない風景が、どこか新鮮に映り、ちょっとした背徳感と興奮が入り混じって不思議な高揚感を覚えた。


 夜の散歩も、案外悪くないかもしれない。

 ......そんな思いに浸っていた、そのときだった。


 視界の端、街灯の弱々しい光に照らされた黒く大きな影が見えた。

 道の端の草むらに何かがある。


 少しずつ近づくにつれて、そのシルエットが次第にはっきりと見えてきた。

 そして、それが何であるかを察した瞬間、胸が激しくざわついた。


 「まさか……」という思いが頭をよぎり、全身の血が逆流するような冷たい感覚が走る。

 心臓の鼓動が急に速くなり、鼓膜を震わせるほどの音が耳に響いた。


 目の前にいるのは、間違いなく”人”だ。しかも、動いていない。

 

 ホラー的な妄想やサスペンス的な妄想、更には、道端で人が倒れていた時に取るべき緊急対応のシミュレーションまで、様々な思考が頭の中をぐちゃぐちゃと駆け巡る。

 

 混乱した思考の中で、俺は吸い寄せられるように足を進める。

 更に距離が縮まると、それはどうやら白い髪を腰まで伸ばした人物であるらしいことが分かった。

 その瞬間、倒れている人影の正体について、急に、ひとりの名前が頭に浮かんだ。

 

 そして、ついに目の前に立った時、それは確信へと変わった。

 ――倒れているのは、神崎 遥だ。


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