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第1話 謎の美少女 その⑤ (第1話 完)

 

 

 再びホームベースの後ろにしゃがみこみ、キャッチャーのポジションにつく。


 ミットの形を軽く整え、ふと視線を上げた瞬間、及川先輩がこっちを見下ろしているのに気付いた。


「......ッ!?」

 

 目元を覆うような長い前髪の影。その隙間から覗く双眸。

 よく見ると、白目の部分がじっとりと赤く滲むように血走っている。

 それに気づいた瞬間、皮膚の下を冷たい何かが逆流するような寒気が走った。


 いくらなんでも見た目がホラーすぎるだろ。

 心なしか、手に持っている金属バットの先に、赤黒い何かがこびりついているような気さえしてくる。


 というか、なんでめっちゃこっち見てんの? 

 「これキャッチャー〇せば無条件で勝ちじゃね?」って気づいちゃった的なアレか? 

 いや、普通に反則負けになりそうだからそれは違うか......違うよな?


「......どどどどどどうかしたんですか?」


 声を震わせながらも、なんとかその理由を聞き出そうとする。

 命の危険を察した動物的直感が、俺の口を動かしていた。

 

 そんな俺の問いに、及川先輩はあくまで穏やかな口調で、淡々と答えた。 


「......これは野海に言っても仕方のないことだとは思うんだけどさ、つまらない四球(フォアボール)で決着とか、俺、嫌だからね」


 静かな声音なのに、胸の奥に鈍く圧がかかるような一言だった。

 “仕方のないこと”と言いつつ、その言葉の裏には「そうならないように出来る限りのことはしろ」という無言の圧力がこれでもかと滲んでいる。


 具体的に言えば、「変にボールを出させるくらいなら、甘いコースにでも構えて、とにかくストライクゾーンに投げさせろ」。おそらく、そんなニュアンスのことを言いたいのだろう。


 結果的に、ピッチャーとバッター、両方から同じ要求を突きつけられた格好だ。

 なおさら、真ん中に構える(そうする)以外の選択肢が消えたような気がする。


四球(それ)はないと思うので、大丈夫です」


 脅迫めいた圧に対する、返答。

 それが、はっきりと言い切る形で口をついて出たことには、自分でも驚いた。

 出会ってまだ30分も経っていないが、目の前で数々の常識を覆した化け物に対して、不思議な信頼のようなものが芽生えたのかもしれない。


「そっか、ならいいや」


 先輩は納得したように小さく頷くと、その視線をマウンドへと戻した。

 そして、ゆっくりと構えを取り、バットを肩の後ろに担ぐように掲げる。

 

 彼女と及川先輩の望み通り、俺はストライクゾーンのど真ん中にミットを構えた。


 マウンドの彼女と目が合う。

 その瞳は揺るがず、凛と澄んだ光をたたえている。

 

 わずかに口元を上げ、「それでいい」と言わんばかりの満足げな表情を浮かべた彼女は、そのままセットポジションに入った。


 一拍の間を置いた後、始動する。


 これまでと変わらず、力感のなさとダイナミックさを併せ持った投球フォーム。

 そこから硬球が放たれる。


 一球目とほとんど同じ。ホームベースの中央へと、叩きつけるように伸びてくる軌道。

 普通のピッチャーなら完全にボールになる球筋だが、彼女の場合、ここからストライクゾーンに入ってくる。


 とりあえず、ボール球でなくてよかった。

 だが、このまま予想通りの球筋で来るとすれば、コースはど真ん中。

 要求通りだからこそ、絶好球すぎる。


 多少ズレてくれるくらいが、ちょうど良かったんだけどな。

 一球目もそうだったけど、なんでど真ん中に構えた時に限って正確なんだよ。


 まぁ、今さら嘆いてもしょうがない。

 意識を一瞬、視界の左端、バッターボックスの及川先輩に向ける。


 ミットへと迫るボールの軌道――その気配に呼応するように、先輩の左足がすっと膝の高さまで持ち上がる。

 右足一本でバランスを取り、重心を低く沈める。

 体の奥にある“核”を押し込めるようにして、静かに力を溜めていた。


 踏み込みのタイミングを、まるで呼吸のように見極める。

 彼女の“まっすぐ”が浮き上がりを見せ始めた、その一瞬――。


 左足が地面を叩きつけるように踏み込まれる。

 溜め込まれていた力が一気に解き放たれ、激しくひねられる上半身。

 唸りを上げるバットが、鋭く、豪快に振り抜かれた。


 ボールを叩く金属音。


 当てられた――!?

 そのことを認識した瞬間、体の奥底から一気に血の気が引いていくのがわかった。


「なッ!?」


 さすがの彼女も慌てた様子で打球の行方を追う。


 白球は左翼方向、高く舞い上がった弧を描きながら、ぐんぐんと伸びていく。


「俺にー、任せろォ!!」


 声の主はレフトを守っていた佐藤。

 ダイビングキャッチを試みるも、そのグラブにボールが収まることはなく――


 三塁線の遥か外側、外野のファールゾーンへと着弾した。


「クソッ、俺が捕っていれば......!!」


 地面にうつ伏せたまま、悔しさをぶつけるように拳で土を叩く佐藤。

 着弾地点の10m以上手前でダイビングキャッチを試みるという珍妙な動きをした後でなければ、少しはかっこよかったかもしれない。

 まぁ、佐藤のアホはともかく。

 

 危なかった。

 結果的にファールになったとはいえ、あと少しタイミングと位置が合っていればホームランになっていても全くおかしくない打球だった。 

 

 とはいえ、これでカウントは3ボール2ストライク(フルカウント)

 バッテリー(こちら)側もあと一球で勝利という状況まで漕ぎつけたことに、ひとまずは安堵したいところだが......


 それでもやはり、脳裏にちらつくのは及川先輩の“フルスイング”。

 これまでも何度も見てきたそのスイングだが、今の一振りには、明らかにそれ以上の力が込められていた。


 本来、どんな形でもヒットを放てば勝ちとなるこの状況では、確実性を重視した軽打こそが最適なはずだ。

 それでもなお、先輩がフルスイングにこだわった理由――それはきっと、背番号1(エースナンバー)を奪おうとする外敵を、完膚なきまでに叩きのめすため。


 そして実際に、長打狙いのスイングであるにも関わらず、あのボールに対応しかけた。

 正直恐ろしいなんてものじゃない。

 

 この状況で、次もど真ん中狙いというのはかなり危険な気がする。

 そう思い、ふと彼女の方を見ると――


 笑っていた。


 だが、その笑みは、これまでのものとは明らかに違っていた。

 どこか浮世離れした静けさと、鋭く研ぎ澄まされた気配。

 心からの楽しさに満ちていながらも、それはあまりに静謐で、あまりに鋭い。


 真剣と愉悦――本来、相容れないはずのふたつの感情が、ひとつの表情に溶け込んでいる。

 人間離れした集中の果てに浮かぶ、異質な微笑だった。


 それを見た瞬間、脳裏に確信めいた直感が走る。


 ――次は、“全力”のボールが来る。


 これは以前どこかで聞いた話だが、人間は誰しも、無意識のうちに“リミッター”をかけて生きているという。

 いくら全力を出しているつもりでも、その制限がかかったままでは、厳密には“全力”とは言えないのだそうだ。


 そして、このリミッターは、そう簡単に外れるものではない。

 ごくわずかな例外を除き、意図的にそれを解除できる人間など存在しない。

 感情の爆発や極限の集中――そうした状態に達したとき、ごくまれに、まるで偶然のようにして外れることがあるらしい。


 このリミッターが解除された、文字通りの”全力”が出せる特異な状態を――人は“ゾーン”と呼ぶ。


 ――そして今、彼女は明らかにその“ゾーン”に入っている。


 「余計なことはするな」

 翡翠のように澄んだ瞳が、そう語りかけてくる気がした。

 俺は抗うこともなく、自然とミットを“ど真ん中”へと構えていた。


 セットポジションについた彼女の、小柄で華奢な身体が、今は異様なまでに大きく見えた。

 その存在が、空間そのものを支配している――そう錯覚させるほどに。


 投球動作に入る。

 動きは変わらないはずなのに、明らかに何かが違っていた。

 指の先、視線の揺らぎ、わずかな重心の移動。

 一つひとつの動作が極限まで研ぎ澄まされ、一切の隙がない。


 空気が張りつめる。音が遠のき、景色すら薄れていく。

 静寂のなかに漂う、異様な気迫。


 まるでこの瞬間、世界のすべてが彼女を中心に回っているかのような気さえした。


 そして、ボールが放たれる。


 速ッ――!?

 

 気づいた時には、もう目の前にまで迫っていた。

 白球が一直線に唸りを上げ、風を裂く。


 浮き上がる軌道を読んで、高めに構えていたミット。

 だがそのボールは、想定を遥かに超えたホップ量で――跳ね上がる。


 先輩のバットが、それを捉えきれず、軌道のはるか下を空振ったのが見えた。


 だが、こちらもマズい。このままでは捕れない。

 二度も捕り損ねるのは、キャッチャーとして致命的だ。それだけは絶対に避けたい。


 咄嗟に、左腕を上へ突き上げる。

 その一瞬。

 鈍く重い衝突音と共に、ミットの端にかろうじて収まっていた。


 あまりにも完璧な、空振り三振。

 その余韻に


「「「「よっしゃあああああ!!」」」」


 ......浸ろうとした瞬間、爆音の雄たけびによって静寂はかき消された。

 どうやら、俺は余韻に浸らせてもらえない系の男であるらしい。


 大会の優勝時よろしく、マウンドに向かってバック陣が猛ダッシュで押し寄せる。

 レフトの佐藤を筆頭に、セカンド、ショート、センター、ついでにベンチで見守っていた部員まで飛び出してくる大騒ぎだ。

 

「うわあああ!?」


 突如として大量の部員たちが迫ってくる光景に、彼女も思わずらしくない悲鳴をあげる。

 いや、たしかに考えてみれば、一人の美少女に迫る大量の男たちが群がるシチュエーションって大分ヤバいな。


 まずい、このままではR指定がかかってしまう。


「流石にびっくりしたな」


 と思ったのも束の間、いつの間にかホームベースの辺りにまで移動してきた彼女は、手で冷や汗を拭っていた。なんか今、瞬間移動してなかったか?


 ちなみに、突撃してきた佐藤たちもその辺りには一応気を使っていたらしく、彼女のいたマウンドの中央ではなく、二塁との中間あたりに集まって指を突き出しながら喜びを爆発させている。

 いや、もしこの子がそっち側に残ってたとしたら、めちゃくちゃ気まずくなるだろ、それ。


 佐藤らの大騒ぎを尻目に、彼女は、審判をしていたため近くにいた池見監督に確認するかのように問いかける、


「それはそうとだ。入部は認めてもらえるということで大丈夫か?」

「あぁ、もちろん大丈夫だよ。あんなボールを見せられたら、ダメなんて言えるわけがないからね......すまなかった。君が女子だからという理由だけで、実力がないと決めつけた僕が浅はかだった」


 池見監督は目尻を緩めながらも、どこかバツの悪そうな顔で頭を下げた。


「気にするな。間違いは誰にでもあるからな」


 まるで何でもないことのように、彼女はさらりと言い切る。だがその声音に滲むのは、軽蔑でも嫌味でもなく、ただ淡々とした事実の受け止め。相手の謝罪を必要以上に引き伸ばさない、その潔さが、むしろ彼女らしい。


 ......いや、ちょっと待て。何様だよ、お前。

 それ、一応だけど監督だぞ。

 いや、そういえば俺の時は「正直イラっとした」みたいなこと言ってたし、もしかして当人なりに気は使ってるのか?

 

 そんな彼女の返答に、監督も思わず頬をピクつかせていた――その時だった。

 まだどこか悔しさを引きずった表情のまま、バットを片手に立ち尽くしていた及川先輩がふいに口を開いた。


「あの、もしかしてなんだけどさ。

 君“も”神崎 翔のファンだったりする?」


 唐突な一言だった。

 けれど、及川先輩の何気ない問いかけで全てが繋がった気がした。


 この子のピッチングフォームに対する既視感。

 及川先輩と彼女が、背番号1に異様なまでのこだわりを見せていた理由。


 その全ての答えは――“神崎 翔”。


 かつて赤嶺高校で背番号1を背負い、チームを甲子園準優勝へと導いた、伝説的な天才投手。

 そうだ、思い返してみれば、彼の投球フォームもこの子と同じ、グラブを高く掲げる“羽ばたく”系のオーバースローだった。


 「君“も”」という言い方からして、及川先輩自身が神崎翔のファンなのだろう。

 だからこそ、この子のフォームに即座に既視感を覚え、同類だと見抜いたのだろう。


 つまり、二人は神崎翔の背中に憧れ、その姿を追いかけて赤嶺高校にやってきた。

 それゆえ、彼の背番号――1番だけは、どうしても譲れなかったのだ。


 なるほど、そういうことだったのか!

 憧れの天才投手をめぐるライバルストーリー。これは......熱い!


「いや、違うが」


 俺の感動を返せ。

 

 思わせぶりどころではない予想外の返答に、俺も及川先輩も、ついでに池見監督も固まる。

 三人とも、彼女が「その通りだ」と答える未来しか想定していなかったのだ。


 そんな俺たちの空気感を察したのか、彼女は思い出したかのように言葉を付け足す。


「......あぁ。そういえば、まだ名前を言っていなかったな」


 ......ん? この流れでなんで名前の話に?

 俺が状況を理解する前に、彼女の声が重なる。


「私の名前は神崎 遥(かんざき はるか)。神崎 翔の妹だ」




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― 新着の感想 ―
野球人なせいもあってか、描写が手に取るように浮かんできました。 一人称の作品って結構、雑に書かれていることが多いんですよね。 書籍化作品には一人称がかなり多い印象を持っているんですが、これで書籍化?と…
結構濃厚に野球シーンが描かれており、野球好きにとってはすごく楽しめる内容になっていて好印象。 その上で、出来るだけわからない人にわかるよう、興味を持って貰えるようにと配慮されているのが伺えます。題材の…
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