第2話 行き倒れ その④
俺は、腕を掴まれたまま数分間ベットの横で立ち尽くしていた。
神崎がベッドのど真ん中という絶妙に邪魔な場所で仰向けになっているせいで、寝ようにも横になれるだけのスペースが無いのだ。
手前のわずかな空きスペースに無理やり入ることもできなくはない。だがそうなれば、互いの体が密着するのは避けられない。そんな状況だけは、絶対に避けたかった。
いっそ立ったまま寝てみるか――と、半分とち狂った考えに至ろうとしたその瞬間、ふと、ある事に気づく。
――これ、俺が親の部屋に行って寝れば良いだけじゃね。
そもそも神崎が一緒に寝ようと言い出したのは、ゴキブリが怖くて一人では眠れなかったからだ。つまり、寝ついた時点で目的は果たされており、もはや一緒に寝る必要などない。
どうしてこんな単純な事に気づかなかったのか、今となっては自分でも不思議なくらいだ。
そんな訳で、後は神崎の手を振りほどけば万事解決となる......はずだったのだが、これが予想以上に難しかった。
というのも、わりと強めな力で手首を掴まれていたため、簡単には振りほどけなかったのだ。
自分の右腕を軽く動かしてみたり、回してみたり、神崎の手の甲をくすぐってみたりしてみたものの一向に抜け出せるような感じがしない。
それどころか、こちらが抜け出そうと何かアクションを起こすたびに、握る力が段々と強くなっている気さえする。
それならば、今度は全力で引っ張ってみる......という訳にもいかない。
かつて、ファンとの握手の際に腕を強く引っ張られ、そのことが原因で肩を負傷したプロ選手がいたように、不意に腕を引っ張るという行為は思わぬ怪我につながる。
神崎に怪我をさせてしまう可能性がある時点で、選択肢として論外だ。
こうして、シンプルな握力というアホみたいな伏兵に阻まれたせいで、俺の別室移動計画は頓挫してしまった。
とはいえ、明日(正確には今日)も学校や練習に行かねばならない以上、いつまでもこうして突っ立っているわけにはいかない。さもなければ、時間割の1限から5限までが丸ごとお昼寝の時間に化けてしまう。
そこで、神崎には申し訳ないが、一度起こさせてもらうことにした。
「おい、神崎。悪いけど、一回起きてくれ」
という訳で、肩を軽く叩きながら呼びかけてみる。
しかし、反応がない。
「おーい、神崎?」
声を少し大きくして呼んでみる。
しかし、またしても無反応。
こうなったらと、試しに揺さぶってみたり、デスボイス系の子守唄を耳元で流したり、甲子園のサイレンを声真似してみたりもした。だが、その気持ちよさそうな寝顔は微動だにせず、返ってくるのは規則正しい寝息だけだった。
こいつ、全然起きねぇ。ここまで来ると、永眠でもしてんのかってレベルだ。
「ふぁー」
襲ってきた眠気に耐えかねて、長い息とともにあくびがこぼれる。
勉強机に置かれたデジタル時計に目を向けると、時刻はすでに一時を回っている。普段なら、とっくに夢の中にいる時間だ。
そのとき、ベッドの端、半人分ほどの空きスペースが再び目に留まった。
眠気で思考力が落ちているせいか、『めちゃくちゃ頑張れば、神崎の体に触れずに寝られるかもしれない』――そんな考えが、頭によぎった。
そうだ、俺はタチウオだ。
激細の体をピンと垂直に伸ばし、必要最低限のスペースだけを確保し海中を立ち泳ぐ――そんなタチウオだ。
脳内でその直線美を思い描きながら、神崎の腕や髪を下敷きにしないよう細心の注意を払いつつ、空いたスペースに横向きで身を滑り込ませる。
頭の上から足の先まで、体のどこも神崎には触れて.....ない!
よし、成功だ。これがもしウナギをイメージしていたら、きっと失敗していただろう。タチウオ様々というやつだ。
しかし、分かりきっていたことではあるが、とにかく距離感が近い。
すぐ目の前には神崎の横顔、ふと下に目を移せば、ユニフォーム越しにわかる胸元のふくらみと太ももの付け根まで露出した生足。その全てが、わずかにでも体を動かせば、すぐに触れてしまう距離にある。
この状況がもたらす緊迫感と背徳感が、官能的な刺激と入り混じり、感情の高まりを一層強烈なものにする。
――そうだ、電気。
部屋を暗くすれば、少なくとも視覚的刺激は抑えられる。それで少しは落ち着けるはずだ。
とっさにそう判断した俺は、顔のそばにあったリモコンを手に取り、部屋の明かりを消した。
寝ている間に踏んでしまうことがないよう、左手に握るリモコンを床に放り投げる。
視界のほとんどが暗闇に包まれ、神崎の姿は輪郭だけがかすかに分かる程度になる。
これで落ち着いて眠れるはずだ。
一息ついた瞬間、俺は自分がとてつもない過ちを犯してしまったことに気づいた。
――これ、暗くしてる方が逆にエロくね?
“見えない”という状態は、時にほかの感覚を研ぎ澄まし、想像力を掻き立てる。
今の俺にはその効果がてきめんに表れているらしく、とりわけ“距離”が視覚で測れないという事実が、俺の想像力をいやが上にも膨らませていた。
その時、神崎の体がわずかに動いた。
ベッドの揺れ、かすかな衣擦れの音。敏感になった感覚は、そうした微細な変化さえも誇張されたように俺へと伝わってくる。
そして次の瞬間、神崎の足先がふいに、スウェット越しに俺のひざ下の辺りへと触れた。
小指の辺りの、少し骨ばっていながらも柔らかい感触が、布越しに伝わってくる。
足先が触れたことで、その感触もさることながら、神崎との距離がいかに近いかを改めて意識し、思わず下の方がタチウオしてしまいそうになる。
――すぐにベッドを出ないとまずい。
”至近距離で寝る”ことに対する認識があまりにも甘かったことを痛感しながら、俺は急いでベッドから体を起こそうとした――その時だった。
「行かないでくれ」
寝返りを打つように体の向きを変え、俺の方を向いた神崎が、そっと右手を背中に回し、優しくも力強く俺の体を引き寄せた。
感覚の爆発。
これまでに感じたことのない、温かく心地良い感触が体中に広がる。
背中に伝わる、繊細で柔らかな指先の感触。
胸と腹部の中間あたりに触れるその膨らみは、想像していたよりもずっと硬かった。
背中・腰から太ももにかけて、「逃がさない」と言わんばかりに巻き付けられた生足は、スウェット越しでも柔らかく豊満な肉付きが感じられる。摩擦の少ない滑らかな肌が薄い生地の上をそっと擦るたび、ぞわぞわとした快感が肌を伝い、脳を溶かす。
体全体を包み込むように抱きしめられていたため、最早どうにかして抜け出してやろうという気は起きなかった。密着する感触に心臓は早鐘のように打つ一方で、なぜか不思議と安心感のようなものも芽生えてくる。
困惑と快感が入り混じる中、鼻先と鼻先が触れ合うほどの至近距離にいる神崎に、抑えた声で問いかける。
「これって、どういう......」
しかし、返答はない。
その代わりに、ささやくような寝息が聞こえてくる。寝てる......のか。
その時、突如として、俺の背中に当てられた神崎の右手に力が込められた。
「兄さん。私、さみしかった」
か細く、震えるような声。そこには長く抱えてきた孤独の影が滲み、同時に、ようやく見つけた安心の温もりが混ざり合っていた。
その後、すぐに寝息を立てたことから、これは寝言だということが分かった。
しかし、ただ単に兄に関する夢を見ているというだけでは説明できないような切実さが、その声には籠っていた。
もしかすると今の神崎は、虚構の喜びに浸り、それを必死に離すまいとしているのかもしれない。そう思うと、興奮は俄かに冷め、それと同時に、胸の奥に重いものがのしかかるような感じがした。