第8回
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血の足跡は廊下に沿ってしばらく続き、やがて見えてきた突き当りを左に曲がる。
そこから先は中央棟に繋がっており、比較的大きな空間の中心辺りにはナースステーションが設けられていた。
そのナースステーションの前には人影があって、それはどうやら若い女性のようだった。
こちらに背を向けて立つその若い女性の両サイドには、あのピンクのパジャマを着た女の子と、蜘蛛医者の姿が見えて、僕らは思わず足を止めた。
まさか襲われているのか、と彼女を助けるべく駆けだそうと足を踏ん張りかけたところで、そうではないことを瞬時に理解する。
その若い女性と女の子、蜘蛛医者の向こう側には、怯えた表情で蹲る男の姿があったのだ。
これは――いったいどういう構図なのか。
横尾綾と、吾妻薫。
僕たちからは彼女の後ろ姿しか見えないが、彼女は両手を強く握りしめたまま、女の子と蜘蛛医者と共に、涙を流し嗚咽を漏らす吾妻薫をじっと睨みつけているようだった。
横尾綾の手には医療用のメスらしきものが握られており、その手と刃は真っ赤に染まっている。
見れば、吾妻薫の右頬がすっぱりと切り裂かれており、真っ赤な血をダラダラと床の上に零していた。
間違いない、横尾綾が殺人者だ。
けれど、これはなんだ。いったいどういうことなんだ。
あの蜘蛛医者と、ピンクのパジャマの女の子は、どうして横尾綾と一緒に居るのだ。
僕と美月はただ混乱と動揺の中で立ち尽くすことしかできなかった。
中央棟に繋がる廊下のきわに隠れながら、僕と美月は視線を交わし、眉を潜める。
それからもう一度横尾たちに視線を戻し、その様子を窺った。
「ち、ちがうんだ! あれはどうしようもないことだったんだ! 手術自体は成功していたんだ! ただ、妹さんは運がなかっただけなんだ……!」
「言い訳なんかいらない! あなたたちが私の妹を殺した! その事実だけで十分よ!」
「こ、ここ、こんなことをしても、君の妹は帰ってこない! それくらいわかってるだろう!」
「――うるさい! うるさいうるさいうるさいうるさい!」
瞬間、蜘蛛医者が彼女の叫びに呼応するように駆け出した。
ドタドタと激しい足音を響かせながら、蜘蛛医者は蹲る吾妻にあのドリルを振り下ろす。
その刹那、吾妻は悲鳴をあげながら必死にその攻撃を左に避けた。
先ほどまで吾妻の蹲っていた床がドリルによって粉砕され、そこに大きな穴があく。
「お前たちが言ったんだ! 手術さえすれば加奈は助かるって! それなのに、それなのに!」
「ひ、ひいっ――っ!」
蜘蛛医者はもう一度吾妻に向かってそのドリルと注射器、メスを振り上げた。
逃げようとする彼の足を、蜘蛛医者は残るもう一本の腕を伸ばして鷲掴みにし、彼の頭、胸、腹をそれらの凶器で一気に貫く。
呻き声が僕らの耳に届き、ゴリゴリと骨を砕くドリルの音が響き渡る。
あの整った顔立ちに絶望と苦悶の表情が浮かび、開いた口からは涎とどす黒い血が垂れ落ちる。穿たれた頭部からは真っ赤な血と脳漿が辺りに飛び散り、僕も美月も咄嗟にそれから視線を逸らせた。
ふたりの間で何が起こったのかは明確には解らない。
けれど、過去に何らかの医療行為があって、それによって横尾の妹が亡くなったらしいことは理解できた。
それだけじゃない。
そうなると、恐らく……
「――やったよ、可奈」
横尾がぼそりと口にして、横に立つ女の子に顔を向ける。
「これで、あんたを殺した医者どもは皆殺しにしてやった。藤堂も、吾妻も、あの看護師たちも。あとは――」
横尾はそこで、不意に僕らに身体を向け、ニタリと笑んだ。
ぎらついたその瞳には狂気が宿り、しっかと僕らの姿をその視界にとらえる。
「あとは、残りの三人を殺すだけ。そうすれば、私はこのゲームの勝者になれる! あんたを生き返らせるっていう願いを叶えてもらうことができるんだ!」
その瞬間、蜘蛛医者と女の子――恐らく可奈という名の彼女の妹――が僕たちに向かって襲い掛かってきたのである。
僕は咄嗟に拳銃のトリガーを何度も引き、ふたつの標的に向かって弾丸を放った。
蜘蛛医者も女の子も、僕の身体を射抜くような視線を向けたまま目前まで迫ってくる。
「こいつらは僕がなんとかする! 美月は横尾を!」
「え、あっ――!」
美月は目を大きく見張り、動揺の表情を浮かべながら、けらけらと笑い続ける横尾に向かって駆け出し、銃を構えた。
僕は蜘蛛医者と女の子――弾丸を受けながらも、それらはなお僕に襲い掛かる――に自ら飛び込み、美月が確実に横尾を撃ち殺せるよう立ち向かった。
けれど、美月が横尾に照準を合わせるよりも先に横尾が動いた。
横尾は鬼気迫る表情で一気に美月との間合いを詰めてくると、戸惑う美月の腕を素早く掴んで組み伏せ、拳銃を叩き落とすのと同時に、美月の身体を押し倒したのだ。
「――しまった!」
僕は思わず美月を助けようと方向転換しようとして、
「……逃がさないよ」
あの女の子が、僕の左腕を掴んできた。
そのとんでもない力強さに、僕の身体はバランスを崩して仰向けに押し倒される。
そればかりか、僕を押さえつける女の子の後ろから蜘蛛医者が覆い被さるように僕を見下ろし、その凶器を振り上げたのだ。
僕は何とか動く手で蜘蛛医者に銃口を突き付けて、けれどそんなことがこの状況の解決に至らないという結論に即座に至る。
僕は蜘蛛医者や女の子から美月の方へと頭を向けた。
今まさに美月の喉首を引き裂こうとメスを突き付ける横尾に向かって、僕は改めて右手に握った銃口を向ける。
もう、迷ってなんていられない。
覚悟を決めろ、悠真!
僕は横尾の頭部に銃口を向けて、ひと思いにトリガーを引いた。
――頼む、当たってくれ!
そう願いながら、全てをこの一発に賭ける。
――パンッ!
乾いた音が響いた瞬間、
「――っ!」
横尾の側頭部から、薔薇のような血しぶきが辺りに散った。
僕の放った弾丸が、見事に彼女の頭部を撃ち抜いたのである。
横尾の身体は一瞬にして横に倒れ、彼女の手にしたメスがカランと音を立てながら床に落ちた。
その途端、僕の身体を押さえつけていた女の子の力が嘘のように感じられなくなる。
女の子は蜘蛛医者と共にピタリとその動きを止めたかと思うと、さらさらとまるで砂のように、その姿を虚空の中へと消し去ってしまったのだった。
僕は激しい息を整える間もなく立ち上がり、いまだ仰向けに倒れる美月に駆け寄る。
美月は大きく目を見張り、涙を浮かべながら何度も口をパクパクさせて、
「美月!」
助け起こした僕の身体を、痛いほど抱きしめてきた。
嗚咽を漏らしながら、美月は僕の胸に顔を埋め、ただただ泣いた。
その身体は激しく震え、僕の身体を抱きしめる彼女の指が背中に痛いほどだった。
「終わったよ、美月――」
「……うん……うん……!」
泣きながら頷く美月の身体を、僕もぎゅっと、抱きしめた。




