第2回
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僕はその姿に驚愕した。自分が今、何を目撃しているのか、なかなか理解することができなかった。
そのあまりにリアルな質感は、昔動物園で眼にしたワニの革肌と全く同じ。けれど間違いなくそいつは二足歩行で立っており、肩に担いだ偃月刀の刃の鈍い光が、それが偽物でないことを如実に物語っているように僕には見えた。
竜人の周囲にはぶんぶんと何匹ものハエが飛び交っており、そのハエをウザったそうに手で払い除けながら、鼻をひくつかせてグルグルとその大きな口から唸り声を漏らしている。
あの口では到底言葉など発せそうには見えないけれど、そもそもこんなあり得ない世界でそんな常識的なことが通用するのかどうかすらも怪しく思える。
僕は声を漏らすわけにはいかないと、高瀬に顔を向けて、このあとどうするか目で合図を送ろうと思ったのだけれど――
「……っ!」
そこにはすでに、高瀬の姿はどこにもなかった。
慌てて周囲に顔をやれば、すでに何メートルも後ろのほう、別の木の根元に高瀬は移動しやがっていた。
あんにゃろう、僕を囮にひとりで逃げるつもりだったのに違いない。
なにが『一緒にゲームに参加できれば、それだけ生き延びるチャンスが増やせるかもしれない。あわよくばふたりで協力してポイントを稼げるかもしれない』だ。
いきなり僕のことを放っといて逃げるようなやつ、やっぱり信用できるはずがなかったのだ。
僕は苦々しく思いながら、なるべく足音を立てないように抜き足、差し足、高瀬の方へと歩みを進める。
竜人はまだ僕らには気づいていないらしく、目をぱちくりさせながらしきりに首を巡らせていた。
幸いにも気づかれることなく高瀬のところまで移動できた僕は、声に出さないままこれ見よがしに顔を歪めてやりながら、高瀬に向かって中指を立ててやる。
高瀬はしきりに両手を合わせて「ごめん、ごめん」と声を出さずに口をパクパク動かしたが、それがこいつの本心からの謝罪だなんて、到底思えるはずもない。
それから高瀬はさらに後ろのほうを指さしながら、竜人から遠ざかることを提案してきた。
僕はいま一度、軽く竜人を振り返り、まだ奴が僕らに気付いていないことを確認してから、高瀬に先に行くよう促した。
――お前、先に行け。僕、あとをついてく。
ジェスチャーでそれを伝えれば、高瀬はこくこく頷いて、右手で丸を作ってすり足で歩き始めた。
僕はそんな高瀬の後ろを少し離れてついて行きつつ、ふと後ろに視線をやって、
……いない。
そこに竜人がいないことに気付いて、ほっと胸を撫で下ろした。
撫で下ろしたのだけれど、すぐそばから荒い鼻息が聞こえて改めて視線をやって、
「――っ!」
瞬間、僕の足はとんでもない早さで駆けだしていた。
高瀬の脇を抜けて先頭に躍り出たところで、
「えっ、おいっ――うわぁあぁっ!」
高瀬も僕たちを追いかけてくるあの竜人に驚きの声をあげて駆け出した。
あとは僕と高瀬、どちらが先にあの竜人から逃げ切るかのデスレースである。
「馬鹿! なんで見つかってんだよ!」
高瀬が走りながら僕に叫んだ。
「知るか! 僕たちのにおいじゃないかっ?」
ワニは百メートル離れたところからでも獲物の匂いに気付くのだとか、そんな話を聞いたことがあるような気がする。
もしそれが本当なのだとしたら、竜人が鼻をひくつかせていたあの時点で、アイツはすでに僕らの存在に気付いていたということだ。
僕らの後ろからは、どすどすと重たい足音が迫りくる。
あの偃月刀を振り回しながら草葉を掻き分け、けれど僕らよりだいぶ足が遅いらしく、あっという間にその距離が開いていくのがすぐに判った。
この調子なら、簡単に逃げ切ることができそうだ。
なんてのんきなことを考えていると、
「――のわっ!」
「――ぐはっ!」
突然地面から何かが僕らの身体を包み込んできたかと思うや否や、僕らの身体は一瞬にして空中へと持ち上げられてしまったのだ。
――罠だった。
漫画やアニメでたまに見かけるような、持ち上げ式の網の罠である。
まさかあんなものが現実に(ここは現実ではないのだけれど)あるだなんて思ってもおらず、いったいどういう仕掛けで大の大人たる我々を樹上へと持ち上げたのか、まったく考える余裕すらないくらいに僕と高瀬の身体は激しく絡みあいながら、
「い、痛い! 高瀬、離れろ!」
「できる訳ねぇだろ!」
と互いに互いを蹴り合った。
そこへ、あの竜人が姿を現す。
僕は諦めて高瀬の身体を押しやりながら、樹下の様子を窺い見た。
どうやらあの追いかけてきた竜人とは別にもうふたり(二匹?)の竜人が居て、そのふたりが木の太い幹に引っ掛けた網の左右を力いっぱい引っ張る形で、僕らは樹上に持ち上げられているらしかった。
さらに追いかけてきた竜人はその手にした偃月刀を構えており、今からその刃で僕らの身体を突き刺し、或いはバラバラに切り裂こうとしているのが、恐ろしげなその顔と目から推察できた。
もはやこうなってしまってどうすることもできそうにない。
僕も高瀬もバックパックを背負ったままで、今のこの状況を打破できそうなものが例えバックの中にあったとしても、今さらそれを取り出すこともできそうになかった。
僕は全身汗びっしょりになりながら、それでも高瀬よりもあとに死んでやろうと高瀬の身体を下に引っ張る。
「ば、なにしやがんだ、佐倉!」
「どうせ死ぬならお先にどうぞ!」
「てめっ、この野郎! ふざけんな!」
「さっき僕を見捨てようとしてただろうが!」
「だからそれは謝っただろ!」
「知るか! 裏切者!」
「生きるか死ぬかのゲームで裏切りも糞もあるか!」
「僕のことを誘っておいて、いきなり囮にしやがって!」
「うるせぇ! そのために俺はお前を誘ったんだ!」
「こ、こいつ、いきなり本性現しやがったな!」
罠にかかったまま、僕らは取っ組み合いの大乱闘である。
と言っても、網に身体の自由を奪われているので、殴る蹴るなんてしてるうちに、どんどんどんどん網は僕らの身体に絡んでいった。
さすがに竜人たちもそんな僕らの様子に戸惑いながら、呆気にとられたように口をぽかんと開けていた。
きっと僕らはアイツの偃月刀に斬り刻まれて、あの大きな口で喰われるのだ。
少しでも長く生き延びてやろうと高瀬をぐいっと下に押しやったところで、
――パンッ パンッパンッ!
聞き覚えのある銃声が聞こえてきた。
その途端、竜人の構えていた偃月刀が、弾かれるように地面に落ちた。
竜人は赤く染まった目を抑えながら、あっちにこっちにふらふらしている。
そんな竜人を、残るふたりの竜人も驚いたように目を丸くして見つめていたが、
――パンッ パンッ!
今度は自分たちの足下に弾丸が飛んできたことに驚いて、その手からぱっと網の端を離すものだから大変である。
僕らの身体は悲鳴とともに、一瞬にして地面に向かって急落下。
柔らかい地面のお陰で怪我ひとつせずにすんだのだけれど、高瀬と一緒に全身を網が絡まりあげているものだから、身動きひとつ取れないことに代わりはなかった。
そんな僕らのすぐ脇を、さんにんの竜人たちはどすどすと足音を立てながら逃げて行って――あっという間に、その足音は遠くどこかへ消えていった。
あとに残された僕らのもとに、どこからか軽い足取りの音が近づいてくる。
「――よう、楽しそうだな?」
僕はそんな軽い口調で口にする零士さんに、
「……言うほど楽しくはないので早く助けて」
正直にそう懇願するのだった。




