第1回
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瞼を開くと、目の前にはたくさんの人たちが並んでいた。
バスの遅延を知らせるターミナルの放送が辺りに響き渡り、エンジン音や走行音、バスを待つ人々の話し声が至る所から聞こえてくる。
――これは、帰ってきたってことなのか?
僕は慌てるようにスマホを取り出し、日付と時刻を確認した。
不思議なことに、そこに表示されていた時刻は、僕があの『マーダーゲーム・トライアル』のアプリを起動した時と、数分も進んでいなかった。
或いはこのスマホがおかしいのか、とターミナルの壁に設置されたデジタル時計に顔をやれば、やはりそこにはスマホと同じ時刻が表示されている。
もしかして、さっきまでのアレは、夢、だったとか?
あのアプリを起動しながら、僕は妄想の世界に耽っていたとでもいうのだろうか。
疑問に思いながら、僕は数人先に並んでいるはずの藤原さん――いや、もしかしたら、それすらも僕の妄想した彼女の名前なのかもしれない――に視線を向けた。
けれど、
「……あれ?」
そこに、あの茶色い髪の女の子の姿は、どこにもなかったのだった。
まさか、あの女の子すら、僕の創り出した妄想の産物だったとでもいうのだろうか。
あまりのことに困惑しているなか、低いエンジン音が近づいてきた。
多くの人が待ち侘びていたバスが、僕の並ぶ乗り場に入ってきたのだ。
停車したバスの扉が開き、ようやく列が動き始める。
僕も足元に置いていたバックパックを背負い直すと、前の人たちに続くようにして足を進めた。
そうしてバスに乗ろうとした、その時だった。
『――待ってて』
突然、藤原さんのあの声が脳裏に浮かび、僕は思わず足を止めた。
その途端、後ろに並んでいた人が、どんっと僕の背中にぶち当たった。
振り向けば、「おい、なにしてんだ、早く乗れ!」と顔で訴えかけてくるおじさんが。
「す、すみません」
僕は改めてバスに乗り込もうと、ステップに足を乗せたところで、
「――ご、ごめんなさい!」
そんなおじさんの脇を抜けるようにして列から抜け出し、バスターミナルの乗り場脇へと足早に戻ったのだった。
「ちっ」と忌々しそうに舌打ちするおじさんは僕をひと睨みすると、ぶつくさ文句を垂れながら、それでも大人しくバスに乗り込んだ。
あっという間にバスは満員になり、僕の目の前で発車する。
僕はそれを見送りながら、深い深いため息を漏らした。
いったい僕は、何を考えているのだろうか。
どうしてあのバスに乗らなかったのだろうか。
あんな僕の妄想の声に従うだなんて、僕はいったい、どうしてしまったのだろう。
僕はさらに大きくため息を吐くと、今一度スマホを取り出した。
表示された画面に並ぶアプリの中から、『マーダーゲーム・トライアル』のアイコンを長押しする。
こんなアプリをダウンロードしてしまったのがいけなかったのだ。
こいつのせいで、僕はあんな訳のわからない妄想に耽ってしまったのに違いない。
僕はそのアプリを削除しようと項目を開いて、
「……あれ?」
そこに『削除』の文字がないことに首を傾げた。
試しに他のアプリが削除できるか項目を開いて確認すれば、普通に『削除』の文字が表示される。
「……なんで?」
僕はもう一度『マーダーゲーム・トライアル』のアイコンをタップして、項目を開いてみる。
何度項目を開いてみても、やはりそこには『削除』の文字なんて表示されなくて。
「……無駄だよ」
すぐ後ろから声がして振り向けば、そこには藤原さんの姿があって、僕を見上げるようにして立っていた。
藤原さんは、白いふわりとしたシャツはそのままに、なぜかジャージの長パンツを穿いている。
「あたしも、何度もアプリを消そうとしてみたの。けど、消せなかった」
そんな彼女に、僕は、
「ふ、ふじわら、さん……?」
確かめるように訊ねると、藤原さんはこくりと小さく頷いて、
「――夢なんかじゃないよ。あたしたち、確かにあの世界で殺されかけたの」
「そ、そんな……」
たじろぐ僕に、藤原さんはおもむろに手にしていたビニール袋を差し出してくる。
いったい、何を僕にくれるのだろう、と思っていると、
「下着とジャージ。下着はそこのコンビニで買ってきたの。ジャージはあたしのだけど、今はこれで我慢してくれる?」
どういう意味だろう、と僕は最初その意味することが理解できなかった。
けれど、そう言えば緒方と取っ組み合ったあのあと、僕は無意識のうちに失禁していたわけで……
慌てて穿いているジーンズに視線を落とせば、僕の股間はぐっしょり濡れているのが一目でわかった。
藤原さんがあのとき『待ってて』と僕にいったのは、多分、こういうことだったのだ。
「あ、ありがとう……」
僕は素直にそれを受け取ると、一度パンツを穿き替えるべく、急いで男子トイレへとダッシュした。
藤原さんにはあとで下着の代金を返さないと、と思いながら、少し大きめのトランクスを穿き、明らかにウェストのサイズが合わないジャージの短パンに足を通した。
脱いだジーンズと下着はビニール袋の中に放り込んで固く閉じ、バックパックの中にしまい込む。
トイレの鏡で確認すれば、なんだか妙な姿の僕がいた。
けど、あんな小便に濡れたジーンズを穿き続けるよりはずっとマシだ。
僕はトイレをあとにすると、待合所で座って待っている藤原さんのもとへ足を向けた。
「あ、おかえりなさい」
藤原さんは、待合室の椅子に座ったまま僕を見上げて、
「下着、大丈夫だった? 念の為に、少し大きめのにしといたんだけど……」
「あ、あぁ、大丈夫、ありがとう」
僕はバックパックに手を突っ込み、財布を取り出しながら、
「そんなことより、下着の代金を……」
すると藤原さんは、両手を小さく振りながら、
「いいよいいよ! あたしのこと、助けてくれたでしょ? だから、これはせめてものお礼だと思って、ね?」
「いや、でも――うん、わかった」
それから藤原さんはこくりと頷くと、彼女の隣の席をぽんぽん叩いて座るよう僕を促す。
僕はなんとなく嬉しいような、恥ずかしいような思いのなか、素直に彼女の隣に腰を下ろした。
「……びっくりしたよね?」
「あ、あぁ。まさか、あんなことになるだなんて」
「あたしも、最初はそうだった。アレが現実に起こったことだなんて、とても信じられなかった。けど……あれは間違いなく、現実に起こった出来事なんだよ」
「……うん」
認めたくなかったけれど、こうして藤原さんとあのマーダーゲームの話をしているのだから、僕はアレが現実であることを認めざるを得なかった。
「あたしはこれで4回目のゲームだったの。だから、念の為に着替えを用意しておいたんだ」
「え?」
着替え?
僕はふと藤原さんのジャージの長パンツと僕の穿く短パンを見比べてからそれを察し、
「……あ、あぁ、おかげで助かったよ、ありがとう。ごめん、ちょっと情けなかったね」
「しかたがないよ」
藤原さんは、そう自分にも言い聞かせるように、
「あんな怖い思いしたら、誰だってお漏らししちゃうに決まってるじゃない」
そんなはっきり口にされると、僕もどう返事をすればいいのかわからなかった。
僕はなるべくそこから話題を変えるべく、口を開いた。
「そ、それにしても、すごかったね、零士さんと篠原さん。あのふたり、いったい何者なんだろう。藤原さんはどれくらい知ってるの、あのふたりのこと」
すると、藤原さんは静かにため息を吐いてから、
「――あのね、悠真くん」
突然苗字ではなく、下の名前で僕を呼んだ。
「え、あ、な、なに?」
すると藤原さんは、僕の顔をじっと強く見つめながら、
「――あのふたりのこと、絶対に、信じたらダメだからね」
はっきりと、そう口にしたのだった。




