第16章 第6章:生還するための意思決定
フィビアス: 「……フローレン様、風向きが変わりました。先ほどから気圧が急激に低下しています。北の空を見てください。あの分厚く、禍々しい色の雲……あと1時間もすれば、この絶壁は暴風雨に包まれます。視界はゼロになり、岩肌は濡れて滑り、体温は急速に奪われるでしょう。」
フローレン: 「……。……そうだね。このまま登り続ければ、あと30分で頂上だ。でも、下りるなら今この瞬間が最後のチャンスになる。……シュペルク、君はどう思う?」
シュペルク: 「……。……えっ、俺ですか? いや、そりゃあ……。ここまで、死ぬ思いをして登ってきたんですよ。指の皮は剥けて、全身筋肉痛で、さっきの『フロー』とかいうので精神的にもヘトヘトです。あとたった30分で終わるなら、無理してでも登りきっちゃった方が楽なんじゃないかって……。今さらこの絶壁を懸垂下降で戻るなんて、考えただけでゾッとしますよ。」
フローレン: 「それが『サンクコスト(埋没費用)・バイアス』という心の罠だよ、シュペルク。 費やした時間、努力、痛みが大きければ大きいほど、人間は『もったいない』という感情に支配されて、合理的な判断ができなくなる。 クライマーが死ぬ原因の多くは、技術不足じゃない。この『撤退の判断』を誤るからなんだ。」
フィビアス: 「フローレン様のおっしゃる通りです。シュペルク、今のあなたの判断基準は『これまでの苦労』という感情に基づいています。ですが、今必要なのは『これからの生存確率』という冷徹なデータだけです。 私たちが頂上に立ったとしても、その後の暴風雨の中で下山できなければ、それはただの『遭難』であり、『完登』ではありません。お母さんとして、そんな無責任な行動は見過ごせません。」
フローレン: 「かつて、エベレストに無酸素で登ったメスナーという男がいた。彼は言ったんだ。『登頂の成功よりも、生きて帰ることの方が高度な芸術である』と。 クライマーにとっての意思決定は、感情を切り離す『デタッチメント(分離)』のプロセスなんだよ。 頂上に立ちたいという自分、苦労を無駄にしたくないという自分を、まるで他人のように客観的に観察して、切り捨てる。 彼はターンバック・タイム……つまり、『何時までに着かなければ、どんなに晴れていても引き返す』というルールを、出発前の理性が保たれている時に設定していたんだ。」
シュペルク: 「……。……。……。……分かりました。……。……。悔しいし、めちゃくちゃ怖いですけど、フィビアスの言う通りだ。 俺は、アイゼン師匠に『生きて帰ってこい』って言われて送り出されたんだ。頂上で凍死体になるために、斧を振るってきたわけじゃない。 ……フローレン様、俺、撤退を支持します。この壁は逃げない。また、もっと強くなってからパズルを解きに来ればいい。」
フィビアス: 「……シュペルク。見直しました。あなたは臆病ですが、自分の虚栄心よりも生命を優先できる、賢明な戦士です。」
フローレン: 「合格だよ、二人とも。……一流のクライマーは、撤退を決めた瞬間に、もう次の登攀の準備を始めている。 彼らにとっての失敗は『終わり』ではなく、次の一手をより確実にするための『学習データ』に過ぎないんだから。 感情を排し、生存という唯一の目的のために、今、最も合理的な選択をする。これが、私が1000年見てきた中で、最も気高く、最も困難な人間の知性だよ。」
シュペルク: 「……よし。決まりだ。フィビアス、ロープの準備を! 撤退だって、攻めの姿勢でやってやりますよ! 世界一速い懸垂下降を見せてやるからな!」
フィビアス: 「焦って操作を誤らないでくださいね。私がしっかりとバックアップを取りますから。 フローレン様、降下を開始します。……それにしても、フローレン様。撤退を促した割に、あそこの岩陰に見える『未開封の宝箱』を未練がましく見つめるのはやめていただけますか。 精神のデタッチメント(分離)はどうしたのですか?」
フローレン: 「……。……。……あれは、データ。将来、回収すべき貴重な学習データなんだよ……。」
フィビアス: 「強弁しないでください。さあ、降りますよ。」
フローレン: 「……。……。……ちぇっ。……。……でも、そうだね。生きていれば、また次のチャンスがある。 人間の時間は短いけれど、こうして何度も挑戦を繰り返す姿は、魔法の深淵を探求する私にとっても、とても励みになるよ。……行こう。この嵐を抜けた先に、温かいスープと、また新しい冒険が待っているはずだから。」




