第15章 第5章:孤高の背中
フローレン: 「……少し休憩しようか。このあたりの岩棚なら、三人座っても崩れないよ。……シュペルク、さっきの『フロー』の反動で、指の感覚がなくなってるでしょ。無理は禁物だよ。」
シュペルク: 「……はぁ、はぁ。……バレましたか。なんだか、魂をどこかに置き忘れてきたみたいに、指先が他人のものみたいです。……。フローレン様、さっき言ってた『魔薬』って言葉、ちょっと分かりました。あんなに怖かったのに、またあの、世界と溶けるような感覚に戻りたがってる自分がいる。」
フィビアス: 「依存症の兆候ですね。困ったものです。……フローレン様、以前おっしゃっていた『指を失っても登り続けた男』の話、詳しく伺えませんか。シュペルクが余計な万能感に溺れる前に、極限に挑む者の『代償』というものを、この愚か者に教えてやってください。」
フローレン: 「……そうだね。彼の名前は山野井というんだ。1000年以上生きる私から見ても、彼は最も『人間離れ』した、それでいて最も『人間らしい』男だった。 彼はギャチュン・カンという、神様が住むような高い山の北壁に挑んだ。そこで彼は、想像を絶する不運と嵐に見舞われたんだ。雪崩に巻き込まれ、視力を失いかけ、酸素も尽きた。下山する時には、手足の指が凍りついて、石のように硬くなっていた。」
シュペルク: 「……。……それで、どうなったんですか?」
フローレン: 「普通の人なら、そこで救助を待つか、絶望して動けなくなる。でも彼は違った。 彼は救助隊を呼ぶことを拒んだんだ。……なぜか分かる? 彼はね、『自分の意志でここに来たのだから、何が起きても自分の責任だ』という、究極の自己責任の精神を持っていたから。 他人に命を預けることは、彼にとって自分の人生を他人に譲り渡すことと同じだったんだね。 彼は凍った指でロープを握り、目が見えない中を、ただ感覚だけを頼りに数日間かけて自力で下りてきた。……生還した時には、指を10本、失うことが決まっていたよ。」
フィビアス: 「……10本。魔法使いが杖を握る指を失うのと、同等以上の絶望。……ですが、彼はそれでも登ることをやめなかったとおっしゃいましたね。」
フローレン: 「うん。彼は病院のベッドで、自分の欠損した指を見つめて、こう言ったんだ。『まだ付け根が残っている。これなら、もっと難しい岩を登るための新しい技術を作れる』って。……ねえ、二人とも。これは単なる強がりじゃないんだよ。 彼の中心にあるのは、他人の称賛や名声といった、外側からの評価じゃない。 クライマーの多くが持つ『内的な達成動機』……。自分の中に立てた旗に、自分だけで辿り着くという、純粋すぎて他人が入る余地のない孤独な喜びなんだ。 彼は、指を失うことよりも、自分の精神が『登ることを諦める』ことの方を、死よりも恐れていたんだね。」
シュペルク: 「……孤独な、喜び。……。俺には、まだ全然分からないです。俺は、アイゼン師匠に褒められたかったし、フェ……じゃなかった、フィビアスに見直されたいって思っちゃう。 誰にも知られずに、たった一人でそんな地獄みたいな場所で、自分を試すなんて……。」
フィビアス: 「……。シュペルク、それは今のあなたがまだ『子供』だからです。……ですが、フローレン様。その山野井という方の生き方は、あまりにも美しく、そしてあまりにも残酷です。 社会性や協調性を尊ぶ人間という種族の中で、彼はたった一人で『個』として完成してしまったのですね。」
フローレン: 「そうだね。彼は孤高だった。でもね、孤独を愛することと、人を愛さないことは別だよ。 彼は同じく登山家である奥さんと支え合いながら、指のない手で、今も岩に向き合っている。……クライマーが持つ『謙虚さ』は、巨大な岩壁という、自分の力だけではどうにもならない『絶対的な他者』と向き合い続けることで育まれる。 自分の傲慢さが1ミリでもあれば、岩は牙を剥く。だから彼らは、自分を極限まで削ぎ落とし、謙虚に、誠実に、ただ一歩を刻む。……その背中は、ヒンメルの背中とはまた違う、静かな力強さに満ちていたよ。」
シュペルク: 「……傲慢さが、岩を怒らせる。……。俺のこの怖がりも、少しは謙虚さになりますかね。俺、岩を登り始めてから、地面に立ってる時の自分がどれだけ威張ってたか、ちょっと恥ずかしくなってきた。」
フィビアス: 「自覚があるなら結構です。……フローレン様、話を聞いていて、少しだけ彼らの気持ちが分かりました。 私たちが1つの魔法を完成させるために、数年、数十年と地味な研究を積み重ねるのと、本質は同じなのかもしれません。 他人に認められるためではなく、ただ『その真理に触れたい』という渇望。 それこそが、長い寿命を持つエルフであるあなたと、刹那を生きる彼らをつなぐ、共通の言語だったのですね。」
フローレン: 「……。……。……物知りだね、フィビアス。……。さあ、話は終わり。休憩はおしまいだよ。 彼の話をしたのは、君たちに『死ね』と言いたいからじゃない。 どんなに困難な状況でも、自分の意志で、自分の責任で一歩を踏み出すことの尊さを知ってほしかったんだ。 指が震えてもいい。怖くて泣いてもいい。でも、その一歩を他人のせいにしないこと。 それが、この壁を……そして人生という壁を登り切るための、唯一の魔法だよ。」
シュペルク: 「……。……。よし。行きますよ。俺は指10本全部残して、この壁の頂上まで行って、うまいメシを食うんだ。 それが、俺なりの『自律』ってやつです!」
フィビアス: 「相変わらず食欲が動機ですか。……ですが、悪くない目標です。フローレン様、参りましょう。 伝説の登山家にはなれずとも、私たちは私たちの旅を続けなければなりませんから。」
フローレン: 「うん。……あ、待って。あそこの岩の影にある宝箱みたいな形の……」
フィビアス・シュペルク: 「「行きませんよ!!」」




