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第14章 第4章:フロー状態と魔法の深淵


シュペルク: 「……。……。……。」


フィビアス: 「……。……。……シュペルク? 静かですね。いつもなら『もう帰りたい』だの『足が棒だ』だの、3分に1回は泣き言を言うはずですが。……急に黙り込むと、かえって不気味です。何か悪いものでも食べましたか?」




フローレン: 「静かに、フィビアス。今の彼は、私たちが知っているシュペルクじゃない。……彼は今、『フロー』に入っているんだよ。」



フィビアス: 「……フロー? 魔法の奔流(魔力流)のことでしょうか。ですが、彼から魔力は感じられません。ただの、汗臭い戦士のままです。」



フローレン: 「いいや、もっと深い精神の深淵だよ。心理学者が提唱した概念なんだけど、極限の集中状態、あるいは『自己の消失』を伴う没入状態のこと。 クライマーが壁を登っている時、彼らの意識から日常の雑念はすべて消え去る。 晩ご飯に何を食べるとか、誰かに嫌われたとか、1000年後の平和とか、そんなものは一切関係なくなるんだ。 意識はただ、次の一手を掴む指先の摩擦感と、肺に取り込まれる冷たい空気の感触、そして筋肉の絶妙な収縮だけに限定される。 今のシュペルクを見てごらん。彼の目は、岩肌以外の何も映していないでしょ?」


シュペルク: 「(……右、30センチ上。カチ。……左、ヒールフック。……呼吸。……止めるな。……連動させろ。……)」


フィビアス: 「……確かに。彼の動きから、迷いが消えています。先ほどまでの、あの不格好で震えていた動作が嘘のようです。 まるで、最初から岩の一部であったかのような、無駄のない……洗練された動き。 魔法の術式を、一音の狂いもなく高速で紡いでいる時のような、静かな狂気を感じます。」


フローレン: 「そう、それこそがクライマーが追い求める『マインドフルネス』の究極の形だよ。 魔法使いが魔法の深淵を覗くとき、私たちは世界のことわりと一体化する感覚を味わう。 それと同じことが、この絶壁でも起きているんだ。 彼らは肉体の限界に挑むことで、精神を極限まで圧縮する。その圧縮された精神が、ある一点を越えた時、自分と岩の境界線が消えてなくなる。 自分が岩を登っているのか、岩が自分を受け入れているのか、分からなくなる瞬間。……ヒンメルも、戦っている最中に時々あんな顔をしていたな。」


フィビアス: 「自分と対象の境界が消える……。 それは、私たちが攻撃魔法を放つ瞬間、魔力の粒子と自分の意志が完全に同期する感覚に似ているのかもしれません。 ですが、それは非常に危険な状態でもあります。自己を忘れるということは、生存本能という『安全装置』すら外してしまう可能性がある。」


フローレン: 「その通り。だからこそ、フローは『魔薬』のようなもの。 多くのクライマーが、この『超集中』の快感、世界と溶け合う全能感に取り憑かれて、より困難な、より死に近い場所へと向かってしまう。 1000年生きる私にとっても、その一瞬の輝きは眩しすぎる。 私たちが一生をかけて辿り着く魔法の真理の断片を、彼らはたった数時間の登攀で、その肉体をもって掴み取ろうとするんだから。」


シュペルク: 「……ふぅ。……はぁ。……あ。……。……あ、あれ? フィビアス? フローレン様? 今、俺、どこまで登りましたっけ?」


フィビアス: 「……正気に戻りましたか、この筋肉ダルマ。 あなたは今、この難所の核心部クルクスを、魔法のような身のこなしで突破しました。 自分の意志でやった自覚はないのですか?」


シュペルク: 「えっ? いや、なんか……気づいたら指が勝手に動いてて。 怖さも、高さも、全然感じなかったっていうか。 頭の中が真っ白で、でもすごくクリアで……。 自分の心臓の音まで、岩の割れ目に響いてるみたいな、変な感覚だったんです。 ……あ、今急に思い出したら、また足が震えてきた。うわぁぁ、高い! なんで俺こんなところに立ってるんだよ!」




フローレン: 「おかえり、シュペルク。今の君が見た景色を忘れないで。 それは、どんな魔法の教科書にも載っていない、君自身の魂が刻んだ『魔法』なんだから。 集中力が、恐怖という最大の敵を味方に変えた瞬間だよ。」


フィビアス: 「……やれやれ。また元の、使い物にならない臆病者に戻ってしまいましたね。 ですが、安心しなさいシュペルク。今のあなたの動き、私がしっかりと目に焼き付けました。 私が魔法の安定を保つように、あなたが揺らいだ時は私が支えてあげます。……だから、情けない顔をして私の服を掴むのはやめてください。伸びます。」



シュペルク: 「フィビアス……! お前、たまに良いこと言うよなぁ! よし、今の感覚を忘れないうちに、あともう一息……登ってやりますよ!」


フローレン: 「ふふ。……でも、気をつけてね。 フローの後は、急激に精神的な疲労が来る。 クライマーの中には、集中が切れた瞬間に糸が切れた操り人形みたいになっちゃう人もいるんだ。 ……ま、その時は私が適当な魔法で受け止めてあげるけど。」


フィビアス: 「フローレン様、その『適当』が一番不安です。シュペルク、死にたくなければ、最後まで気を引き締めなさい。」


シュペルク: 「へいへい! 分かってますって!」


フローレン: 「(……本当に、面白い。人間の時間は短いけれど、その密度は、私たちが想像するよりもずっと……深く、広いのかもしれないね。)」

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