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第11章 第1章:垂直の壁とエルフの視点


シュペルク: 「……。……。……。……無理です。いや、絶対に無理だって! フローレン様、空を見てください。さっきから鳥が俺の目の前を横に飛んでるんですよ? つまり、ここはもう人間が二足歩行でいていい高さじゃないってことです!」




フローレン: 「シュペルク、騒がないで。空気が薄くなるから。……それに、この高さまで来ると、風の音が下界とは違うでしょ? 澄んでいて、何も混ざっていない音。これは1000年経っても変わらない、数少ないもののひとつだよ。」



フィビアス: 「フローレン様、感慨に耽っているところを失礼しますが、シュペルクの言うことにも一理あります。 私たちの目的はあくまで中央諸国への移動です。わざわざ魔法での飛行も困難なほどの乱気流が発生する、この『断崖』を素手で登る必要性があるのでしょうか。私の服も汚れました。洗濯が大変なんです。」





フローレン: 「フィビアス、これは教育の一環。……かつてヒンメルたちと旅をしていた時、これに近い壁を登る男に出会ったんだ。名前は忘れてしまったけど、彼は山野井という古い時代の登山家の精神を継いでいると言っていた。 彼は魔力も持たず、ただ指の先だけでこの岩の表面にぶら下がり、何時間も、何日も過ごしていたんだよ。私は不思議で仕方がなかった。なぜ人間という短い寿命の種族が、こんな一歩間違えれば死ぬだけの無意味な行為に、貴重な時間を費やすのかって。」


シュペルク: 「そ、その男の人はどうなったんですか……?」



フローレン: 「彼は笑って答えたよ。『エルフのあんたには、一分が一年になる感覚は分からないだろうな』って。クライマーの人格特性の根幹にあるのは、圧倒的な『自己効力感』なんだ。 自分の指一本、筋肉の収縮一つが、自分の生と死を完璧に制御しているという感覚。下界では、運命や他人に翻弄されることが多いけれど、壁の上では自分こそが自分の神様になる。その瞬間、人間の脳内では時間の流れが歪むんだよ。彼らにとっての数時間は、私たちが漫然と過ごす100年に匹敵する濃密さを持つことがある。」



フィビアス: 「自己効力感……つまり、自分の能力が環境に対して有効であるという強い確信、ですか。 確かに、魔法の修練においても、術式が完璧に機能するという確信は精神の安定に繋がります。ですが、それはあまりにも危ういバランスの上に成り立っているように思えます。」


フローレン: 「そうだね。だからこそ、彼らは究極的に『自律的』なんだ。 誰かに助けてもらうことを前提にしていない。山野井という男のエピソードがある。彼は極限の山で凍傷になり、指を10本失った。普通ならそこで絶望して終わる。でも彼は、『まだ指の付け根が残っている。これならもっと難しい壁が登れる』と言って、また岩に向き合ったんだよ。これは単なる執着じゃない。自分の存在を、何者にも依存させないという、純粋すぎるほどの精神の現れなんだ。」


シュペルク: 「指を10本……。考えただけで気絶しそうだ。俺なら、指先をちょっとぶつけただけで一週間は休みたいですよ。 なんでそんな怖い思いをしてまで……。やっぱり、その人たちは脳のどこかが壊れてたんじゃないですか?」



フローレン: 「壊れている、というよりは、別の回路が開いているのかもね。 最近の研究……ああ、これからの時代に解明されることかもしれないけど、一流のクライマーは脳の『扁桃体』という恐怖を司る部分の反応が、一般人とは全く違うらしいんだ。恐怖を感じないわけじゃない。恐怖を『データ』として処理しているんだよ。『怖い、どうしよう』ではなく、『右手のホールドが滑りやすい。だから左足に重心を8割移す』。感情をロジックに変換して、精神を研ぎ澄ませていく。その果てにあるのが、さっき言った『濃密な時間』なんだ。」



フィビアス: 「……。フローレン様、お話は分かりましたが、シュペルクの膝の震えが岩壁に伝わって、微振動が起きています。 論理で上書きする前に、物理的に彼が落下しそうです。」





フローレン: 「おっと、それは困るね。シュペルク、深呼吸して。 集中力を高めることは、魔法でバリアを張るよりも君を守ってくれる。クライマーは、壁を登る行為を『自分との対話』だと言う。 今、君の体の中で何が起きている? どこに力が入っていて、どこが震えている? それを他人事みたいに観察してみて。それが、極限状態での意思決定の第一歩だよ。」





シュペルク: 「他人事……他人事……。俺はいま、崖を登っている情けない戦士を、空から見ている幽霊だ……。 ああ、あいつ、手が滑りそうだぞ。馬鹿だなぁ、もっと指を深くかけろよ……。……って、俺のことじゃねーか!!」



フィビアス: 「……少しだけ、動きが良くなりましたね。 フローレン様、このまま彼を先頭にしてもよろしいですか。彼は恐怖を『注意深さ』に変え始めているようです。臆病者なりのリスク管理、といったところでしょうか。」





フローレン: 「うん。それでいいよ。 クライマーは、頂上に着くことよりも、その過程で自分がどうあったかを重視する。シュペルク、君が今感じているその『死の予感』と『生への執着』こそが、君を一人前の戦士に、そして、かつて私が知ったあの男たちのような高みへと連れて行く。……さあ、パズルを解こうか。この1000メートルの垂直の迷路を。」



シュペルク: 「1000メートル……。言わなきゃよかった……。でも、やるしかないんだな。……フィビアス、俺が落ちそうになったら、その、すぐ魔法で助けてくれよ?」



フィビアス: 「……。善処します。ですが今は、自分の指先だけを信じなさい、シュペルク。」


フローレン: 「ふふ、いいコンビだね。ヒンメルたちも、今の二人を見たら笑うと思うな。……さあ、行こう。この壁の向こうに、新しい『人間を知る』ための景色が待っているはずだから。」

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