第10章:1000年の諦観 ―― 明らかに観て、次へ進む
【場所:聖都オイサースト近郊・勇者ヒンメルの像が立つ丘】
(夕暮れ時、黄金色の光が丘一面を染め上げている。かつて世界を救った勇者ヒンメルの像の前に、三人の旅人が辿り着いた。長かった「あきらめ」を巡る思索の旅の、終着点である)
シュペルク:「……着いたな。ヒンメル様の像だ。……何度見ても、この人はいい顔してやがる。まるで、俺たちのヘッポコな旅を全部お見通しだって言ってるみたいだぜ」
フィビアス:「……シュペルク様、ヘッポコなのはあなただけです。……ですが、本当に。この丘に吹く風は、これまで通り過ぎてきたどの街の風よりも、穏やかで……どこか、すべてを許してくれているような気がしますね」
フローレン:「……ああ。彼は、あきらめるのがとても上手な人だったからね。……シュペルク、フィビアス。この旅で、私たちはたくさんの『あきらめ』に出会ってきた。脳が自分を守るための回路、心が壊れないための安全装置、社会が押し付けてくる見えない檻……。君たちは今、あの少年の瞳や、恋人を看取った青年の姿を思い出して、何を感じている?」
シュペルク:「……正直、まだ整理がつかねえよ。あきらめることが『賢い』時もあれば、『残酷』な時もある。……でもさ、フローレン様の話を聞いてて思ったんだ。俺、今まで『あきらめる』ってのは、真っ暗な穴に落ちて、もう二度と這い上がれないことだと思ってた。でも、そうじゃないんだな」
フィビアス:「……ええ。私も、あきらめることは『冷酷』で『敗北』なのだと信じていました。でも、文学や精神医学の視点から眺めてみると、それは限られた命を持つ人間が、壊れそうな心を持って、それでも前を向くための……とても切実で、尊い『技術』なのだと知りました」
フローレン:「……いい答えだ。二人とも、よく学んだね。……最後にもう一つだけ、魔法使いとして、そしてエルフとして、大切なことを伝えよう。日本語における『あきらめる』という言葉の語源を知っているかい?」
フィビアス:「語源……ですか?」
フローレン:「諸説あるけれど、古くは**『明らかに観る』から来ていると言われているんだ。これを仏教や哲学の用語で『諦観』**と呼ぶ。……真実を、あるがままに、濁りのない目で見届けること。それが『あきらめる』という言葉の、本来の美しさなんだよ」
シュペルク:「明らかに……観る? 投げ出すことじゃなくて、ちゃんと見るってことか?」
フローレン:「そう。自分が万能ではないという事実を、明らかに観る。他人の心は制御できないという理を、明らかに観る。生まれた環境の残酷さを、明らかに観る。……そして、自分に残された時間が有限であることを、明らかに観る。……その上で、絶望に沈むのではなく、『今の自分にできること』を静かに選び取ること。それが、1000年を生きる私が辿り着いた、究極のあきらめだよ」
フィビアス:「……フローレン様。あなたは、私たちが死んでいくことも、ご自身の長い孤独も、そうやって『明らかに観て』こられたのですか?」
フローレン:「……ああ。かつて、ヒンメルに聞いたことがあるんだ。『君は、自分の死をあきらめているのか』って。彼は笑ってこう言ったよ。**『フローレン、あきらめることは、心に大きな余白を作ることだよ。その余白があるからこそ、僕は君との思い出を、こんなにたくさん詰め込むことができたんだ』**ってね」
シュペルク:「……心に、余白……」
フローレン:「そう。全能感や執着、見栄や恐怖……。そういったものでパンパンになった心には、新しい希望を入れる場所がない。だから人は、あきらめることで不要なものを手放し、心の中に空き地を作るんだ。……シュペルク、君が自分の弱さをあきらめて認めたとき、そこには『仲間に頼る』という新しい強さが入り込んだはずだ。フィビアス、君が時間の短さをあきらめて受け入れたとき、そこには『一瞬を慈しむ』という魔法が宿ったはずだ」
フィビアス:「(目元を拭いながら)……はい。……私たちは、あきらめることで、より自由になれたのですね」
フローレン:「……そうだね。あきらめることは、終わりじゃない。それは、**『次に進むための、最も賢明な準備』**なんだ。……1000年という時間は、エルフにとっても長すぎる。でも、あきらめる術を知っているからこそ、私はこうしてまた、君たちと新しい旅に出ることができたんだよ」
シュペルク:「フローレン様……。あんた、やっぱりすげえ魔法使いだよ。……よし! 俺もあきらめたぜ! 俺はアイゼン師匠みたいな無敵の超人にはなれない! でも、俺は俺のやり方で、死ぬまであきらめが悪く、仲間を守る戦士になってやる!」
フィビアス:「……ふふ。ようやく、いい意味で往生際が悪くなりましたね。……フローレン様。この旅で学んだ『あきらめ』の知識は、私がいつか誰かに引き継ぎます。……あきらめることが、自分を救うことになるのだと。そして、明らかに観た先には、必ず新しい光があるのだと」
フローレン:「……ああ、頼んだよ、フィビアス。……さて、長話はこれくらいにしよう。ヒンメル、待たせてごめんね」
(フローレンは杖を軽く振り、魔法を唱えた。ヒンメルの像の周りに、色鮮やかな『蒼月草』に似た花々が、一瞬にして咲き誇る。それは彼女がかつて、あきらめきれずに探し続けた、思い出の花だった)
フローレン:「……ヒンメル。私は少しずつだけど、人間を知ることをあきらめないでいられているよ。……君が教えてくれた『諦観』という名の優しさを、この子たちがしっかり受け取ってくれたからね」
(像のヒンメルは、どこまでも澄み渡るような笑顔で、三人の未来を見守っているようだった)
フィビアス:「……フローレン様、日が暮れます。次の街へ急ぎましょう。……あきらめずに歩けば、明日の朝には美味しいパンが食べられますよ」
シュペルク:「おっ、いいな! 俺、シチューも食いたいぜ!」
フローレン:「……ふふ。私の報酬系も、そう言っているね。……行こうか。あきらめることで得たこの余白に、次はどんな物語を詰め込もうか、考えながら」
(三人の影が、夕闇の向こうへと伸びていく。彼らの足取りは、旅の始まりよりもずっと軽く、そして力強い。あきらめることを知った魂は、もはや何ものにも縛られず、自由な風のように、果てしない地平へと続いていくのでした)




