表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
49/61

第5章:愛と病の境界線 ―― 制御不能な他者と身体


【場所:北側諸国・癒しの泉のほとり】


(一行は、難病を治すと言い伝えのある「癒しの泉」を訪れていた。そこには、衰弱した恋人を抱え、奇跡を求めて彷徨う一人の青年、カイルがいた)


シュペルク:「……なあ、あの二人、さっきからずっと泉の水を汲んでは、彼女に飲ませようとしてるけど。……彼女、もう、飲み込むのも辛そうじゃないか?」


フィビアス:「……ええ。お顔の色もよくありません。あの方の体は、もう癒しの水を求めている段階ではないのかもしれません」


カイル(青年):「……お願いだ、フローレン様! あなたは伝説の魔法使いなんだろう? どんな病でも治す魔法を知っているはずだ! 彼女を見捨てないでくれ、俺は、彼女をあきらめることなんてできないんだ!」


フローレン:「……カイル。残念だけど、魔法は万能じゃない。失われた臓器や、尽きようとしている生命の灯火を燃やし続けることは、魔法の領域を超えているんだ」


カイル:「そんな……! あきらめろって言うのか? 彼女はまだこんなに若いのに! 死を待てと言うのか!」


フローレン:「……あきらめることは、死を待つことと同じじゃないよ。カイル、君が今彼女に強いている『戦い』は、彼女のためなのかな? それとも、彼女を失う恐怖に耐えられない、君自身のためなのかな?」


フィビアス:「……フローレン様、少し言葉が鋭すぎます」


フローレン:「……かもしれないね。でも、精神医学や医学倫理の観点から見れば、これは非常に重要な**『境界線』**の問題なんだ。シュペルク、フィビアス。人は、自分の力で制御できるものと、できないものの区別をつけられなくなった時、最も深く苦しむんだよ」


シュペルク:「制御できるものと……できないもの?」


フローレン:「そう。自分の身体であっても、病という生物学的なプロセスは、時に本人の意志を超えて進行する。これを**『制御不能な身体』**と呼ぶ。そして、他者の心や命の終わりもまた、自分には決してコントロールできない領域にある。カイル、君が彼女を愛しているのは分かる。でも、愛という名の下に、彼女の『静かに終わりを迎えたい』という無言の意志をあきらめさせ、無理やり現世に繋ぎ止めようとするのは、他者の尊厳への侵食なんだ」


カイル:「……尊厳への、侵食……」


フローレン:「医学において、かつては『死は敗北である』と考えられていた。だから、あきらめずに治療を続けることだけが正義だった。でも現代の精神医学や緩和ケアの考え方では、**『適切なあきらめ(受容)』**こそが、患者と家族を救うための最終的な医療行為だとされている」


フィビアス:「治すことが目的ではなく、共に歩み、最期を受け入れることが『治療』になるということですか?」


フローレン:「その通りだよ、フィビアス。これを**『共生としての諦観』**と呼ぶ。完治という目標をあきらめることで、初めて『残された時間をどう穏やかに過ごすか』という新しい目標に目を向けることができるようになるんだ」


シュペルク:「……あきらめることで、新しい道が見える。第1章の時もフローレン様はそんなこと言ってたな。でもよ、好きな女が死にそうだってのに、ハイそうですかってあきらめられるもんかよ。俺なら、世界中を駆け回ってでも薬を探すぜ」


フローレン:「その姿勢は立派だよ、シュペルク。でもね、恋愛においても同じことが言える。恋愛における『あきらめ』とは、相手の自由意思という、自分には決して制御できない領域を尊重することなんだ」


フィビアス:「……それは、自分を好きになってくれない相手をあきらめる、ということですか?」


フローレン:「それも一つだね。相手を自分の思い通りに動かしたい、自分だけを見てほしいという欲求は、ある種の支配欲でもある。その執着をあきらめて手放したとき、初めて相手を一人の対等な人間として愛することができるようになる。……カイル、君の恋人を見てごらん」


(カイルが、ぐったりとした恋人の手を取る。彼女は微かに目を開け、悲しげに、しかし慈しむように微笑んでいた)


恋人ミナ:「……カイル。……もう、いいのよ。私は、あなたとこの泉に来られただけで、十分に幸せ。……これ以上、私を治そうとして、あなた自身を傷つけないで……」


カイル:「……ミナ。……でも、俺は……!」


フローレン:「カイル。君が今あきらめるべきなのは、彼女の命そのものではない。『彼女を自分の力で救えるはずだ』という全能感と、『彼女を失いたくない』という自分の執着だ。それをあきらめて、彼女の今の心と向き合ってごらん」


カイル:「……俺の、全能感……」


フローレン:「人は自分の限界を知ったとき、初めて謙虚になれる。そして、その謙虚さの中にこそ、真の対話が生まれるんだ。君が彼女の運命をあきらめて受け入れたとき、君たちは死という壁を超えて、心を通わせることができるようになる」


フィビアス:「……残酷ですね、フローレン様。あきらめることが愛だなんて」


フローレン:「エルフから見れば、人間はいつも『あきらめられないもの』と『あきらめるべきもの』を履き違えて苦しんでいるように見える。でもね、その葛藤こそが人間らしさでもあるんだろうね。……フィビアス、私は彼女を治す魔法は持っていない。でも、彼女の苦痛を和らげ、意識を明晰に保つ魔法なら使えるよ」


フィビアス:「……緩和の魔法、ですね」


フローレン:「ああ。それが、私の提示できる妥協点、あるいは『あきらめの上の最善』だ。カイル、どうする?」


カイル:「(涙を拭い、ミナの手を強く握る)……お願いします、フローレン様。俺……ミナの話を、ちゃんと聞きたい。あきらめるんじゃない。ミナがどう生きたいのかを、ちゃんと見届けたいんだ」


フローレン:「……いい顔になったね。それが、制御不能な現実と向き合う人の顔だよ」


(フローレンが杖を掲げ、柔らかな光がミナを包み込む。彼女の荒かった呼吸が整い、頬にわずかな赤みが戻った)


ミナ:「……ありがとう。……カイル、大好きよ」


カイル:「ああ、俺もだ、ミナ。……ずっと、そばにいるからな」


(泉のほとり、静かな対話が始まる。シュペルクはそれを見て、鼻を啜っていた)


シュペルク:「……あきらめるってのは、投げ出すことだと思ってたけど。……あんなに優しくて、重いものなんだな」


フィビアス:「ええ。自分の無力さを認めることは、剣を振るうよりも勇気がいることなのかもしれません」


フローレン:「……あきらめることは、心の中に大きな『余白』を作ることだ。その余白に何を入れるかは、本人次第。カイルたちは今、その余白に『愛』と『思い出』を詰め込もうとしている。それは、どんな魔法でも叶えられない、尊い時間だよ」


フィビアス:「……フローレン様。もし、いつか私が……いえ、何でもありません」


フローレン:「何だい? あきらめずに言ってみてよ、フィビアス」


フィビアス:「……やっぱりあきらめます。フローレン様には、まだ早いお話ですから」


フローレン:「……エルフの私に早いなんて、人間は本当に複雑だね」

制御不能な他者と身体: 精神医学や倫理学において、自分の意志でコントロールできない領域(他者の死生観、不治の病の進行)を認め、執着を手放すことの重要性。


緩和ケアと受容: 「治癒」という目標をあきらめ、QOL(生活の質)や「安らかな最期」に目標をシフトさせること。これは敗北ではなく、医学的・精神的な「適応」である。


愛における「あきらめ」: 相手を自分の所有物や、救うべき対象としてコントロールしようとするエゴをあきらめること。それが相手の尊厳を守ることに繋がるというパラドックス。


全能感の放棄: 人間としての限界(無力さ)を認めることが、他者との真の絆(対話)を生むという心理的プロセス。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ