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第1章 第1章:報酬系の終わり ―― 脳内再計算


シュペルク:「……はぁ、はぁ……。もう、一歩も、動けねえ……。ここで終わりだ」


フィビアス:「シュペルク様、座り込まないでください。埃が付きます」


シュペルク:「埃なんてどうでもいいだろ! 膝が笑ってるんだよ。震えが止まらねえんだ。これ、才能の問題だ。俺には、最初からこの山越えに耐えられるだけの器なんてなかったんだ」


フィビアス:「……また始まりましたね。さっきまでは威勢よく斧を振るっていたではありませんか。あなたの『あきらめ』は、いつも唐突すぎます」


シュペルク:「唐突じゃない。ずっと限界だったんだ。でも、これ以上頑張っても無駄だって、心が……いや、体が拒否してるんだよ。アイゼン師匠なら、こんなところで弱音なんて吐かないんだろうな……」


フローレン:「シュペルク。それは君の根性の問題じゃないよ」


シュペルク:「フローレン様……。慰めてくれるのか?」


フローレン:「違うよ。君の脳が、論理的な判断を下しただけだ。いま君が感じている強烈な『あきらめ』の正体は、脳内の**報酬系ほうしゅうけい**による再計算の結果だよ」


フィビアス:「ほうしゅうけい、ですか? フローレン様、またそんなマニアックな話を……」


フローレン:「魔法を極めるには、それを放つ主体である人間の仕組みを知る必要があるからね。シュペルク、君の脳の中には**側坐核そくざかく**っていう部位がある。そこからドーパミンが出ることで、人は『よし、やるぞ』っていう意欲を維持できるんだ」


シュペルク:「ドーパミン……? 魔法の薬か何かか?」


フローレン:「天然のブースト薬みたいなものかな。でも、それには代償が必要だ。脳は常に、目標を達成するための『コスト』と、得られる『報酬』を天秤にかけている。君はこれまで数時間、この険しい山道を登り続けてきた。その肉体的苦痛というコストが、脳が想定していた『山頂に辿り着く報酬』の価値を上回ってしまったんだ」


フィビアス:「つまり、割に合わないと判断したということですか?」


フローレン:「そう。そうなると前頭前野が判断を下す。『これ以上のエネルギー消費は生存に関わる、活動を停止せよ』とね。これが生物学的な、そして心理学的な『あきらめ』の発生メカニズムだよ。シュペルクがいま絶望しているのは、心が弱いからじゃなくて、脳が正常に自分の身を守ろうとしているからに過ぎない」


シュペルク:「脳が、勝手に俺の限界を決めてるってのか……。じゃあ、俺がここで『もうダメだ』って思ってるのは、俺自身の意志じゃないのかよ?」


フローレン:「意志というよりは、生存戦略だね。でも、この『再計算』は常にアップデートされる。シュペルク、君がもしここで『あと五分歩けば豪華な夕食が食べられる』と確信したら、脳はどう動くと思う?」


シュペルク:「え……? 豪華な夕食、か。肉とか?」


フローレン:「そう。そうすれば、報酬の価値が跳ね上がる。すると脳は再びドーパミンを放出し、疲労を一時的に麻痺させて、君の体を動かす。心理学で言うところの『期待値の調整』だよ。あきらめとは、決して終わりを意味する言葉じゃない。次の報酬をどこに設定するかを探るための、一時的なゼロ地点なんだ」


フィビアス:「フローレン様、難しい話はそれくらいにしましょう。シュペルク様の脳を再起動させるには、理論よりも実利です」


シュペルク:「……実利?」


フィビアス:「今日の夕食は、私が村で仕入れた上質な干し肉をたっぷり使ったシチューにします。ただし、あと十分以内に野営地に着いた場合のみです。それ以上遅れるなら、シュペルク様は保存食のパンだけです」


シュペルク:「……! フィビアスのシチュー……。肉たっぷり……」


フィビアス:「どうしますか? 脳の再計算は終わりましたか?」


シュペルク:「……う、おおおお! やってやる! 俺の脳よ、ドーパミンを出せ! 肉だ、肉を食うんだ!」


フローレン:「あ、立ち上がった。やっぱり人間は面白いね。あんなに深淵な『あきらめ』に沈んでいたのに、胃袋の期待一つでシステムを書き換えてしまうんだから」


フィビアス:「フローレン様、感心していないで歩いてください。あなたも油断するとすぐにミミックを追いかけて足を止めますから」


フローレン:「あれは『宝箱が出るかもしれない』という報酬系への刺激が強すぎるから仕方ないんだよ。……まあ、いいや。シュペルク、君のあきらめが少しだけ先延ばしになったなら、今のうちに山を越えてしまおう」


シュペルク:「へへ……。あきらめってのは、脳の休憩みたいなもんか。なら、肉を食ってたっぷり休ませてやるよ!」


フィビアス:「はいはい。では、行きますよ。ぐずぐずしているとシチューは無しです」


フローレン:「……1000年生きるエルフから見れば、人間のあきらめはあまりに速くて、あまりに脆い。でも、だからこそ彼らは、一瞬の閃きで絶望を飛び越えていけるんだろうね」

 脳科学的: 側坐核、ドーパミン、報酬系、前頭前野によるコスト・ベネフィット分析。

• 心理学的: 二次的コントロール(期待値の調整)、生存戦略としての活動停止。

• キャラクター性: フローレンの博識さと超然とした態度、フィビアスの現実的かつ世話焼きな面、シュペルクの自己評価の低さと単純さを会話に反映させています。

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