今夜のご馳走
夕暮れのキッチンに、じっくり煮込まれたシチューの香りが漂っていた。コトコトと静かに鳴る鍋の音が、外の冷たい風の音と混ざり合う。主婦は木べらを使いながら、ゆっくりと煮汁をすくい、口元に運んだ。
「……うん、いい感じ」
赤ワインと香味野菜で煮込んだ肉は、ほろりと崩れるほど柔らかい。深い旨味が広がり、満足げに微笑んだ。
「ママ、お肉?」
背後から幼い声が聞こえる。振り返ると、エプロンの端を握りしめた息子が鍋を覗き込んでいた。
「そうよ。今日は特別なシチューなの」
「やったぁ!」
子供が嬉しそうに飛び跳ねる。夫の帰りが遅い日は、母と子だけの静かな夕食が続いていた。けれど今夜は違う。特別な夜なのだ。
リビングには、まだ夫の姿はなかった。最近、彼は毎日遅くまで残業をしている。理由はわかっていた。夫の同僚が突然、会社に来なくなったからだ。
「いいやつだったんだけどな。最近、家にも来てたし……どこ行っちゃったんだろう」
夫は数日前、そう言ってため息をついていた。
——どこへ、ね。
主婦はくすりと微笑んだ。
1. ママ友との会話
「この前さ、新しいバッグ買ったの!◯◯ブランドの限定品なのよ」
ママ友の美奈子が、得意げにバッグを見せつけてきた。公園のベンチで、いつものようにママたちが集まり、他愛ない会話をしている。
「素敵ね」
適当に相槌を打つ。
「でしょ?でも、あなたにはちょっと手が届かないかもね」
美奈子は意地悪そうに笑う。主婦の生活がそこまで裕福でないことを知っていて、わざと言っているのだ。
この人は、いつもそうだ。自慢話ばかりで、人を見下す。誰かが困っていても助けることはない。ただ、上から笑うだけ。
(……こんな人を、私は招かない)
主婦は静かに思った。
2. パート先の店長
「ちょっと、これミスしてるじゃない!何回言ったらわかるの?」
スーパーのバックヤードで、店長の怒鳴り声が響く。
「すみません……」
「すみませんじゃないでしょ?頭使ってよ、主婦なんだから!」
理不尽な言葉を浴びせられながらも、主婦は何も言わず頭を下げた。いつものことだ。
店長は、強い者には媚び、弱い者には容赦なく牙を剥く。誰かが助けを求めても、見て見ぬふりをするような人間だ。
(……こんな人を、私は招かない)
心の中で、同じ言葉を繰り返す。
3. 穏やかな食卓
「ただいま……」
「おかえりなさい。お疲れ様」
夫がリビングに入ってくる。ネクタイを緩め、深いため息をついた。
「最近、仕事が忙しすぎるよ……。◯◯(同僚の名前)が突然いなくなって、上司からのプレッシャーもすごいんだ」
「そんなに忙しいの?」
「ああ……警察も色々調べてるみたいだけど、手がかりはないらしい。もう何日も連絡がつかなくて、会社は騒然としてるよ」
主婦はそっと夫の肩に手を置く。
「とりあえず、ご飯にしましょう。お腹、空いたでしょう?」
「……そうだな」
テーブルには、湯気の立つシチューが並んでいた。柔らかく煮込まれた肉が、ごろりと大きく盛られている。夫はスプーンを手に取り、一口すくう。
「……これ、すごく美味しいな」
「でしょ?特別なレシピなの」
主婦は優しく微笑んだ。夫はもう一口、また一口と夢中になって食べ続ける。子供も無邪気にスプーンを口に運んでいた。
「ママ、これ何のお肉?」
夫がふと手を止める。
主婦は微笑んだまま答えた。
「……秘密よ」
夫は一瞬だけ怪訝そうにしたが、それ以上は何も聞かず、再びシチューを口に運んだ。
4. 違和感
食事が進むにつれ、夫はふと首を傾げた。
「なんかさ……この味、どこかで食べたことがある気がする」
「そう?」
「うん……すごく懐かしいような……でも、なんとなく、落ち着かない味なんだよな……」
夫は考え込むように天井を仰いだ。その様子を見ながら、主婦は静かに微笑む。
「気のせいじゃないかしら」
「……そう、かな」
夫はわずかに首を振り、またスプーンを口に運んだ。
5. 静かな夜
夕食を終え、夫がシャワーを浴びている間に、主婦は静かに後片付けをしていた。
洗い終えた鍋の底には、わずかに肉の繊維がこびりついている。
それを眺めながら、主婦はゆっくりと指でなぞった。
冷蔵庫を開けると、ラップに包まれた肉の塊が静かに横たわっている。
主婦は丁寧にそれを取り出し、新しいラップに包み直した。
「明日は何にしようかしら」
独り言のように呟きながら、そっと冷蔵庫の扉を閉める。
夫の同僚——彼は「いい人」だった。
だから、招かれたのだ。
何も変わらないまま、夜が静かに更けていく。