絶世の美女クラリッサが、冴えない男爵令息と結婚した理由
今夜も彼女は、多くの令息達に囲まれていた。
絶世の美女と名高い、クラリッサ・ムア伯爵令嬢。ただ立っているだけで、ダンスに誘われ、料理を取り分けた皿やワイングラスを勧められ、バルコニーへ連れ出されそうになる。
受け取れるものは受け取り、断るべきものは断りながら笑みを浮かべていたが、息つく間もなくさすがに疲れてきた。
こうなることが分かっていて、彼女が積極的に夜会に参加する理由はただ一つ。自分の目で結婚相手を選びたい。それだけだった。
『男はね、見た目が大事よ。何十年も一緒にいるなら、毎日見ていても飽きないくらいの美形じゃないと愛も冷めちゃうわ』
と言いながら、美しい令息の元へ嫁いだ姉。数年後には……
『男なんてね、何年か経てばみんな同じよ。燃え上がる愛なんてどうせすぐに冷めて、つまらない情に変わっちゃうの。クラリッサは選べる立場なんだから。後悔しない相手を、自分の目でしっかり選ぶのよ』
と言っていた為だ。
(暑いわ……)
受け取れると思っていたグラスを受け取り過ぎたせいか。火照ってきた顔を、クラリッサは扇子で優雅に扇ぐ。それでも熱は収まらず、「ご不浄に」と言いながら、令息達の波をするりと抜け出した。
人気のない東屋のベンチでふうと息を吐いていると、柔らかい足音がクラリッサの元へ近付いてきた。
膝の上で畳んでいた扇子をパッと開き、隙間から覗き見た顔。それは過去の夜会で、他愛ない世間話を何度かしただけの、とある男爵令息だった。
自分より少し高いだけの頼りない身長、醜男という訳ではないが、印象に残らない素朴な顔。『普通』や『平凡』。そして……『つまらない』という言葉がピタリと当てはまる男だが、何故かクラリッサは彼のことをよく覚えていた。
「ご気分はいかがですか? あの……少し苦しそうでしたので……」
隣に座るでもなく、適切な距離を保ちながら心配そうに尋ねる彼。クラリッサは扇を下ろし、ふっと微笑んだ。
「ええ、大丈夫ですわ。夜風に当たったら、すっきりしました」
「よろしければ、お屋敷までお送りしましょうか。あ……いえ、お屋敷ではなく、馬車まで」
あたふたするその姿には、何も下心が感じられない。こんな場所なのだから、少しくらいそういったものを見せてもいいのに……と思いながら、クラリッサは魅惑的な唇を開く。
「馬車までではなく、屋敷まで送っていただけませんか? やはり、飲みすぎてしまったようです」
差し出された華奢な手を、彼は戸惑いながらもしっかりと握った。
クラリッサは、これまで何人かの令息と、こうして夜会から同じ馬車で帰ったことがある。夜会で惹かれた令息が、二人きりになった時にどんな態度を取るか、本当に気が合うのかをじっくり確かめる為だ。
夜会では紳士でも、馬車という密室に入った途端に性的欲求を露にする者や、一方的で強引な会話を押し付ける者は論外。
が、紳士的で会話も弾んだにもかかわらず、何故かその先に進みたいとは思えない者もいた。
これは相手ではなく、自分に原因があるのではないか……と思い始めていたところに、その『つまらないのに何故か記憶に残る令息』からの申し出があり、試してみたいと思ったのだ。
穏やかに揺れる馬車の中、彼は自分からは何も喋らなかった。クラリッサが話し掛ければ、愛想良く答えてはくれるものの、どうにも会話が続かない。
ふと、姉の言葉が脳裏に浮かぶ。
『燃え上がる愛なんてどうせすぐに冷めて、つまらない情に変わっちゃうの』
(冷めるどころか……この男性とは一瞬も燃え上がることなく、つまらないまま一生を終えそうだわ)
クラリッサは話すことを止め、馬車の窓からぼんやりと月を眺めながら、屋敷に着くまでの退屈な道程をやり過ごした。
「送ってくださり、ありがとうございました」
彼のぎこちないエスコートで馬車を下りると、クラリッサは形式的な礼をし、侍女と共に屋敷へ向かう。
玄関ポーチに足を踏み入れようとした時……背中にふわりと温かいものを感じ振り返る。そこには、さっき礼をして別れたそのままの場所で、自分をにこやかに見つめる彼の姿があった。軽く会釈し、玄関扉を閉めると、少し経った後でようやく車輪の音が響く。月明かりが照らす淡い道の奥へと、遠ざかっていく馬車の濃い影。窓ガラス越しにそれを見つめながら、クラリッサは思った。
(……もう一度、会いたい。会って一緒に帰りたい)
理由は全く分からなかった。
次の夜会でも彼と会い、同じように馬車で送ってもらった。二回目だからといって会話が弾む訳でもなく。やはり月を眺め過ごすことが多かったが……その酷く退屈なはずの空間を、何故か心地好いと感じ始めていた。
屋敷へ着き、別れ、この間と同じように振り返る。するとそこには、この間と同じように、自分をにこやかに見つめ続ける彼の姿があった。
三回目も全く同じで……クラリッサはとうとうくるりと踵を返し、彼に問う。
挨拶をして別れたというのに、何故馬車にも乗らず、ずっとこちらを見ているのか。何故自分が屋敷に入るまで帰らないのか。
────その答えを聞いて、彼女は、彼と結婚することを決めた。否……心から、結婚したいと思った。
◇◇◇
耳をつんざく泣き声に、母親よりも乳母よりも先に飛んで行って、生まれたばかりの息子を抱き上げる夫。
にこにこと赤子をあやすその姿に、絶世の美女クラリッサは、寝ぼけ眼でふにゃりと微笑んだ。
(結局一瞬も燃え上がることはなかったわ。でも……こうしてずっと温かい)
『お別れしたのに、何故馬車にも乗らず、ずっとこちらを見ているのですか? 何故私が屋敷に入るまでお帰りにならないのですか?』
『ああ……それは……お屋敷に入るまでに具合が悪くなったりしないかなとか、危ない目に遭ったりしないかなとか。玄関の扉が無事に閉まるまで、お見送りしたいのです』
いつかのそんな会話を思い出し、彼女の胸はほかほかと包まれる。
月明かりに浮かぶ愛しい二つの影を、クラリッサは優しく抱き締めた。
ありがとうございました。