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佐藤麻里亜の悪徳コンサル日記

佐藤麻里亜の悪徳コンサル日記 ~価格設定(プライシング)に悩まない経営者は素人(モグリ)である~

「それで結局マリアさんとお呼びする方が? それともマリオさん?」

 初顔合わせの顧客(クライアント)が発するいつもの質問に、オレはいつも通りの答えを返す。

「どちらでもお好きなように」

 定石によればこの後の顧客(クライアント)には、2パターンの手筋しか用意されてはいない。すなわち

「それでは真名の方でお呼びしましょう」

 と悟ったような口調で言ってくるか、あるいは

「やはり戸籍上のお名前でお呼びする方が礼に相応しいか」

 と多少の堅苦しさを纏って申し出てくるか、大抵の場合彼らはそのいずれかの理由を選択するのが常であった。しかしこの時、オレの眼前にいた若い女性は、まるで棋士が新しい変化を見つけたかのようにその両瞳に小宇宙の煌めきを映し、禅庭の桟敷に描かれた無限の流れのようにその艶やかな黒髪を揺らしながら、静かな口調でこう言ったのだ。

「それでは(ワタクシ)のことも真理愛(マリア)、とお呼びください」


 オレの名前は佐藤麻里亜(マリア)顧客企業(クライアント)経営者(トップ・マネジメント)を相手に企業戦略の立案やら商品開発、マーケティング等の支援をする、いわゆる経営コンサルってのを生業にしている。オレの本当の名前は「魔理悪(マリオ)」であったらしいが、学の無い親父のせいで、戸籍上の登録名は「麻里亜(マリア)」になってしまったことは前に話した通りだ。そりゃぁオレにだって若い時分には、真剣に改名を検討したことが一度ならずあったことは事実だが、今では少なからず親父に感謝もしている。何しろ、イニシャルトークだけで眼前の美女を喜ばすことができるのであるから、まぁこれは親父の功績ということにしておいてやろう。


 オレの新しい顧客(クライアント)は自らを加藤真理愛と名乗っていた。年の頃はオレより4、5歳ほど若いと言ったところであろうか。30を過ぎたオトコの顔にはそのオトコの人生がにじみ出る、というのがオレの自論の一つではあるが、これはどうやらオトコに限ったことではないらしい。彼女の白磁のように透き通った端正な顔立ちには、彼女の気品と聡明さが表れているようであり、彼女の知性と好奇心は、彼女の双眸に無数の星々を瞬かせているようであった。


 そう、オレは危うくこの顧客(クライアント)に本気でホレそうになっていることを自覚していた。これが顧客企業(クライアント)最高経営責任者(CEO)でなければ今宵のディナーにでも誘いたいところではあるが、顧客(クライアント)との色恋沙汰は-他のコンサルのことは知らないが-自制するのがオレのポリシーである。オレが彼女自身にも大変興味を持っていることは否定のできない事実であるが、しかしオレには、彼女のビジネスの方に-少なくとも現時点では-より多くの興味を持っている。まぁ、食事に誘うだけであればいずれ接待にでもかこつければできなくもないが、しかしオレは、こういう手合いには接待が逆効果であることを、過去の経験から学んでいる。その昔「残業なんてのは仕事のできない奴のエクスキューズだ」などと宣うマンガの主人公がいたが、オレに言わせれば「接待なんてのは契約の取れない営業(セールス)のエクスキューズ」なのだ。そもそも、会社のカネで呑むことを喜ぶような小さい輩に、大きな仕事は期待できまい?


「それにしても、苗字まで似ているんですね、(ワタクシ)たち。ホント、おかしいですわ」

 そう言ってクスクスと笑う彼女の声が嬉しそうに弾んでいるように聞こえたのは、きっと聞いているこちらの耳が弾んでいるからに違いない。尤も、残念ながらオレの観察力(オブザベーション)は、彼女のこの気安さが、彼女がオレに気があるが故ではないことを明確に突き止めている。恐らくこれは彼女の処世術なのだ。彼女はその知性と美貌ゆえにこれまでの人生において、周囲からは距離をおかれること少なくはなかったはずである。あるいは逆に、彼女の美貌のみを対象に声をかけてくるような輩にはうんざりもしていよう。そう、彼女のこの気安さは彼女なりのリトマス試験紙なのだ。ここで彼女の上辺のノリにホイホイ乗っかるようでは、この契約は取れない。かと言って、彼女の知性をそれなりに満足させられる相手であることを、オレはここで証明しなければならないのだ。


「加藤も佐藤もこの国では多い苗字ですからね。一説によれば両家とも藤原氏の流れを汲む、とか……」

「まぁ、それでは(ワタクシ)と麻里亜さんは、何代か遡ればご先祖様が同一人物かもしれませんわね」

 共通点を探して親近感を演出する、というのは初対面の相手との会話にあっては常套手段である。顧客(クライアント)自らからそのような反応を見せるとは、好ましいことであるには違いないが、ここで浮かれることなくオレは、少しだけ控えめに返答しておくことにした。

「もし本当にそうなら、それはとても素敵なことですね。ですが……『加賀の藤原』を起源とする加藤であればともかく、佐藤については奥州藤原は家臣に気前よく藤原性を配ったとも、そもそも奥州藤原氏自体の出自に疑義があるとも聞きますゆえ……加藤氏は佐藤にとっては主筋にあたる、というのがせいぜいのところではないか、と個人的には考えております」

「そうなんですの? 少し残念……」

 彼女は本当に残念そうな表情を浮かべながら言葉を継いだ。

「それでもやはり、お仕事をご一緒するのであれば、それはご縁のある方とでありたい、と(ワタクシ)は思いますの」

「ありがとうございます。私としては、名前が一緒というだけで喜ばしく、良いご縁で繋がっていることを期待しております」

「そうですわね。麻里亜さん、どうぞこれからよろしくご指導くださいませ」


 こうしてオレは新しい契約をひとつ手に入れたが、オレが「オレ」という一人称を使えないのは、どうやら初対面であることだけが理由ではなさそうだった。


******************************


 オレの新しい顧客企業(クライアント)はその名を「Maria & Co. Biomedics」と言った。一言で言えば、新薬開発のベンチャー企業だ。そして美人の真理愛(クライアント)は悪徳麻里亜(コンサル)に、そのサービスの価格戦略立案支援を依頼してきたのであった。


「実はお恥ずかしい話なのではありますが(ワタクシ)、弊社の商品にどのようにお値段をつけたらよいものやら、皆目見当がつきませんの……」

 お恥ずかしい話、などと真理愛さんは謙遜されているが、自社の商品やサービスの価格設定(プライシング)に悩んだことのない経営者(トップ・マネジメント)など、この世に1人もいないであろう。もしいたとすればその経営者は、自社と顧客と取引先の関係を真面目に考えていないか、あるいは、思い付きでつけた値札(プライスタグ)が偶々適正価格であったという僥倖に恵まれただけであろう。だから現下の真理愛さんの悩みは多くの経営者が通ってきた道であり、であればこそ、そこには多くの経験値が蓄積されるし、結果としてその解決策も無数に存在する。そしてそこに、悪徳コンサルたるオレのビジネスチャンスも転がっているという訳だ。何しろ他人の蓄積した経験値-例えそれにより顧客(クライアント)が家屋敷を売り払う破目に陥ったとしても、オレにはその責を負う必要はない-を、別の他人に切り売りするのが我々コンサルの仕事なのだから。オレが悪徳コンサルを自称する所以である。


 Maria & Co. Biomedics社は新薬開発のベンチャー企業であるが、その開発方法は少々特殊であった。新薬の開発と言えば長い年月をかけて研究を重ね、数多の臨床試験を経て商品化するのが一般的な方法である。また新薬開発とは言ってもその原材料や製造過程が特殊なものであることは極めて稀であり、多くの場合は既存の原料や機材と手法の組合せにより実現される。ただ、その組合せの解はそれこそ無数にあるため、同じような実験を繰り返して最適解に至るまでの時間がかかる、というだけのことである。100種類の原材料から2種類を選ぶ組合せですら既に4,950通りがあるのだが、その混合比まで考慮すれば無数の解が存在し得る。更にはその混合方法-例えば温度や時間がそのパラメータになり得る-まで考えれば、むしろある一定程度の効能を持つ新薬の組合せ解を得られることは、例えそれが最適解ではなかったとしても、奇跡に近いと言わざるを得ないであろう。


 そして、それだけの時間をかけて開発するのであるから当然、薬価には研究開発費用が載せられなければならない。薬価における原材料費の割合など数パーセントもあれば上等な部類であり、その価格の大部分は、長年月に亘って続けられた研究開発のコストによって占められているのである。従って一般的な新薬開発においては顧客、すなわち患者の多い疾病が開発ターゲットに選定されるのが常である。何故なら、患者の少ない-すなわち売上の少ない-疾病がターゲットでは、製薬メーカーはその研究開発費を回収することが困難だからである。


 Maria & Co. Biomedics社の新薬開発が画期的であると高く評価されているのは、この研究開発期間を劇的に、そう、「劇的に」という形容句ですらまだ不充分であるほどに、その期間を短縮することに成功したからである。すなわちAIを用いた基剤組合せ最適解の導出アルゴリズムにおいて、Maria & Co. Biomedics社はいくつもの重要な特許-それは競合他社を市場から事実上排除する参入障壁として機能している-を保有しているのであった。Maria & Co. Biomedics社の保有する膨大なデータベースには、過去の様々な症例における患者の疾病情報と遺伝子情報、ならびに投与された薬剤とその経過が保存されていた。すなわちMaria & Co. Biomedics社の新薬開発とは、患者1人1人の遺伝子情報と疾病情報を元に、新薬開発における膨大な組合せの中からAIが最適解を導出する、というアプローチなのだ。そしてオレの顧客(クライアント)である加藤真理愛氏は学生時代から重要な論文を発表し続け、この分野における事実上の第一人者として頭角を表していたのであった。


-あなたにとって最適な薬を提供することに、流行性感冒(フルー)希少難病(レアディズィーズ)の区別はありません-


 これが Maria & Co. Biomedics社の企業理念であるそうだ。一般的な新薬開発では長期間に亘る研究開発コストを回収するために患者の多い疾病が選択される、と先に言った。それはつまり「人為的」な難病を生み出すことに等しい。適切な薬さえあれば完治することが可能であっても、患者数が少なければ新薬は開発されず、その疾病は治療されない。それが、資本主義社会における医療の現実なのだ。しかしオレの顧客(クライアント)はその現実を否定する。1人1人に最適な薬を提供することができるのであれば、それは人為的な難病に対する特効薬も提供し得るであろう。Maria & Co. Biomedics社が「流行性感冒(フルー)」と「希少難病(レアディズィーズ)」に区別は無いと言うのは、つまりはそういうことなのだ。


「あまりご自身を卑下される必要はありません、真理愛さん。価格設定(プライシング)には様々な方法がありますので、真理愛さんのお好きな方法をお選びになればよろしいでしょう」

「様々な方法……?」

 オレは順を追って解説することにした。


 まず、最も簡単な価格設定(プライシング)方法は「他者の価格を真似る」ことだ。何を馬鹿なことを、とムキになる向きもいるだろうが、古今東西、最も多くの売手が日常的に行っている手法がこれだ。自動車だって家電品だって缶詰だって、およそあらゆる類の商品分野において、似たような機能-これにはデザインや質感も含む-を持つ商品は似たような価格であるのが何よりの証拠であろう。1,000万円の軽自動車は存在しないし、10億円のワンルームマンションも存在しない。この方法の最大の利点は、先行商品の価格が既に消費者のベンチマークとして設定されていることにある。消費者は新商品の価格設定(プライシング)の妥当性を、先行商品を元に判断することができるのである。


 しかし残念ながらこの方法は、今日の Maria & Co. Biomedics社にとっては使い物にならない。理由は無論、先行商品が存在しないから。競合他社が真似できないからこそMaria & Co. Biomedics社の新薬開発は画期的なのであり、であるからこそ真理愛氏もその価格設定(プライシング)に悩んでいるのであろう。


 オレの指摘に軽く首肯する顧客(クライアント)に対し、オレは2つ目の方法を披露する。

「多くの企業が次に考える方法は、原価積み上げ方式ですね」

 真理愛氏はこれにも首肯するが、無論彼女も、この方式がオレ達の本命ではないことを既に充分理解している。これには2つの理由があるがひとつめの理由は簡単なものだ。先にも述べた通り、薬価において原材料費が占める割合など、たかがしれている。そして更に、Maria & Co. Biomedics社の新薬開発手法にあっては、研究開発費用もほとんどかからないのだ。原価を積み上げると言っても薬の場合、1錠-あるいは1服用単位-当たりせいぜい数十円というのが関の山であろう。これでは価格設定(プライシング)の参考値に資することすらできまい。そして2つ目の理由である。


「とは言え結局は『適正利潤』の問題がありますから」

 オレの言葉に真理愛氏はハッと顔を見上げる。原価積み上げ方式とは直接原価と間接原価を積み上げた上に『適正利潤』を合して価格を決定する方法だが、ではその『適正利潤』自体はどうやって設定するものであるのか。例えば原価の合計が100円のものに対して『適正利潤』とはいくらまでのことを指すものであるのか。10%なら適正で100%なら過剰-ぼったくり-だ、とする指標など、この世のどこにも存在しまい。これが前世紀にあって一部の熱狂的な信者を擁した宗教集団であれば、価格とは須らく労働コストに換算されるべきである、とでも宣うところであろう。どうやら今世紀においては、そのようなカビの生えた言説を信じる輩は絶滅した様子であるが、「べきである」と「はずである」をはき違えているようではそれも宜なるかな。


「そうですわね、結局のところ『適正利潤』を恣意的に設定するのであれば、根拠のない価格設定(プライシング)をしていることと変わりありませんものね」

 そう、正にその通りなのだ。多くの経営者が価格設定(プライシング)に悩む最大の理由はここにある。つまるところ価格設定(プライシング)とは、すなわち顧客に対する説明責任(アカウンタビリティ)に他ならないのである。そう、価格など自由につけても構わないのだが、顧客がそれを妥当だと感じなければ購入してもらうことはできないであろう。自分のつけた値札(プライスタグ)に適当な理由をつけるためにこそ、真理愛氏を含む多くの経営者は悩んでいるのである。


「そうであれば……」

 ここでオレは逆転の発想を彼女に示す。

「お客様に価格を決めて頂くというのはどうでしょうか?」

 価格設定(プライシング)には、こういう方法もあるのだ。オレの顧客(クライアント)は、半分はその意を理解しつつもう半分は納得していない様子を見せている。端的に言えば、理屈としてその存在可能性は理解しているが、彼女の課題を解決する方法(ソリューション)としては納得していないのであろう。

「それは、いわゆる『頭の体操』……的な意味で仰っているのでしょうか?」

 オレはゆっくりと頭を振りながら返答する。無論これも、多くの売手(セラー)に長年愛用されてきている手法なのだ。


「例えばオークションなんかは、買手側から価格を提示しますよね?」

 オレの言にそっと頷く彼女を見ながら、また別の例を挙げる。

「あるいは価格交渉の場にあって、相手に先に価格を言わせるという戦術が広く採用されていることもご存知ですよね?」

 そう、やり手を自称する取引業者(ディーラー)の中には、先に価格を言ったら敗けである、という信念を持っている者も多い。こちらが買手の場合には言い値の半額から、売手の場合には言い値の倍額から交渉を始める、というルールを自身に科している経営者と、これまでオレは何人も出会ってきた。それほどまでに、価格には科学的な妥当性など存在していない。あるのは相対する売手と買手の-本人達が勝手に合理的だと信じ込んでいるだけの-妥協の産物のみである。


「あるいは仮に、真理愛さんが納得できない価格を相手が提示してきた場合、真理愛さんならどのようにされますか? 相手を詰問して、その合理性の証明を要求しますか?」

「いぇ、そのようなことは……恐らく相手との価格交渉は行うでしょうけれども……」

「それでも相手の提示額に納得がいかない場合には……?」

「きっと、その方とのお取引はご遠慮申し上げることになりますわね……」

 そう、ただそれだけのことである。互いに互いの提示額に納得がいけば契約は成立するし、そうでなければ不成立。取引価格の設定には絶対普遍の法則など介在しない。あるのはただ、相対の納得感だけである。


「株式取引などその最たる例ですよね?」

 株式市場で株が売買されるのは、当たり前のことではあるけれども、買う人と売る人がいるからである。買う側は「今後この株は値上がりする」と考えている一方、売る側は下がると思っているから取引が成立するのだ。これなど、互いの考える価格の合理性が相反するからこそ成立する取引の良い見本であろう。この場合、間違っても自論を相手に納得させてはならない。つまりオレがここで言いたいことのひとつはコレだ。全ての事象に科学的・合理的な理由をつけようなどと思い込む必要は無く、時としてそれは害悪ですらある、と。


「優秀な方ほど、そして真面目な方ほど、理由をつけて正当性を証明したくなるものです。ところが実際のところ、提示する価格の正当性など証明不可能なことであるばかりか、本当は、大してその必要性すら無いのです」

 そう言ってオレは暫くの間沈黙を保った。彼女にはオレの言を反芻する時間が必要であろうし、また、彼女にはオレの言を理解するだけの知性-と同時に、あるいはそれよりも重要な要素として柔軟性-が充分に備わっている、とオレは信じている。もし仮に彼女が、例えば

(ワタクシ)価格設定(プライシング)の合理的な手法についてお伺いしているのに、そこに合理性など無いと仰るおつもりですか?」

 等とでも言ってオレを詰問するようであれば、この契約は中途で打ち切られることであろう。しかし幸いなことに、しばしの黙考の末に真正面からオレの目を見据えてこう言った彼女の目には、更に無数の星々が瞬いていたようであった。

「あぁ、麻里亜さん、(ワタクシ)はこれまで何と愚かだったことでしょう。本当に、麻里亜さんの仰る通りですわ……いわゆる理系の悪癖、とでも言うのかしらね? 何でも証明しなければいけない気になっておりましたけれど、そうでは無いこともあるのですわね」


 こういう概念更改(パラダイムシフト)を柔軟に行える彼女の理性こそ、彼女に画期的な発明をもたらした基因なのであろう。オレは改めて彼女に対する尊崇の念を深めながら、相手に価格を決めさせる例をもうひとつ挙げた。

「他には、例えば最低価格だけは決めておいて、後の価格決定権は代理店(エージェント)に全て委ねる、という方法も考えられますが……」

「その方法は将来の参考になりますわね……」

 全く彼女はこちらの意を正しく理解してくれているようである。将来事業を拡張する際には代理店(エージェント)との契約も視野に入れておく必要がある。代理店(エージェント)とは最低販売価格との差額を折半する契約にしておけば、彼らは自分の利潤を最大限に高めるよう顧客と価格交渉を進めることであろう。これも、価格を買手-この場合は代理店(エージェント)だ-に提示させる方法の亜流である。そこまで彼女の理解が至ったところで、オレは最後の価格設定(プライシング)方法を紹介する。


「結局のところ価格には、全ての人が納得する科学的・合理的な数値など存在しない。そして、場合によっては買手がこの価格を自由に提示することも可能だとすれば……真理愛さん、それでも売手にはそれが不可能だと信じますか?」

 今や彼女の疑問は次のステージに上がっている。

「いいえ、全く。今や売手も、合理性や証明可能性から解放された領域において、自由に価格設定(プライシング)を行う権利を有していると理解しています。ですが……」

 自由な価格設定と言ったところで議論は振り出しに戻っただけである。

「根拠も合理性も不要であることは理解しましたが、一体……」

 彼女の当然の疑問に、オレは敢えて飄々と答えてやる。

「真理愛さんのお好きな価格、真理愛さんの望まれる価格をおつけになったらよろしいでしょう」


「『お好きな価格』と仰っても、素数が好きとか、そういう類のことではありませんわよねぇ?」

 それならどれほど楽であったか、と少し羨望の光をそのまなざしに浮かべながら彼女は問うた。無論、オレだってそんな答をするつもりはない。

「真理愛さん、貴女は貴女のMaria & Co. Biomedics社を、10年後にはどのような会社になさるおつもりですか?」

 価格設定(プライシング)の話をしているはずのオレの顧客(クライアント)は、この日はじめて不審げな表情を見せた。


 真理愛(クライアント)が納得していない様子であることを承知しながら、それでもオレは敢えて沈黙を守る。今や彼女にも、オレの沈黙はオレの彼女に対する新たな問いかけであることは正しく理解されているはずである。そう信じるからこそオレも沈黙を守ることができるのであるから、オレの沈黙とはすなわち、真理愛(クライアント)麻里亜(コンサル)との、相互信頼の証なのであろう。彼女は暫く黙考した挙句、降参したとばかりに頭を振りながらオレに問うてきた。


「お恥ずかしいことですが(ワタクシ)には、麻里亜さんのお訊ねの意味が理解できませんわ。もう少し、好きな価格を付ける方法について、麻里亜さんのお話をお伺いしたいと思いますの」

 真剣な表情でオレに問いかける真理愛(クライアント)には、こちらも真摯な態度で応えるべきであろう。何しろこれからオレ達は、この会社の未来の姿について語り合わなければならないのだ。少し居住まいを正してから、オレは口を開いた。


「真理愛さん、もう一度お訊ねします。真理愛さんは Maria & Co. Biomedics社を、10年後にはどのような会社になさるおつもりですか?」

 オレの再びの問いに、真理愛(クライアント)も今度は正面から答えた。

「そうですわね、10年後であれば……今よりはもっと大きな会社にして、多くのお仲間と一緒に、もっと大勢の、世界中の患者さんにお薬を届けたいと思いますわ」

 未来の夢を語るほどに双眸の星が無数に増殖していく様子を見せる彼女に魅せられつつ、オレは冷静さを装い、多少の仰々しさを伴って返答した。

「それは素晴らしいお考えです。ではまず、それを数字にしてみることから始めましょう。10年後には、何人のお仲間がいらっしゃいますか? 世界中の患者さんにお薬を届けるためには、きっと世界中に支店や研究所もあることでしょう。そのためには……」

 オレが言い終わらない前に、珍しく彼女が口を挟む。

「最新の AIサーバも必要ですし、データベースサーバのトランザクション速度も今よりずっと高速にしなければ……世界中に拠点を持つためには並列処理と同期処理も不可欠ですし、もちろん、患者さん1人1人に寄り添ってお薬を配合してくれるお医者さんと薬剤師さんも……そのために必要な投資(インベスト)経費(コスト)を考えると、必要な利潤は……」


 オレは美人とは、泣いていようが怒っていようが悲しんでいようが、例えどのような表情をしている時でも美人とは美人であることを知っている。しかし今オレの目の前にいるオレのクライアントの顔は、オレがそれまでに逢ったことのあるどの美人のそれよりも格段に美しかったこと間違いない。愛社の未来について想像の翼を大きく拡げるその時の真理愛(クライアント)は、まるでオレの存在など無いかのように屈託なく愉しそうな笑顔を浮かべていたのだから。


 しばらくの間想像の(イマジナリー)世界(ワールド)に住民票を移していた彼女が現世に転生してきたところで、オレの眼福タイムは終了した。もう少し彼女の表情を見ていたかった気がしないでもないが、しかし彼女の双眸の星々には、今や極星(ポーラースター)とも言うべき新たな輝きが見出されたようであった。価格設定(プライシング)という名の、この世の難敵に立ち向かう仲間(パーティー)であるオレ達は、勇者のみが扱うことを赦されるという伝説の名剣にも引けを取らない強力な魔法-その名を「未来逆算(バックキャスト)」という-を手に入れたのである。


「好きな価格とはつまり、(ワタクシ)の……」

「そう、貴女と貴女の会社が将来に必要とする投資(インベスト)経費(コスト)を賄うための、利潤とはいわば原資なのです。だから貴女の得るべき利潤とは、貴女が将来 Maria & Co. Biomedics社をどのような姿に育てていくおつもりか、それによって決められるべきなのです」

 美人の真理愛(クライアント)は今や正確に、悪徳麻里亜(コンサル)の言いたいことを理解しているようである。

(ワタクシ)の利益は(ワタクシ)だけのためのものではない。未来の患者さんのためにあるべきものなのですわね?」

 そう、商売(ビジネス)とは本来そういうものであるべきであろう。この至極単純(シンプル)且つ(アンド)明快(クリア)でありながら、適切(プロパー)且つ(アンド)適正(リーズナブル)商売の(ビジネス)原則(プリンシプル)を、しかし一体どれだけの経営者(トップ・マネジメント)がその航海の途上で失い、本来の航路から逸れ、荒浪に漂流し、後悔と自責の念に苛まされるという結果に陥っていることであろう。カネなど本来はヒトの便宜にすぎないというに、それを知りながら猶多くのヒトがカネに便利にされてきたのがこの世界の歴史である。そう、今この瞬間にも、世界のどこかでまた、理想と現実の非等価交換-大抵は理想の大安売り(バーゲンセール)と相場は決まっている-が行われている。悪徳コンサルを自認するオレではあるが、願わくばオレの顧客企業(クライアント)とその経営者(トップ・マネジメント)達には、そのような末路とは無縁であって欲しい、と願っているのだ。


******************************


 Maria & Co. Biomedics社が創業以来順調に業績を伸ばしてきたという事実は、真理愛氏の価格設定(プライシング)が世の中の多くの患者に受け容れられたことを意味するのであろう。「順調」という言葉が恥ずかしさに顔を赤らめて逃げ出したくなる程度には、Maria & Co. Biomedics社の業績は業界関係者の当初予想を大きく上回る成長を物語るものであった。無論、製薬業界には Maria & Co. Biomedics社と真理愛氏に好意的な関係者もいれば敵対的な、あるいは非協力的な関係者も存在する訳ではあるが、その態度の如何を問わず全ての関係者が認めざるを得ないほどの、それは急成長であったのである。当然、Maria & Co. Biomedics社には多くの注目と、そして何より資金が集まることになる。かつては価格設定(プライシング)支援をしていたオレも、今では投資家関係(IR)業務支援を行っているのだ。まぁオレとしても、順調に商売(ビジネス)を拡大している、と言えなくもないであろう。Maria & Co. Biomedics社の何百万分の一、というスケールではあるが……


 四半期(クォーター)毎に開催される投資家向け(IR)説明会を無事終わらせた真理愛氏は、最高財務責任者(CFO)の高田氏と二言三言交わした後、オレにも労いの言葉をかけてくれた。

「麻里亜さんの用意周到な準備(セッティング)のお陰で、今回もスムーズに説明会が終了しましたわ。本当にいつもお世話になって……」

 高田氏も横から賛意を表す。

「いよいよわが社の資金調達もシリーズCに突入ですが、これも全て佐藤さんのお膳立てのお陰です」

 オレは笑顔で彼に会釈を返すが、彼の言には多少の含むところがあることを、オレの観察力(オブザベーション)は敏感に察知している。自然、オレの笑顔も堅いものになっているであろうが、果たして彼はそれに気づいていいるのであろうか。


 高田最高財務責任者(CFO)はMaria & Co. Biomedics社が提携する10社の一次代理店の中でも売上高、利益率ともに最高を誇る、医療法人上麗会からの出向組である。実にMaria & Co. Biomedics社の売上の2割、粗利の四分の一を上げる同法人は、いわばMaria & Co. Biomedics社の筆頭代理店であり、近い将来総代理店の位置を占めるであろう、というのは識者の一致した見解であった。シリーズAからの資本参加組でもありMaria & Co. Biomedics社の払込済資本金の40%を占めていた上麗会は、貸借対照表(BS)損益計算書(PL)の双方を実効支配しており、今回の資金調達においてオレが最も腐心したのは実に、上麗会の出資比率であった。上麗会の目論見は無論50%以上の支配権を取得することであり、この間オレは、新規出資者を募るために奔走していた、という訳である。


「本当に……、思っていたより多くの資本家の方に出資して頂くことができましたわ」

 結果としてシリーズCは当初予定より多くの資金を調達することに成功したが、上麗会の出資比率は49.5%にまで高まった。高田氏の言う「お膳立て」とはつまり、そういうことである。オレと上麗会との間で繰り広げられた暗闘は、まずは痛み分けといったところであろうか。恐らく次の総会では、上麗会から2人目の取締役が送り込まれてくることになろうが、まぁ、そこまでは想定内である……

「これなら時計の針を数年早めることができそうですわね、麻里亜さん、高田さん。これからもよろしくお願いしますわね」

 真理愛氏の屈託の無い笑顔に、オレも高田氏も一時休戦の体で笑顔を返す。当たり前ではあるが高田氏もオレも、Maria & Co. Biomedics社の成長を願っている、という面においては同志なのであるから。


******************************


 シリーズCを経たMaria & Co. Biomedics社には、2つの戦略が取り得た。無論そのひとつは技術投資である。今後Maria & Co. Biomedics社が更なる業容拡大を目指すのであれば、AIとDBへの追加投資が必要不可欠であることは小学生男子にだって説明不要であろう。サーバの処理能力が向上すれば、より多くの患者に(商品)を提供することが叶うであろうし、それは同時にAIにより多くの経験値を積ませるー競合他社(コンペティター)との差を拡大させる-ことに適うであろう。Maria & Co. Biomedics社が技術主導の会社であることは、その創業の時と何も変わらないのである。この路線は真理愛氏(クライアント)の基本路線でありオレにも反対する理由は無いのではあるが、経営者(トップ・マネジメント)の戦略に唯々諾々と従うのは同社の役員・社員だけで充分である。対案(カウンタープラン)のひとつでも出せないようでは早晩契約は解除されるであろうし、そのように従順な(あるいは頭の固い)御仁であれば、コンサルなんてヤクザな稼業からはきれいさっぱり足を洗うことをオレはお勧めする。例え経営者(クライアント)の考えが正しくとも、継続契約を勝ち取るためには敢えて逆のことを言う、いわゆる逆張り戦略も時には必要であろう。オレが悪徳コンサルを自称する所以である。


 そういう訳でオレが提案することにした Maria & Co. Biomedics社の次の戦略は、海外への販路開拓であった。最初にオレがこの案を出した際に真理愛氏(CEO)高田氏(CFO)が想起した開拓先は、恐らくは日本人であれば10人中9人が同じ名を挙げるであろう大国、すなわち米国および中国であった。無論、この常識的な反応にオレは首を振る。誰もが考えつくような提案では逆張り戦略としては意味がないのだ。


「では、麻里亜さんは一体どの国に?」

 経営者(トップ・マネジメント)の質問に、高田氏が常識的な合いの手を入れる。

「東南アジアでしょうか? それとも欧州?」

 当然、そんなありきたりの提案をオレがする訳がない。いや、別にオレも伊達や酔狂で素っ頓狂な提案をしようという訳ではないのだ。常識的な線から少しだけ外れた対案(カウンタープラン)が議論の幅を拡げることは、多くの方にも納得頂けるところであろう。無論、常識から大きく逸れ過ぎではいけない。思考を柔軟にし視野を大きく持ってあらゆる可能性を検討するに資する、そのギリギリのラインを見極める必要があるのだが、難しいのは経営者(トップ・マネジメント)個人によって効果的なラインが異なることであろう。優秀なコンサルタントには観察力(オブザベーション)が必要である、とオレが言うことも分かるであろう? オレの観察力(オブザベーション)が導き出した答はこうである。

「中央アジアの資源大国、カザフスタンを押さえるのはいかがでしょうか?」


 無論オレにだって彼の国を推す充分な理由はあるのだが、まぁここは敢えて分かりやすく説明することにしよう。

「欧米諸国が、自分達に不利益をもたらす変革者(ゲームチェンジャー)が出現するたびに新規参入者排除を目的とした新法を制定する法治国家(ルールチェンジャー)であることには、お2人とも異論はないと思います」

 2人が頷くのを待つ間もなく、オレは畳みかける。

「個人情報の流出防止あたりを根拠(エクスキューズ)として各種データやアルゴリズムの回示を強制された挙句、最後には遺伝子情報保護を目的としてデータ押さえられ、最終的には経営権まで奪われる破目に陥るのは目に見えています。まして、失礼ながら日本人の若い女性が代表者である Maria & Co. Biomedics社 を標的(カモ)にすることなど、大喰らいの彼らにとってはケーキ1ピースにもならないでしょう」

「相手は朝食から300gのステーキにLサイズのフレンチフライをつけるような輩ですからな」

 敢えて大仰な笑声を挙げながら同意する高田氏に、真理愛氏も微笑を浮かべながら同意する。

「本当にそうですわね」

 真理愛氏の笑みが、『日本人の女性』などと差別的な表現をしたオレに対する容赦を表すものであることをオレは理解している。なにしろ真理愛氏は遺伝子情報を扱っているのだ。遺伝子を理由とした差別を長年続けてきた白人に対して、今度は被差別者たる黄色人がその遺伝子を使って白人を支配しようとしている、というのがこの商売(ビジネス)の本質であることを、真理愛氏(クライアント)は実によく理解している。


「そういう意味では中国もあり得ませんわね」

 そう、遺伝子に基づく製薬事業は非常に繊細(センシティブ)商売(ビジネス)なのである。日本に対して感情的にはニュートラルな地域の方が望ましいであろう。日本と支配/被支配の関係にあった地域は避けるのが賢明であろう。

「そこまでは分かりますが、カザフスタンというのは少し飛躍がすぎるように思えますわ。東南アジアはともかく、例えばインドやトルコでもよろしいのではないかしら?」


 真理愛氏の真っ当な質問に、しかしオレは、少しはぐらかした回答をした。経営者(クライアント)の下問に対して、この契約においてこれは、オレが初めて真っ当に答えなかった事案であった。

「あの地域が古来、南北・東西交流の結節点であったことはお2人ともご存知かとは思います。これから Maria & Co. Biomedics社が世界中に販路を拡げていくための最初の拠点として、彼の国ほど相応しい国を私は他に知りません」

 尤も、真理愛氏に対する気持ちが真摯かつ紳士であることは、彼女に最初に逢った(提案活動)時から変わっていないかったのではあるが、その想いは果たして彼女には伝わったのであろうか。しかし、真理愛氏は内心の疑念を微塵も(おもて)に出すことなく、オレ自身に対する信頼の表明を以って賛意に替えてくれた。

「麻里亜さんがそこまで仰るのであれば、(ワタクシ)はそれを信じますわ」


 こうして Maria & Co. Biomedics社は技術投資と海外販路拡大の二正面作戦に挑むことになった。技術投資は上麗会からの出向組である小林医療担当部長が、そして海外販路開拓は真理愛氏(CEO)麻里亜(コンサル)のコンビが担当することにに落ち着く。どうせ上麗会はカザフスタンなどで商売(ビジネス)ができるなどと信じてはいないのだろう。だから作戦正面の担当割においてオレの思惑通りの結論を得ることは、まぁ朝飯前ではあったのだ。


******************************


「麻里亜さん、今ちょっとよろしいでしょうか?」

 真理愛氏(クライアント)から直接音声通話(コール)が掛かってきたのは、それから3年が経った11月のとある夜のことであった。

「実は、今日の……」

 常にはメールで連絡をしてくる彼女にしては珍しく、その声音(トーン)には多分に涙の成分を含んでいるようであった。オレは言い淀む真理愛氏(ストレイシープ)の言葉を遮ると、敢えて明るい口調で問うた。

「真理愛さん、お食事はもうお済になりましたか?」

 しばしの沈黙の後、失意と知性と希望の三位一体が美しい唇から音となって現世した。

「いえ、未だですわ……」


 オレには、真理愛氏(トップ・マネジメント)に何があったのか、今日の役員会でどのような決定が下されたのか、その凡その推測がついている。何しろ、6月の株主総会でついに役員総数9人の過半数を占めた上麗会は、それまでオレに与えられていた役員会へのオブザーバー参加の特権をはく奪したばかりなのだ。

「真理愛さんはカニはお好きですか?」

 失意の時に人は自身の空腹には気づかないものであり、そして空腹は人の思考を暗黒空間(ダークサイド)に誘うものである。自ら命を絶つ決断を下したかつてのオレの友人達は、最後に暖かい晩餐の食卓を誰かと囲む機会を得ることが叶わなかった、とオレは若干の苦味とともに確信している。真理愛氏に限ってそんなことはないだろうとオレは思うが、かつての友人達の時にもオレは同じように思ったものであった。カニでもフグでもちゃんこでも良いが、要するに落ち込んだ時には腹を温めるのが一番だ。

「えぇ、カニは好きですわ」


 気になる相手-昔はこういう場合『気になる異性』と言えたらしいが、最近では性が複雑化し過ぎた結果、『気になる相手』という小学生の使うような語法(ワーディング)に頼らざるを得ないのが味気ない-との初デートにカニやチキンレッグを選ぶようではオトコの-ここは『オトコ』で赦して欲しいーセンスを疑わざるを得ないところではあるが、しかし、これは逢瀬(デート)ではなくて会食(ディナーミーティング)であるし、真理愛氏(クライアント)との会食(ミーティング)は初めてではないのだから問題なかろう。

「真理愛さんは、今どちらに?」

「まだ、オフィスの自室におります、わ……」

 1時間後の待ち合わせを約して音声通話(コール)を終えると、行きつけの個室会席料亭を予約した。接待なんてのは契約の取れない営業(セールス)のエクスキューズに過ぎないが、そうは言っても契約を取るために接待をすることくらいオレにだってあるし、そうであれば行きつけの料亭のひとつくらいは用意しておくのが優秀なコンサルタントというものであろう。


******************************


「ちょっと下品な食べ方ではありますけど、カニ刺しはこうやって食べるのが一番だと思うんですよね、私は……」

 新鮮であるがゆえに身離れが良かったであろうカニ脚の、女神の裸身をも思わせるように透き通るような身肉を、そこだけはわざと殻付のまま残された関節部を指先で軽く摘まむと、オレは大きく開いた口を上に向け、下から柔肌に舐りつくようにしてしゃぶってみせる。

「そう、ですわね……お父様に見られたら、叱られそうですけれど……」

 敢えて下品な食べ方を見せるオレに心を許してくれたのか、真理愛氏もこちらに気遣うことなくカニを味わってくれているようだった。

「カニというのは、食べるとつい無口になってしまいまして、すいません本当に……」

 そう言って謝するオレではあるが、その実、カニを選んだのには相応の理由がある。無論、カニは旨いからだ。それ以上でもそれ以下でもない。まぁ、話を聞くのは焼きガニと天ぷらとカニすきと、そうそう〆の雑炊を食べ終わってからでも遅くはなかろう。


「私が役員会を追われたのは6月の役員会でした」

 食後の水菓(デザート)が運ばれる頃になって本題に入るオレに、真理愛氏(ストレイシープ)は今や落ち着いて対応できるようになっていた。

「えぇ、その節は大変失礼いたしました」

 深々と頭を下げる真理愛氏を手で制してオレは核心をつく。無論それは、真理愛氏(CEO)のせいではなかたのだ。

「本日の役員会では、今度は真理愛さんが?」

 どこで選択を誤ったのか、その原因を自問しながら役員会の内容を語る真理愛氏は、その口調にはなお戸惑いの影は残しつつも、理路整然としており本来の知性をすっかり取り戻したようであった。真理愛氏(トップ・マネジメント)の語るところによれば主な要点は3つであった。すなわち真理愛氏は本日を以って最高経営責任者(CEO)の任を解かれることと、明年6月の株主総会を以って役員を退任すること。そして、真理愛氏(ファウンダー)退任後の適当な時期-これは具体的な予定(スケジュール)は今のところ未定らしい-を以って Maria & Co. Biomedics社は新規株式公開(IPO)を行う予定であること。


「理由はやはり……?」」

「えぇ、申し上げにくいのですが……海外市場開拓が」

 3つ目の要点である上場については、1年半ほど前からその方針で進めてきているだけに、真理愛氏(トップ・マネジメント)にも既知のところである。ではあるが、まさかその前に自分が退任させられるとは思っていなかったのであろうから、真理愛氏には心から同情している。だが、まぁ上麗会側にも一理どころか数理はあるのだ。|Maria & Co. Biomedics社ベンチャーに投資を開始して早数年。役員を送り込み(シード)市場を開拓し(フィード)技術開発を継続して(ブリード)、そろそろ収穫(ハーベスト)の時期を迎えてもよい頃合いであろう。幸い、主幹事証券会社の引受審査も概ね好意的に進んでいるところではあるが、そこで指摘されている課題は2点。真理愛氏(トップ・マネジメント)の経営能力と海外市場開拓事業がそれである。要するに、技術者としての真理愛氏(ファウンダー)は高く評価されるものの、上場企業としての安定成長と株主権利の保全を考えた場合には、経営者(CEO)を変えた上で収益性の高い事業に集約することが望ましい、というわけだ。不幸なことにカザフスタンへの販路拡大はオレの提案から3年が経過しても未だ成果たるものを勝ち得ていないのであるが、残念なことにそのことこそが、真理愛氏を経営者の座から引きずり降ろそうとしているのである。


 オレは少し居住まいを正した後で、少しく仰々しい態度で目の前の美人に訊ねた。

「真理愛さん、貴女は貴女の会社を、10年後にはどのような会社になさるおつもりですか?」

「それは初めて麻里亜さんにお会いした時に聞かれた質問でしたわ。価格設定(プライシング)で悩んでいる(ワタクシ)に麻里亜さんがお訊ねにたりましたの。(ワタクシ)は今でも、いえきっと一生、あの日の衝撃を忘れることはありませんわ」

 懐古の微笑を片頬に浮かべながら宣言した彼女は、もう片頬に惜念の陰翳を浮かべて続けた。、

「ですが、もう Maria & Co. Biomedics社は(ワタクシ)のものではありませんの……」

 しばしの余韻を含ませた後、オレはおもむろに告げる。

「しかし真理愛さん、貴女は貴女の会社を1つしか持つことはできない、などという無法を貴女に強いる神はこの世のどこにも存在しないのではないでしょうか?」


 オレは美人とは、泣いていようが怒っていようが悲しんでいようが、美人は美人であることを知っている。しかし今オレの目の前にいる美人を最も美しく魅せるのはやはり、新たな知性を手に入れた際に漆黒の双眸に煌めく無数の輝きであろう。そんな想いを胸に抱きつつ、オレは真理愛氏に続けて問うた。

「そもそも何故、真理愛さんは Maria & Co. Biomedics社を興されたのですか?」

 しばしの沈黙の後。真理愛氏はゆっくりと口を開いた。


「実は(ワタクシ)には3歳年下の弟がおりましたの」

 意外な告白にオレは相槌を打つことすら忘れていたが、そのような無礼は無視したかのように真理愛氏()が続ける。

「類……弟はそう……6歳の誕生日を目前にして亡くなりました。神経系が侵され徐々に視覚や聴覚を失う病気で、有効な治療法も特効薬もなく、最後は病室に並べられた自分の誕生日プレゼントをその目で眺めることも、家族で謳うバースデーソングその耳でを聴くこともできずにそのまま……」

「亡くなった弟さんのために、真理愛さんは薬学の道を志したのですか?」

 ありきたりの質問しか発することのできない無能者(オレ)に、愁いを含んだ瞳を伏せながら、美人が答えた。

「えぇ、その通りですけれど、それだけでは(ワタクシ)はここまではきっと……(ワタクシ)に薬学の道を目指すきっかけを与えたニュースを知ったのは、(ワタクシ)が高校生の時でしたわ」

「その頃に何か、医学・薬学会を騒がすような大きなニュースなどありましたか?」

 頭の中の年表を手繰りながら、我ながら馬鹿馬鹿しい質問を繰り返すしか能の無いオレに、ゆっくりと頭を振りながら真理愛氏が答える。

「いいえ、世間的にはそれほど大きなニュースではありませんでしたわ。ですが、(ワタクシ)にとっては大きな……」

「それは弟さん、類さんに関する……?」

「えぇ、あと数年その薬の開発が早ければ、類が亡くなることはなかったかもしれません。その時に(ワタクシ)は気づきましたの。難病とは人為的なものであることに……」


-あなたにとって最適な薬を提供することに、流行性感冒(フルー)希少難病(レアディズィーズ)の区別はありません-


 そう、Maria & Co. Biomedics社の理念、いや真理愛氏()の想いは、その時から変わらないのであろう。そうであれば……

「例え Maria & Co. Biomedics社の経営権は他人の手に渡ろうとも、真理愛さん(お姉さん)の、貴女のその想いは貴女だけのものであり続けること適うでしょう」

 我ながら陳腐な表現ではあるが、しかしオレの意とするところをはっきりと理解した真理愛氏(ドリーマー)は、真っすぐにオレを見つめながら答えた。

「えぇ、その通りですわ。(ワタクシ)は、私と同じ思いをする方を1人でも減らすために……それはこれからも変わりませんわ」

 経営者の想いに惹かれた仲間が集まって企業(カンパニー)は成長する。経営者の想いが絶えない限り、仲間(カンパニー)は集まり事業(ビジネス)続く(サクセス)のであろう。


「真理愛さん、明日の午後ご予定はありますか?」

「いぇ、特に急ぎの用はありませんけれど……」

 突然の話題変換に若干の戸惑いを見せる真理愛氏ではあるが、嫌な顔は見せずに返答をくれているのは、オレが次に話すであろうことが真理愛氏(クライアント)にとって不利益をもたらすものではないことを経験上理解してくれている-平たく言えばオレを信用してくれている-ことの証左なのであろう。だからオレも安心して話を進めることができる。

「それでは明日、オフィスにお迎えに上がりますが、できれば少しだけフォーマルな装いでお願いします」

「構いませんけど、どちらに?」

 オレの返答は真理愛氏にとっては恐らく、異なる銀河系に輝く未知の恒星系のようなものであったろう。英明な真理愛氏をもっしても、オレの言を理解するのに水晶が2百万回ほど振動することを許したくらいである。

「カザフスタン大使館へ」


 彼女の聞きたいことも思いも解る。もしオレが海外販路開拓など提案していなければ、今日の自分はこのような運命を迎えてはいなかたったのではなかろうか。あるいはまた、もしオレの手の内に大使館の伝手(カード)があるのであれば、何故もっと早くその切り札を切らなかったのであろうか……無論それには理由もあるし、聡明な真理愛氏も薄々は気づいていよう。だからこそやるせなくもあろうし、そして、この手が有効であることも理解るのであろう。何故オレにそのような人脈があるのか、その大使館人脈をどのように活用するつもりなのか、聞きたいことの全てを呑み込んで彼女は一言だけ答えた。

「分かりました。よろしくお願いしますわ」


******************************


「きれいなイルミネーションですね」

 この道はさきほども通った道であったにも関わらず、今初めて目にしたかのような真理愛氏の口ぶりである。いや実際初めて目にしたのであろう。例え同じ道を歩いていたとしても、その視線が後ろ向きや下向きでは煌びやかな景色を目にすることは叶わない。別言すれば、例え逆境にあろうとも、前を向いた者にのみ輝かしい未来は見えるということなのであろう。人が上を向くために人に必要なのは、食事と人の暖かさであることをオレは知っている。

(ワタクシ)、カザフスタンのみなさまとは上手くやっていけそうな気がしておりましたの。あともう少し……お時間さえあれば、と……」

 オレもその意見には全く同感である。大使館人脈などなくとも真理愛氏(ドリーマー)であれば必ずそれを成し遂げるであろう。オレの人脈はただ、その時計の針を少し早く進めるだけのことに過ぎない。だからお世辞でもおべんちゃらでも励ましの言葉でもなく、オレはオレの本心を告げる。

「真理愛さんなら、必ず」


 真理愛氏の瞳が輝いているのは、冬空のイルミネーションだけが原因ではあるまい。思えばオレは、知性が彼女の双眸に煌めく星々の瞬きに、その最初の瞬間から魅せられていたのだ。ジャックの時にオレは『潮時を知る方法を知る』を彼に教えてやることはついぞしなかった。何故ならオレの顧客(クライアント)はあくまでスペースリフト社であって、ジャック・モンティー氏個人ではなかったからだ。結果としてジャックは身を滅ぼすことになったが、それは彼が判断(ジャッジ)を誤ったからであり、オレに彼個人を救ってやる義理はなかった、とオレは今でも信じている。翻って、今のオレはどうだ。オレの顧客(クライアント)は Maria & Co. Biomedics社であって真理愛氏(元CEO)ではない。ではあるが、オレは彼女の瞳に惹かれていることを自覚しているのだから仕方あるまい。まぁせめて明日の朝、今はCEO代行の地位にあるという高田氏(元CFO)にでも契約打ち切りの覚書(辞表)を突き付けてやることにしてやろう。


 オレが、オレ自信を悪徳コンサルと自称する所以である。

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