099_諦めようとした時にはすでに、
諦めているのである。それは心理、そのことを意識した瞬間に一度諦めているのである、諦めなかったように見えるのは、それを再度否定したからであり、そしてそれは常に行われている。
諦めて、諦めることを諦めて、それの繰り返しが幾度となく行われているだけであり、それほど大切なことでも、特別なことでもなく、ただ毎回その度に何かがずれているだけの話であり、信念という立派なものはあり続けることはない、常に途切れているが観測する方がそれを見落としているだけの話であり、故意に無視している場合でもある。
これは自他ともにどちらでもありうることであり、どちらも見落とすい、見つけることもある、ただ覚えている、印象に残しているかどうかは運次第であり、その結果何かが変わったように見える、それも劇的にそうなるかどうかは、これもまたまやかしであり、それはいつものことではある、そこに諦めを持ってくるかどうかもまた、確率の支配するところではあり、どうしようもなく、どうにもならず、どうにかしてしまうことにもなるものである。
楽になりたいのであるならば諦めを自覚すればよい、もしくは諦めてないふりを続けることが良い、どちらにせよ、ズレは発生するので、変わりはない、どうでも良いのであるあちら側にとってはそこに価値はない、楽にならなくとも良い、苦しいままでもやはり情報の一つであるのであるから、あちら側にとって無価値であるものは、全く持って変わらないものであるが、それはこちら側には少ない、皆無である。
均衡することになる、全てがそれになってしまうところまで辿り着いて初めてあちら側がどうにかしなければならないのではないかという反応を引き出すことができるのではあるが、その場合も、全てが全てそうならなければならないのであり、その確率はかなり低く、絶望的に低く、しかし可能性があるならば、実は発生はしている、全てが熱量が死亡する世界は幾度となく訪れているのであり。
時間軸に支配されない制御できるあちら側にとって試行回数は無意味であり、無限に近い設定が可能であり、であるならば、意図的に滅びることもできるのである、するのかしないのかは運であり、自由になるものではない。
がしかし、そのまますぐにどこかでまた産まれてしまうのであるから、実のところ滅亡が日常でもあまり関係ないのである、むしろそれが普通なのである。
ああ、そういうところ、良いなぁ。




