009_違いがあるけど分けれない。
通じないのであるなら、そこが境目であり自我ではないか?という疑問は浮かぶであろうが、それが全ての基本であるなら、特別では無いのである。
情報は常に断裂しているという取り扱いで良いはずである、ようは、あるか無いかで作られているのであるから、その区切りははっきりしていており、同時にどこにでもあるものである。
自我とか自分とか、私とかあなたとか、その手の分類はそれほど大事では無いのである、いやまあ大事にしたいという希望とか習慣はあるのであろうけれども、それは別に特別な物ではなく、基本、わからない、通じないが、デフォルトであるからである。
自分の頭の中で考えた何かを相手にそのまま伝えることができないのであるならば、それがある領域は自我では無いのかという疑問がある。
これは、どの情報もそのまま伝えることは不可能であるという事実によって重要度が下がってしまうことになる。伝わらないことが普通なのである、そこに特別性な何かはない。
ただ、その深さ、範囲、振動数?のようなものは独特にはなっているわけであり、その辺りを自我と呼ぶことになっているわけではあるが、それはそれほど強固ではなく、むしろたえず揺らいでいるような物質である。
当たり前の話であり、多種多様な情報がそこを行き交って干渉しあっているそのエネルギーとかベクトルとかその手の力が表出しているだけの話であるからである。
それでも、私と貴方は違う、私は私であるという認識はあるし出てくることが普通である、そうはそうなのである、私の考えは、そのままには、貴方に伝わらないことは確かであるから。
ただそれは別に特別ではなく、全ての情報に言えるわけであり、それを自我と呼んでしまうのであるならば、独立した情報、語句、文章やら、映像やら、音楽やら、その他諸々のアレやこれやにも、自我があるということになる。
いや自分で思考しているのであるからそれは違うのではないかという話でもあるが、実のところ思考というものはしていない、自ら考えているということは、これは無いのである。ただ情報が反響しあっているだけであり、入出力を行っているだけである。
データを処理しているのではという反論は、すでに解説したはずである。
自らが考えている、判断している、思考している、から、自分がある、自我があるというならば、それは実はしていないのであるから、やはり自我はないと、言うしかないのである。
まあ、乱暴な話ではある。