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008_当たり前に自我はない。

 多くの哲学者がたどり着いている答えではあるが、自我というものは存在しない。


 少なくともそう見ることができる見立ては存在すると言った方が正しいが、これはまあすでに当たり前の現実ではあり事実であり真実であり、誤魔化しでもある。


 周囲の情報が脳みそに入ってきて、それがさまざまに干渉しあい、出ていくだけの話であり、それはどうやっても、自分でコントロールできるものではない。


 取捨選択をしているのではという疑問に対しては、その取捨選択のルールを作り上げるのにも周囲の情報に影響されているという、だけで対応できてしまう。


 ただ、どうしようもなく制御もできず、どう育成するのかもままならないものを自我と呼ぶのならば、それは自我と呼べるという話であり、要は、どうそれを定義付けるのかというレベルの話でしかない。


 妥協の産物ではあり、それは別に悪いことではなく、もちろん良いことでもなく、ただの方便であり、都合が良いのでそうしているだけの話であり、ある意味、そういう情報に縛られている結果でもある。


 主体は脳みそやらそこに付随する自我とか自意識とか人格とかではなく、そこを通る、影響させる、情報そのものであり、それは、別に意味のあるものでなくとも良いのである。


 ただそこにあるかないかといデジタルな、信号が、全てであり、そして所詮それほどのものでしかないのである。


 私はどこにいるのかというならば、どこにもおらず、またどこにでもいる、定義の問題であり他の情報との兼ね合いでしかなく、そもそも悩むようなものではないわけであり、どうしようもないものである、いやまあ、誤魔化しようはあるものであると言い換えても良い。


 ただそれに囚われるかどうかもまたどうしようもないものではある、無力感を得てしまうことも、それをとりあえず棚に上げて思考を続けてしまうことも、どちらも選択することは可能であり、しかしその選択のきっかけを得られるかどうかも、入力される情報次第ではある。


 少なくともこの文章を読んだものには、選択の機会が得られる可能性は高い、どちらを選んでも良いなら、都合の良い方を選べば良いという、情報が手に入るからであり、それほど大したことではないという事実を知ることができたわけではあるから、つまりは、運が良い、のかもしれず、もしくは、余計なことを知ってしまったので運が悪いとも言える。


 立場やら環境やら、そこに至る歴史的な流れやら、あれやこれやの要因によって、それを利益と呼ぶのか不利益と呼ぶのか、副音と呼ぶのか雑音と呼ぶのかは、まあ自由ではあり、そしてその自由もまた運次第でコロコロ変質するものである。


 大したものではないのだよ、そして、同時に大したものであるのだよ。



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