006_無理解やら誤解を食べる。
伝わらないという現象そのものを食べるとはどういうことであるのか?
食事に例えたのではあるけれども熱量を消費しているといった方が正しのであろうかなという想像がある、ようは、伝わらないことによって生まれる何かを消費しているというわけであり、ただそれは見方によっては生産しているようにも見えるわけであり。
誤解やら誤読やらイメージのずれやらが何を生み出しているのかというならば、それはそのままずれそのものであることもあるのであるけれども、それよりも熱量が高いものとして新たな発想、直感、ひらめきがそれに当たっている、のである。
いやまあ、勘違いと言い換えても良いのかもしれないけれども、思考がさらに思考を呼ぶような、連想、想像力の発露とかそういうものを、食べるものがいるわけであり、実際に食べて消費しているわけではなく、というのも連想した結果やら発想やら想像したイメージを消費しているわけではなく、その情報の動きそのものが栄養になるというか、もっというならば、その情報の動きそのものが生き物の本体であるのであり、それを成し遂げるための誤解やら勘違いが、餌というわけであるのである。
そうなのである、今我々が持っている、うちから湧き出ているのではなかろうかという妄想、妄言、発想、直感、連想、想像、思い描く何かは生き物であるのである、生物なのである、ただそれはそのまま生き物ではなく、それを下敷きにした、関連させた、何かの行動の結果であり、それそのものではないのである。
我々が足で歩くようなものなのである、歩くという行為が想像するということであり、それを成しているものが、足がそれを動かす命令を出している脳みそが、それを支える各種器官が、生き物の本尊であると同じように、想像するという行為をなす何かを支えるものが生き物としての総体であるわけで、いやそれは脳みそではないかというと、それはそれの一面でしかなく、というか、脳みそはただの通り道とか反応をさせるための、ボールを投げつけるための壁に過ぎないような、そんな生き物というイメージなのである。
情報そのものが生き物であるという言い方が近いのではあるけれども、それもまた違うわけであり、情報をという行為を生み出している何かが主体なのである、何かが行動した結果生まれるものが情報であり、そしてその情報がまた、栄養、熱源、エネルギーになっている。
細かくいうならば、情報の差異がその位置エネルギーのようなものが、それを生かしている、のではなかろうかという発想なのである。
いやだから、それは脳みそではないのかという話になりそうではあるのであるが、そのような、細かい括りではない、という反論ができるのであるな。