030_感情も知性もそう変わりない。
感情に走るも冷静に行動するもそれほどの違いはない、つまりは情報的なエネルギーという意味合いではということではある。
性質が正反対ではなかろうかという意見は正しいが、この場合は、ベクトルの向きではなく量が問題になるという話ではある、ただどちらも根本的にはコントロールができるものではないということは念頭に置いておかなければならない。
感情のコントロールができないのはわかりやすいものではある、これは見た目にもよく観察できるものではある、支離滅裂であったり論理的に破綻していたり、意味のない叫びによって、言葉を読み解くことによって明らかにされる。
では理性のコントロールができていないというのはどういうことであるかというとその前提となる情報の入力が運に左右されるということである、さらにはその判断基準も環境状況歴史的背景そこまでの流れによって、千差万別であるからである。
どちらが正しいのかという問題ではなく、どちらも正しくはないという問題でもなく、それは現象であるので、そのまま受け入れる必要がある、いや、受け入れなくとも良いが、結果はそれほどかわらない、コントロールができないという点では同じものである。
さらには、根源として、行動の大元として感情と理性を持ってこようとする見立てもあるのではあるが、そこに至るまでに既にかなり歪んでしまっている、誤情報として伝わってしまっている、正確に把握することができないということは、今までの論調から確かであるわけであり。
どうしようもなく正しくない情報を地盤にして建物を建ててもそれはいずれ崩壊するしかないのである、持っているように見えるのは、それは視野が狭い、時間的なスパンを考慮していないからであり、そして、それで十分であるというある種の妥協とか諦めの産物ではある、別に諦めるのは悪くはない、よくもない、そこのあたりの評価はまた別の話ではあり、どちらにせよそれをコントロールすることはできない。
無力感に襲われてもどうしようもなくただ受け入れるしかないという諦めが実のところ心の安寧を得るには必要な作業ではある、それに反発し、思考をさらに深め行動をすることは、別に無駄ではない、もしくは全て等く無駄ではあるので、価値としては平等である、とも言える。
その辺りは趣味の範疇であると言い切って良い、どうにもならない、自由にならない、制御が不可能である、という認識の上で、あえて、どうにかしようとするのは、これはもう、そういう趣味であると言ってもそれほど間違いではない。
私も結構な趣味人ではある。




